1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)
 
 

4月1日 己巳
  北條より鎌倉に御帰着。籐九郎盛長盃酒を献る。夜に入り北面の屋に於いてこの儀有
  り。行平・政義・忠常・季隆・国延等を召し、御前に於いて鹿皮(各々三枚)を給う。
  去る比伊豆の国に於いて射取る所の鹿か。
 

4月3日 辛未
  尾張の国住人大屋の忠三安資、その功有るに依って、元の如く所帯を管領す。剰え国
  中の狼唳を鎮むべきの由、御下文を給う。筑前の三郎これを奉行す。当国の輩悉く以
  て平氏に順うの処、安資和田の小太郎義盛の聟として、独り源家に候すの間此の如し。
 

4月4日 壬申
  御亭の庭の桜開敷艶色其濃なり。仍って中宮の亮能保朝臣を招請し申さる。相共に終
  日この花を翫ばしめ給う。前の少将時家その座に接る。また管弦詠歌の儀有り。
 

4月6日 甲戌
  池前の大納言並びに室家の領等は、平氏の没官領の注文に載せ、公家より下さると。
  而るに故池の禅尼の恩徳に酬いんが為、彼の亜相の勅勘を申し宥め給うの上、件の家
  領三十四箇所を以て、元の如く彼の家の管領たるべきの旨、昨日その沙汰有り。これ
  を辞せしめ給う。この内信濃の国諏訪社に於いては、伊賀の国六箇山に相替えらると。
   池大納言の沙汰
    走井庄(河内)   長田庄(伊賀)   野俣道庄(伊勢)
    木造庄(伊勢)   石田庄(播磨)   建田庄(同)
    由良庄(淡路)   弓削庄(美作)   佐伯庄(備前)
    山口庄(但馬)   矢野領(伊豫)   小島庄(阿波)
    大岡庄(駿河)   香椎社(筑前)   安富領(同)
    三原庄(筑後)   球磨臼間野庄(肥後)
   右庄園拾七箇所、没官の注文に載せ、院より給い預かる所なり。然れども元の如く
   彼の家の沙汰として、知行有らんが為、勒状件の如し。
      壽永三年四月五日

   池大納言家の沙汰
    布施庄(播磨)     龍門庄(近江)   安摩庄(安藝)
    稲木庄(尾張)
     以上由緒有りと
    乃邊長原庄(大和)   兵庫三ヶ庄(摂津) 石作庄(同)
    六人部庄(丹波)    熊坂庄(加賀)   宗像の社(筑前)
    三ヶ庄(同)      眞清田庄(尾張)  服織庄(駿河)
    国富庄(日向)
     以上八條院御領
    麻生大和田領(河内)  諏訪社(信濃、伊賀六箇山に相替えられをはんぬ。)
     以上女房御領
   右庄園拾陸箇所、注文此の如し。本所の沙汰に任せ、彼の家元の如く知行有らんが
   為、勒状件の如し。
      壽永三年四月六日
 

4月7日 乙丑 天晴 [玉葉]
  雅頼卿来たり、世上の事を談る。頼朝卿後見史大夫清業、去る比納言の許に来たり語
  りて云く、下官の事、頼朝存堅の事を推挙すと。奏聞の日、八幡(頼朝奉祝と)の宝
  前に於いて、能く祈念致すの後、廣元に仰せこれを書せしむと。
 

4月8日 丙子
  本三位中将伊豆の国より鎌倉に来着す。仍って武衛郭内の屋一宇を点じ、これに招き
  入れらる。狩野の介一族郎従等、毎夜十人結番せしめこれを守護す。
 

4月10日 戊寅
  源九郎の使者京都より参着す。去る月二十七日除目有り。武衛正四位下に叙し給うの
  由これを申す。これ義仲追討の賞なり。彼の聞書を持参す。この事、藤原秀郷朝臣天
  慶三年三月九日、六位より従下四位に昇るなり。武衛の御本位は従下五位なり。彼の
  例に准えらると。また忠文(宇治民部卿)の例に依って、征夷将軍の宣下有るべきか
  の由、その沙汰有り。而るに越階の事は、彼の時の准拠然るべし。將軍の事に於いて
  は、節刀を賜い、軍監軍曹に任ぜらるるの時、除目を行わる。今度の除目に載せらる
  の條、始めてその官を置くに似たり。左右無く宣下せられ難きの由、諸卿群議有るに
  依って、先ず叙位と。
 

4月11日 己卯 快霽
  新典厩(能保、去る月二十七日任ず)鶴岡八幡宮に参らる。これ慶びを申さるが由な
  り。次いで御亭に参り謁せらる。
 

4月14日 壬午
  源民部大夫光行・中宮大夫屬入道善信(俗名康信)等、京都より参着す。光行は、豊
  前の前司光季平家に属くの間、これを申し宥めんが為なり。善信は、本よりその志関
  東に在り。仍って連々恩喚有るが故なり。
 

4月15日 癸未
  武衛鶴岡に参り給う。御供を奉らるの後、廻廊に於いて屬入道善信に対面し給う。当
  所に参住せしめ、武家の政務を補佐すべきの由、厳密の御約諾に及ぶと。時に光行彼
  の所に推参するの間、言談を止めらると。善信は甚だ穏便の者なり。同道の仁、頗る
  無法の気有るかの由、内々仰せらると。
 

4月16日 甲申
  改元。壽永三年を改め元暦元年と為す。

[玉葉]
  この日改元の事有り。去年その儀有りと雖も、即位以前たるに依って、遂げられずと。
  然れども天下猶静まらざるの間、即位また急行せられ難し。年を踰えるの後すでに数
  月に及ぶ。仍って乱逆止まざるに依って、即位以前行わるる所なり。
  俊経卿(大應・弘治・大喜)、兼光卿(元徳・文治)、光範朝臣(元暦・恒久・承寛)、
  業實朝臣(顕寛・應暦)。
 

4月18日 丙戌
  殊なる御願に依って、下総権の守為久に仰せ下し、正観音像を図絵し奉らる。為久束
  帯を着しこれを役す。潔斎すでに百日に満ち、今日これを始め奉ると。武衛また御精
  進。観音品を読誦し給うと。
 

4月20日 戊子 雨降る。終日休止せず。
  本三位中将、武衛の御免に依って沐浴の儀有り。その後秉燭の期に及び、徒然を慰め
  んが為と称し、籐判官代邦通・工藤一臈祐経、並びに官女一人(千手前と号す)等を
  羽林の方に遣わさる。剰え竹葉上林已下を副え送らる。羽林殊に喜悦し、遊興刻を移
  す。祐経鼓を打ち今様を歌う。女房琵琶を弾き、羽林横笛を和す。先ず五常楽を吹く。
  下官の為には、これを以て後生楽と為すべきの由これを称す。次いで皇ショウ急を吹
  く。往生急と謂う。凡そ事に於いて興を催さざると云うこと莫し。夜半に及び女房帰
  らんと欲す。羽林暫くこれを抑留し、盃を與え朗詠に及ぶ。燭暗くすは数行虞氏の涙、
  夜深けては四面楚歌の声と。その後各々御前に帰参す。武衛酒宴の次第を問わしめ給
  う。邦通申して云く、羽林は、言語と云い芸能と云い、尤も以て優美なり。五常楽を
  以て後生楽と謂い、皇ショウ急を以て往生急と号す。これ皆その由有らんか。楽名の
  中、廻忽と云うは元廻骨と書く。大国葬礼の時この楽を調ぶと。吾囚人として誅せら
  るるを待つの條、存在旦暮の由が故か。また女房帰らんと欲するの程、猶四面楚歌の
  句を詠じ、彼の項羽過異の事、折節思い出すかの由これを申す。武衛殊に事の躰を感
  ぜしめ給う。世上の聞こえを憚るに依って、吾その座に臨まず。恨みたるの由仰せら
  ると。武衛また宿衣一領を千手前に持たしめ、更に送り遣わさる。その上祐経を以て、
  辺鄙の士女還ってその興有るべきか。御在国の程、召し置かるべきの由これを仰せら
  る。祐経頻りに羽林を憐む。これ往年小松内府に候すの時、常にこの羽林を見るの間、
  今に旧好を忘れざるか。


4月21日 己丑
  去る夜より、殿中聊か物騒す。これ志水の冠者武衛の御聟たりと雖も、亡父すでに勅
  勘を蒙り戮せらるるの間、その子として、その意趣尤も度り難きに依って誅せらるべ
  きの由、内々思し食し立つ。この趣を昵近の壮士等に仰せ含めらる。女房等この事を
  伺い聞き、密々姫公の御方に告げ申す。仍って志水の冠者計略を廻らし、今暁遁れ去
  り給う。この間女房の姿を仮り、姫君御方の女房これを圍み郭内を出しをはんぬ。馬
  を隠し置き、他所に於いてこれに乗らしむ。人に聞かしめざらんが為、綿を以て蹄を
  裹むと。而るに海野の小太郎幸氏は、志水と同年なり。日夜座右に在って、片時も立
  ち去ること無し。仍って今これに相替わり、彼の帳臺に入り宿衣の下に臥し、髻を出
  すと。日闌て後、志水の常の居所に出て、日来の形勢を改めず、独り双六を打つ。志
  水双六の勝負を好み、朝暮これを翫ぶ。幸氏必ずその相手たり。然る間殿中の男女に
  至るまで、ただ今に坐せしめ給うの思いを成すの処、晩に及び縡露顕す。武衛太だ忿
  怒し給う。則ち幸氏を召し禁しめらる。また堀の籐次親家已下の軍兵を方々の道路に
  分け遣わし、討ち止むべきの由を仰せらると。姫公周章し魂を鎖しめ給う。
 

4月22日 庚寅
  民部大夫光行、また豊前の前司、平家の悪事に與す。免許を蒙るべきの由、御書を源
  九郎主に遣わさると。
 

4月23日 辛卯
  下河邊の四郎政義は、戦場に臨み軍忠を竭し、殿中に於いて労功を積む。仍って御気
  色殊に快然なり。就中、三郎先生義廣謀叛の時、常陸の国の住人等、小栗の十郎重成
  の外、或いは彼の逆心に與し、或いは奥州に逐電す。政義最初より御前に候せしむる
  に依って、当国南郡を以て政義に宛て賜うの処、この一両年、国役連続するの間、事
  に於いて諧わざるの由、筑後権の守俊兼に属きこれを愁い申す。仍って芳志に随うべ
  きの由、慇懃の御書を常陸の目代に遣わさる。
   常陸国務の間の事、三郎先生謀叛の時、当国の住人、小栗の十郎重成を除くの外、
   併しながら彼の反逆に勧誘せられ、御方を射奉り、或いは奥州に逃げ入る。此の如
   きの間、当国南郡を以て下河邊の四郎政義に宛て給いをはんぬ。この一両年上洛し、
   度々の合戦に忠節を竭しをはんぬ。而るに南郡の国役責勘の間、地頭の得分と云い、
   代官の経廻と云い、事に於いて合期せざるの由歎き申す所なり。彼の政義は、殊に
   糸惜み思し食す者なり。有限の所当官物、恒例の課役の外、芳意を施せしめ給うべ
   く候。所当官物に於いては、懈怠無く勤仕せしむべきの旨、仰せ含められ候いをは
   んぬ。定めてその沙汰を致せしめ候か。地頭職の所当官物、対捍の儀無くば、何れ
   の輩と雖も何ぞその煩い候や。この旨を以て申し触れしむべきの旨、鎌倉殿仰せ候
   所なり。仍って執達件の如し。
     四月二十三日         俊兼(奉る)
  [謹上] 常陸御目代殿
 

4月24日 壬辰
  賀茂社領四十一箇所、院の廰の御下文に任せ、武家の狼藉を止むべきの由、その沙汰
  有り。

[玉葉]
  今日隆職来たり、密々の事等を語る。頼朝下官の事を申せしむ。深い意趣等有り。そ
  の事を申さんと欲し、七ヶ日八幡宮(頼朝祈り奉祝の所と)に参籠するの後、宝前に
  於いて折紙を書き進上せしむと。偏に天下の事を思うに依って申せしむと。
 

4月26日 甲午
  堀の籐次親家郎従籐内光澄帰参す。入間河原に於いて志水の冠者を誅するの由これを
  申す。この事密儀たりと雖も、姫公すでにこれを漏れ聞かしめ給い、愁歎の余り、奬
  水を断たしめ給う。理運と謂うべし。御台所また彼の御心中を察するに依って、御哀
  傷殊に太だし。然る間殿中の男女多く以て歎色を含むと。
 

4月27日 雨降る [吉記]
  平氏猶強々と。鎮西の輩松浦党已下少々属くの由風聞すと。
 

4月28日 丙申
  平氏西海に在るの由風聞す。仍って軍兵を遣わさる。征罰無事の御祈祷の為、淡路の
  国廣田庄を以て廣田社に寄附せらる。その御下文、前の齋院次官親能が上洛の便宜に
  付け、神祇伯仲資王に遣わせらるべしと。
   寄進 廣田社神領の事
    在淡路の国廣田領一所
   右、神威を増し、殊なる祈祷を存ぜんが為、寄進件の如し。
     壽永三年四月二十八日      正四位下源朝臣

[玉葉]
  伝聞、荒聖人聞覺・公朝等、一昨日夕入洛す。今日、件の聖人参院すと。件の聖人を
  以て余の事猶院に申すと。実にこれ明神の加護か。将又不祥の根元か。

[吉記]
  伝聞、丹波侍従忠房、去る比密々関東に下向す。武衛の松容を伺わんと為す。一日比
  可許を蒙り帰洛すと。もしこれ小松大臣子孫事有るべきかの由称せしむ事か。
 

4月29日 丁酉
  前の齋院次官親能使節として上洛す。平家追討の間の事、西海に向かいこれを奉行す
  べしと。土肥の次郎實平・梶原平三景時等同じく首途す。兵船を調え置き、来六月海
  上和気の期に属き、合戦を遂ぐべきの由仰せ含めらると。

[玉葉]
  坂東の荒聖人聞覺、今日参院す。広座に於いて種々の荒言を吐くと。