5月1日 戊子
故志水の冠者義高の伴類等、甲斐・信濃等の国に隠居せしめ、叛逆を起こさんと擬す
の由風聞するの間、軍兵を遣わし征罰を加えらるべきの由、その沙汰有り。足利の冠
者義兼・小笠原の次郎長清御家人等を相伴い、甲斐の国に発向すべし。また小山・宇
都宮・比企・河越・豊島・足立・吾妻・小林の輩、信濃の国に下向せしめ、彼の凶徒
を捜し求むべきの由定めらると。この外、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人等、
同じくこれを相催し、今月十日進発すべきの旨、義盛・能員等に仰せらると。
5月2日 己丑
志水の冠者誅戮の事に依って、諸国の御家人馳参す。凡そ群を成すと。
5月3日 庚寅
武衛両村を二所大神宮に寄附し奉らる。去る永暦元年二月御出京の刻、霊夢を感ずる
の後、当宮の事、御信仰他社に異なり。然れば平家の当類等、伊勢の国に在るの由風
聞せしむに依って、軍士を遣わすの時は、縦え凶賊の在所たりと雖も、事の由を祠官
に相触れず、左右無く神明御鎮座の砌に乱入すべからざるの旨、度々仰せ含めらる所
なり。件の両所と謂うは、内宮御分武蔵の国飯倉の御厨、当宮一の禰宜荒木田成長神
主に仰せ付けらる。外宮御分安房の国東條の御厨、會賀次郎大夫生倫に付けられをは
んぬ。一品房の奉行として、両通の御寄進状を遣わす。彼の東條の御厨の事、先日御
寄進状を付けらると雖も、去年十一月、禰宜等請文を捧ぐと。状跡相応せずと。甘心
せざるか。この上は何様たるべきやの由御猶予の処、御心中の祈願納得のこと、偏に
神の御冥助を蒙るの旨、いよいよ以て御信心を催す。而るに折節生倫参候するの間、
御願の旨趣を載せ、御書(この寄進状の外なり)を生倫に賜う。生倫衣冠を正し、御
所に参りこれを給う。御寄進状に云く、
寄進 伊勢皇太神宮御厨壹処
在武蔵の国飯倉
右志は、朝家安穏の奉為、私願を成就せんが為、殊に忠丹を抽んで寄進状件の如し。
壽永三年五月三日 正四位下前の右兵衛の佐源朝臣
寄進 伊勢太神宮御厨一処
在安房の国東條
四至旧の如し。
右志は、朝家安穏の奉為、私願を成就せんが為、殊に忠丹を抽んで寄進状件の如し。
壽永三年五月三日 正四位下前の右兵衛の佐源朝臣
[平家物語]
池の大納言頼盛関東へ下り給ふ。頼朝代にあらん限りは、いかにも宮仕ふべし。故尼
御前の御恩をば、大納言殿に報じ奉るべしと、八幡大菩薩をかけ奉て、誓文をして度
々申されければ、落残り給ひけり。
5月12日 己亥 雷雨
雑色時澤使節として上洛す。これ園城寺長吏僧正房覺痢病危急の由その聞こえ有るに
依って、訪い申さるるが故なり。武衛日来御祈祷等の事を仰せ付けらると。
5月15日 壬寅
申の刻、伊勢の国の馳駅参着す。申して云く、去る四日、波多野の三郎・大井兵衛次
郎實春・山内瀧口三郎、並びに大内右衛門の尉惟義家人等、当国羽取山に於いて、志
田三郎先生義廣と合戦す。殆ど終日に及び雌雄を争う。然れども遂に義廣の首を獲る
と。この義廣は、年来叛逆の志を含み、去々年軍勢を率い、鎌倉に参らんと擬すの刻、
小山の四郎朝政これを相禦ぐに依って、成らずして逐電し、義仲に属かしめをはんぬ。
義仲滅亡の後また逃亡す。曽ってその存亡を弁えざるの間、武衛の御憤り未だ休まざ
るの処、この告げ有り。殊に喜ばしめ給う所なり。
5月19日 丙午
武衛池亜相(この程鎌倉に在り)・右典厩等を相伴い、海浜を逍遙し給う。由比浦よ
り御乗船、杜戸の岸に着かしめ給う。御家人等面々舟船を餝り、海路の間、各々棹を
取り前途を争う。その儀殊に興有るなり。杜戸の松樹の下に於いて小笠懸有り。これ
士風なり。この儀非ずんば、他の見物有るべからざるの由、武衛これを仰せらる。客
等太だ入興すと。
5月21日 戊申
武衛御書を泰経朝臣に遣わさる。これ池前の大納言・同息男、本官に還任せらるべき
事、並びに御一族源氏の中、範頼・廣綱・義信等、一州の国司を聴せらるべき事、内
々計り奏聞せらるべきの趣なり。大夫屬入道この御書を書き、雑色鶴太郎に付すと。
5月24日 辛亥
左衛門の尉籐原朝綱伊賀の国壬生野郷の地頭職を拝領す。これ日来平家に仕うと雖も、
懇志関東に在るの間、潛かに都を遁れ出て参上す。その功に募り、宇都宮社務職相違
無きの上、重ねて新恩を加えらると。