8月1日 丁巳 晴 [玉葉]
或る人云く、鎮西多く平氏に與しをはんぬ。安藝の国に於いて、官軍(早川と)と六
ヶ度合戦す。毎度平氏理を得ると。
8月2日 戊午 雨降る
大内の冠者の飛脚重ねて参着す、申して云く、去る十九日酉の刻、平家の余党等と合
戦し、逆徒敗北す。討亡者九十余人、その内張本四人、富田進士家助・前の兵衛の尉
家能・家清入道・平田の太郎家継入道等なり。前の出羽の守信兼が子息等並びに忠清
法師等は、山中に逃亡しをはんぬ。また佐々木源三秀能、五郎義清を相具し合戦する
の処、秀能平家の為討ち取られをはんぬ。惟義すでに会稽の恥を雪ぐ。抽賞に預かる
べきかと。
8月3日 己未 雨降る
大内の冠者の使いを召し、委細の御書を賜う。その趣、逆党を攻撃する事、尤も神妙
なり。但し抽賞せらるべきの由を進し申せらる。頗る物儀に背くか。その故は、一国
の守護に補すの者、狼唳を鎮めんが為なり。而るに先日、賊徒の為家人等を殺害され
をはんぬ。これ用意無きが致す所なり。豈越度に非ずや。然れば、賞罰は宜しく予が
意に任すべしてえり。また御使を京都に発せらる。今度伊賀の国兵革の事、偏に出羽
の守信兼子息等の結構に在るか。而るに彼の輩圍みの中を遁れ、行方を知らずと。定
めて京中に隠遁するか。早くこれを尋ね捜し、踵を廻さず誅戮せしむべきの趣、源九
郎主の許に仰せ遣さると。安達の新三郎飛脚として首途すと。
8月6日 壬戌
武衛、参河の守・足利蔵人・武田兵衛の尉を招請し給う。また常胤已下宗たる御家人
等、召しに依って参入す。この輩平家を追討せんが為、西海に赴くべきの間、御餞別
の為なり。終日御酒宴有り。退散の期に及び、各々馬一疋を引き賜う。その中、参州
分は秘蔵の御馬なり。剰え甲一領を副えらると。
[玉葉]
午の刻、源中納言来たり、数刻言談す。語りて云く、去る比頼朝納言に還るべきの由、
推挙を泰経に付け申し上ぐと。定めて不快の事有るか。恐れを為す。また云く、明日
除書有るべし。九郎任官すべしてえり。
[平家物語]
九郎義経一の谷の合戦の勧賞に左衛門尉になさる。即、使の宣旨を蒙りて九郎判官と
ぞ申ける。
8月8日 甲子 晴
参河の守範頼、平家追討使として西海に赴く。午の刻進発す。旗差(旗これを巻く)
一人、弓袋一人、相並び前行す。次いで参州(紺村濃の直垂を着し、小具足を加え、
栗毛の馬に駕す)、次いで扈従の輩一千余騎龍蹄を並ぶ。所謂、
北條の小四郎 足利蔵人義兼 武田兵衛の尉有義 千葉の介常胤
境の平次常秀 三浦の介義澄 男平太義村 八田四郎武者朝家
同男太郎朝重 葛西の三郎清重 長沼の五郎宗政 結城の七郎朝光
籐内所の朝宗 比企の籐四郎能員 阿曽沼の四郎廣綱 和田の太郎義盛
同三郎宗實 同四郎義胤 大多和の次郎義成 安西の三郎景益
同太郎明景 大河戸の太郎廣行 同三郎 中條の籐次家長
工藤一臈祐経 同三郎祐茂 天野籐内遠景 小野寺の太郎道綱
一品房昌寛 土左房昌俊
以下なり。武衛御桟敷を稲瀬河の辺に構え、これを見物せしめ給うと。
8月13日 己巳
鹿島社に御寄進の地等の事、常陸の国奥郡内叛逆の輩有り。妨げを致すに依って、社
役全うせずと。仍って元の如く社領たるべきの由、今日重ねて仰せ下さると。
8月17日 癸酉
源九郎主の使者参着す。申して云く、去る六日左衛門少尉に任じ、使の宣旨を蒙る。
これ所望の限りに非ずと雖も、度々の勲功を黙止せられ難きに依って、自然の朝恩た
るの由仰せ下さるるの間、固辞すること能わずと。この事頗る武衛の御気色に違う。
範頼・義信等の朝臣受領の事は、御意より起こり挙し申さるるなり。この主の事に於
いては、内々の儀有り。左右無く聴されざるの処、遮って所望せしむかの由御疑い有
り。凡そ御意に背かるる事、今度に限らざるか。これに依って平家追討使たるべき事、
暫く御猶予有りと。
[玉葉]
伝聞、頼朝鎌倉を出て、すでに上洛するの間、伊豆の国に逗留す。秋中入京すべから
ずと。この事甚だ甘心せず。天下滅亡勿らんか。
8月18日 甲戌
武蔵の国住人天糟の野次廣忠、有勢の者に非ずと雖も、西海に赴き平家を追討すべき
の由、進んでこれを申請す。御感の余り、彼の知行分に於いては、万雑事を免許する
の旨、これを仰せ下さると。
[玉葉]
また云く、義朝が首今に囚闕に在り。而るに罪を免さるべし。その間の事勘じ申すべ
きの由、泰経の奉行として仰せ下されをはんぬ。(中略)或る人云く、文覺上人上洛
し、在獄の義朝が首を取り、鎌倉に向かうべしと。
8月19日 乙亥
絵師下総権の守為久帰洛す。御馬(鞍置き)已下の餞物を賜うと。
8月20日 丙子
安藝の介廣元受領の事、掃部の頭安倍季弘朝臣(木曽の祈師と)官職を停廃せらるべ
き事、已上両條を京都に申さると。
8月21日 丁丑 晴 [玉葉]
伝聞、頼朝鎌倉城を出て木瀬川(伊豆と駿河の間と)の辺に来着し暫く逗留す。飛脚
を進し申して云く、すでに上洛仕る所なり。但しひきはりても上洛せず候なり。先ず
参河の守範頼(蒲の冠者これなり)、数多の勢を相具せしめ参洛せしむ所なり。一日
と雖も、京都に逗留すべからず。直に四国に向かうべきの由仰せ含める所なりと。ま
た聞く。荒聖人文覺を以て申して云く、当時摂政平妻を棄て置き洛に留む。敢えて過
怠無きの上、君また此の如く思し食す。異議有るべからず。兼ねてまた入道関白尤も
顧問に備うべきの人なり。荘園少し然るべきの国一つ宛て賜うべしと。或る説に云く、
文覺頗る不請の気有りと。然れども、在獄中の義朝が首を取り、来るべきの由仰せ付
くと。
8月23日 己卯 晴 [玉葉]
伝聞、摂政頼朝が聟たるべしと。これ法皇仰すと。仍って五條亭を修理し移住せらる。
頼朝上洛の時新妻を迎えんが為と。
8月24日 庚辰
公文所を新造せらる。今日立柱上棟。大夫屬入道・主計の允等奉行なり。
8月26日 壬午
源廷尉が飛脚参着す。去る十日、信兼子息左衛門の尉兼衡・次郎信衡・三郎兼時等を
宿廬に招き、これを誅戮す。同十一日、信兼解官の宣旨を下さると。
8月28日 甲申
新造の公文所に門を立てらる。安藝の介・大夫屬入道・足立右馬の允・筑前の三郎等
参集す。大庭の平太景能経営し、酒をこの衆に勧む。