1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)
 
 

7月2日 戊子
  成就院僧正房の使者、去る夜戌の刻参着す。これ寂楽寺の僧徒、高野山領紀伊の国阿
  弖河庄に乱入せしめ、非法狼藉を致すの由訴え申すに依ってなり。則ち当山結界の絵
  図、並びに大師御手印の案文等を進覧す。筑後権の守俊兼御前に於いてこれを釈し申
  す。凡そ吾が朝弘法は、大師の聖跡たるの由を称す。武衛御信仰有るの間、不日に沙
  汰を経られ、狼藉を止むべきの旨、御書を下さる。その状に云く、
          [花押]
   下す 紀伊の国阿弖河庄
     早く旁々の狼藉を停止し、旧の如く高野金剛峯寺領たるべき事
   右件の庄は、大師の御手印官符の内の庄なり。而るに今寂楽寺濫妨を致すと。事実
   ならば穏便ならざる事か。御手印の内、誰か異論を成すべきや。早く彼の妨げを停
   止し、旧の如く金剛峯寺領たるべきの状件の如し。
     元暦元年七月二日
 

7月3日 己丑
  武衛前の内府已下平氏等を追討せんが為、源九郎主を以て西海に遣わすべき事、仙洞
  に申さると。
 

7月5日 辛卯
  大内の冠者惟義の飛脚参着す。申して云く、去る七日伊賀の国に於いて、平家の一族
  等の為襲わるるの間、相恃む所の家人、多く以て誅戮せらると。茲に因って諸人馳参
  し、鎌倉中騒動すと。
 

7月8日 甲午 晴 [玉葉]
  伝聞、伊賀・伊勢の国人等謀叛しをはんぬ。伊賀の国は、大内の冠者(源氏)知行す
  と。仍って郎従等を下し遣わし国中に居住せしむ。而るに昨日辰の刻、家継法師(平
  家の郎従、平田入道と号す)大将軍として、大内の郎従等悉く伐ち取りをはんぬ。ま
  た伊勢の国、信兼(和泉の守)已下鈴鹿山を切り塞ぎ、同じく謀叛しをはんぬと。こ
  の事に因って院中物騒す。喩えを取るに物無し。
 

7月10日 丙申
  今日、井上の太郎光盛、駿河の国蒲原の駅に於いて誅せらる。これ忠頼に同意するの
  聞こえ有るに依ってなり。光盛日来在京するの間、吉香船越の輩、兼日の厳命を含み、
  下向の期を相待ちこれを討ち取ると。
 

7月16日 壬寅
  渋谷の次郎高重は、勇敢の器、頗る父祖に恥じざるの由、度々御感に預かる。凡そ事
  に於いて快然の余り、彼の領掌の所、上野の国黒河郷に於いては国衙使の入部を止め、
  別納たるべきの由、御下文を賜う。仍って今日、その由を国の奉行人籐九郎盛長に仰
  せ含めらると。
 

7月18日 甲辰
  伊賀の国合戦の間の事、その沙汰を経らる。平家隠逃の郎従等を討ち亡ぼすべきの由、
  大内の冠者並びに加藤五景員入道父子、及び瀧口の三郎経俊等に仰せらると。雑色友
  行・宗重両人、彼の御書等を帯し進発すと。
 

7月20日 丙午
  この間鶴岡若宮の傍らに於いて、社壇を新造せられ、今日熱田大明神を勧請し奉らる
  所なり。仍って武衛参り給う。武蔵の守義信・駿河の守廣綱已下の門客等、殊に行粧
  を刷い供奉に列す。結城の七郎朝光御劔を持つ。河匂の三郎實政御調度を懸く。この
  實政は、去年の冬上洛の時、渡船の論に依って、一條の次郎忠頼と合戦するの間、御
  気色を蒙ると雖も、武勇の誉れ上古の聞こえに恥じず。幾旬月を経ず免許有り。剰え
  この役に従い、昵近し奉る。観る者不思議の念を成すと。御遷宮の事終わるの後、貢
  税料所として、相模国内の一村を奉寄せらる。筑後権の守俊兼宝前に召され、御寄附
  状を書くと。

[玉葉]
  伝聞、昨日伊勢謀叛の輩、近江の国に出逢い、官兵と合戦す。官軍理を得て、賊徒退
  散す。宗たる者を伐ち取りをはんぬと。
 

7月21日 丁未 [玉葉]
  伝聞、謀叛の大将軍平田入道(家継法師)梟首せられをはんぬ。その外両三人大将軍
  たる者伐たれをはんぬと。忠清法師・家資等山に籠もりをはんぬと。また官軍の内、
  大佐々木の冠者(名を知らず)伐たれをはんぬ。凡そ官兵の死者数百に及ぶと。
 

7月25日 辛亥
  故井上の太郎光盛の侍保科の太郎・小河原雲籐の三郎等降人として参上す。仍って御
  家人たるべきの由仰せ下さる。籐内朝宗奉行すと。
 

7月28日 甲寅 晴 [玉葉]
  この日即位の事有り。治暦四年の例に依って、太政官正廰に於いて、これを行わる。
  抑も劔璽帰り来たるを相待ち、即位を遂行せらるべきや否や、予め人々に問わる。(中
  略)然れども叡慮並びに識者等、議奏、天意を知らず、神慮を測らざるに依って、行
  わるる所なり。