1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)
 
 

6月1日 戊午
  武衛池前の亜相を招請し給う。これ近日帰洛有るべきの間、餞別せんが為なり。右典
  厩並びに前の少将時家等御前に在り。先ず三献。その後数巡す。また相互に世上の雑
  事等を談らる。小山の小四郎朝政・三浦の介義澄・結城の七郎朝光・下河邊庄司行平
  ・畠山の次郎重忠・橘右馬の允公長・足立右馬の允遠元・八田の四郎知家・後藤新兵
  衛の尉基清等、召しに応じ御前の簀子に候す。これ皆京都に馴れるの輩なり。次いで
  御引出物有り。先ず金作の劔一腰、時家朝臣これを伝う。次いで砂金一嚢、安藝の介
  これを役す。次いで鞍馬十疋を引かる。その後客の扈従者を召し、また引出物を賜う。
  武衛先ず彌平左衛門の尉宗清(左衛門の尉季宗男)を召す。平家の一族なり。これ亜
  相下着の最初、尋ね申さるの処、病起こるに依って遅留するの由、答え申さるの間、
  定めて今は下向せしむかの由、思案せしめ給うが故か。而るに未だ参着せざるの旨、
  亜相これを申さる。太だ亭主の御本意に違うと。この宗清は、池の禅尼の侍なり。平
  治有事の刻、志を武衛に懸け奉る。仍ってその事を報謝せんが為、相具し下向し給う
  べきの由仰せ送らるるの間、亜相城外の日、この趣を宗清に示す処、宗清云く、戦場
  に向わしめ給わば、進んで先陣に候すべし。而るに倩々関東の招引を案ずるに、当初
  の恩に酬いられんが為か。平家零落の今参向するの條、尤も恥を存ずるの由を称し、
  直に屋島の前の内府に参ると。
 

6月4日 辛酉
  石河兵衛判官代義資関東に参着す。朝夕官仕を致すべきの由これを申す。これ去る養
  和元年、平家の為生虜らるる所の河内源氏の随一なり。近年は、また義仲が為に襲わ
  れ、太だ度を失うと。而るに武衛これを執り申さるるに依って勅勘を免ず。去る三月
  二日、右兵衛の尉元の如しの由宣下せらると。
 

6月5日 壬戌
  池前の大納言帰洛せらる。武衛庄園を亜相に辞せしめ給う上、逗留の間、連日竹葉に
  宴酔を勧め、塩梅に鼎味を調え、これを献ぜらるる所、また金銀数を尽くし、錦繍色
  を重ねるものなり。
 

6月16日 癸酉
  一條の次郎忠頼威勢を振うの余り、濫世の志を挿むの由その聞こえ有り。武衛又これ
  を察せしめ給う。仍って今日営中に於いて誅せらるる所なり。晩景に及び、武衛西侍
  に出で給う。忠頼召しに依って参入し対の坐に候す。宿老の御家人数輩列座す。献盃
  の儀有り。工藤一臈祐経銚子を取り御前に進む。これ兼ねてその討手に定められをは
  んぬ。而るに殊なる武将に対し、忽ち雌雄を決するの條、重事たるの間、聊か思案せ
  しむか。顔色頗る変わりしむ。小山田別当有重彼の形勢を見て座を起ち、此の如き御
  杓は、老者の役たるべしと称し、祐経が持つ所の銚子を取る。爰に子息稲毛の三郎重
  成・同弟榛谷の四郎重朝等、盃肴物を持ち、忠頼の前に進み寄る。有重両息に訓えて
  云く、陪膳の故実は上括なりてえり。持つ所の物を閣き括を結ぶの時、天野の籐内遠
  景別の仰せを承り、太刀を取り忠頼が左方に進み、早く誅戮しをはんぬ。この時武衛
  御後の障子を開き入らしめ給うと。その後、忠頼の共侍新平太並びに同甥武藤の與一、
  及び山村の小太郎等、地下より主人の伏死を見て、面々太刀を取り、侍の上に奔り昇
  る。縡楚忽に起こり、祇候の輩騒動し、多く件の三人の為に疵を被ると。すでに寝殿
  の近処に参る。重成・重朝・結城の七郎朝光等これに相戦い、新平太・與一を討ち取
  りをはんぬ。山村は遠景と戦わんと擬す。遠景一箇間を相隔て、魚板を取りこれを打
  つ。山村縁下に顛倒するの間、遠景郎従その首を獲ると。

[玉葉]
  或いは云く、平氏の党類、備後の国に在るの官兵を追い散らすと。土肥の二郎實衡(頼
  朝郎従なり)息男早川の太郎と。仍って播磨の国に在るの梶原平三景時(同郎従)、
  備前の国に越えをはんぬ。その隙を聞き、平氏等少々室泊に来着し焼き払うと。仍っ
  て京都の武士等を催し遣わさると。凡そ追討の間、沙汰太だ泥の如し。大将軍遠境に
  在り。公家の事沙汰に人無し。ただ天狗万事を奉行するの比なり。沙汰無し。祈祷無
  し。何を以て安全を期すべきや。
 

6月17日 甲戌
  鮫嶋の四郎を御前に召し、右手の指を切らしめ給う。これ昨日騒動の間、御方討ちの
  罪科有るが故なり。

[玉葉]
  平氏その勢強しと。京勢僅かに五千騎に及ばずと。
 

6月18日 乙亥
  故一條の次郎忠頼の家人甲斐の小四郎秋家を召し出さる。これ歌舞の曲に堪える者な
  り。仍って武衛芳情を施し、官仕を致すべきの由仰せ出さると。
 

6月20日 丁丑
  去る五日小除目を行わる。その除書今日到来す。武衛申せしめ給う任人の事相違無し。
  所謂権大納言頼盛・侍従同光盛・河内の守同保業・讃岐の守籐の能保、参河の守源範
  頼・駿河の守同廣綱・武蔵の守同義信と。
 

6月21日 戊寅
  武衛範頼・義信・廣綱等を召し聚め勧盃有り。次いで除目の事を触れ仰せらる。各々
  喜悦せしむか。就中、源九郎主頻りに官途の吹挙を望むと雖も、武衛敢えて許容せら
  れず。先ず蒲の冠者を挙し申さるるの間、殊にその厚恩を悦ぶと。

[玉葉]
  伝聞、頼朝の上洛八月と。
 

6月23日 庚辰
  片切の太郎為安信濃の国よりこれを召し出さる。殊に憐愍せしめ給う。これ父小八郎
  大夫は、平治逆乱の時、故左典厩の御共たるの間、片切郷は、平氏の為収公せられ、
  すでに二十余年手を空うす。仍って今日元の如く領掌すべきの由仰せらると。

[玉葉]
  晩に及び右中弁行隆来たり。簾前に召し大仏の間の事を問う。答えて云く、御身に於
  いては皆悉く鋳奉りをはんぬ。来月の内その功を終うべし。その後滅金を塗り奉り、
  開眼有るべきなり。滅金の料金、諸人の施入少々有るの上、頼朝千両、秀平五千両奉
  加の由承る所なりと。(中略)また語りて云く、平氏の勢太だ強し。源氏の武士等気
  色を損じをはんぬ。大略平氏落ちるの時の如し。決定大事出来すかと。
 

6月27日 甲申
  堀の籐次親家の郎従梟首せらる。これ御台所の御憤りに依ってなり。去る四月の比、
  御使として志水の冠者を討つが故なり。その事已後、姫公御哀傷の余り、すでに病床
  に沈み給い、日を追って憔悴す。諸人驚騒せざると云うこと莫し。志水が誅戮の事に
  依って、この御病有り。偏に彼の男の不儀に起こる。縦え仰せを奉ると雖も、内々子
  細を姫公の御方に啓さざるやの由、御台所強く憤り申し給うの間、武衛遁れ啓すこと
  能わず。還って以て斬罪に処せらると。