1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)
 
 

9月2日 戊子
  小山の小四郎朝政西海に下向す。参州に属くべきの由仰せらると。また彼の官途の事、
  左右兵衛の尉を望み申す所なりと。
 

9月3日 己丑 晴 [玉葉]
  早旦範季朝臣来たり、不思議の事を示す。参河の国司範頼(件の男幼稚の時、範季子
  として養育す。仍って相親しいと)、上洛の間、件の事聞かず知らずの由を答う。頗
  る疑貽有り。然れども事の跡顕然たり。猶信ぜざるべからざるか。
 

9月9日 乙未
  出羽の前司信兼入道以下平氏の家人等が京都の地、源廷尉の沙汰たるべきの由、武衛
  御書を遣わさる。
   平家没官領の内、京家地の事
    未だその沙汰を致さず。仍って一所と雖も人に宛て賜わざるなり。武士の面々そ
    の沙汰を致す事、全く下知せざる事なり。所詮院の御定に依るべきなり。信兼領
    に於いては、義経の沙汰なり。
                    [御判]
 

9月12日 戊戌
  参河の守範頼朝臣の去る朔日の使者、今日参着し、書状を献る。去る月二十七日入洛。
  同二十九日追討使の官符を賜い、今日(九月一日)西海に発向すと。
 

9月14日 庚子
  河越の太郎重頼が息女上洛す。源廷尉に相嫁せんが為なり。これ武衛の仰せに依って、
  兼日約諾せしむと。重頼の家子二人・郎従三十余輩これに従い首途すと。
 

9月17日 癸卯
  相模の国大山寺の免田五町・畠八町、先例に任せ引き募るべきの由、今日下知し給う
  と。
 

9月18日 [平家物語]
  九郎判官は五位の尉に叙して、大夫判官とぞ申ける。蒲の御曹司範頼三河守になさる。
 

9月19日 乙巳
  平氏一族、去る二月摂津の国一谷の要害を破らるるの後、西海に至り彼の国々を掠虜
  す。而るにこれを攻め襲われんが為、軍兵を発遣せられをはんぬ。橘次公業を以て、
  一方の先陣と為すの間、讃岐の国に着き住人等を誘い、相具せんと欲す。各々帰伏せ
  しめ、志を源家に構え運すの輩、交名を注出す。公業これを執り進すに依って、その
  沙汰有り。今に於いては、彼の国の住人公業が下知に随うべきの由、今日仰せ下さる
  る所なり。
               在御判
   下す 讃岐の国御家人等
    早く橘次公業の下知に随い、西海道に向かい合戦すべき事
   右国中の輩、平家押領の時、左右無く御方に参る。交名の折紙を御覧に経せしめを
   はんぬ。尤も奉公なり。早く彼の公業が下知に随い、勲功の忠を致せしむべきの状
   件の如し。
     元暦元年九月十九日
   讃岐の国御家人

   注進 平家当国屋嶋に落ち付き御坐すを捨て、源氏の御方に参り京都に参り奉り候
   御家人交名の事
    籐大夫資光   同子息新大夫資重 同子息新大夫能資 籐次郎大夫重次
    同舎弟六郎長資 籐新大夫光高   三野郎大夫高包  橘大夫盛資
    三野首領盛資  仲行事貞房    三野の九郎有忠  三野首領太郎
    同次郎     大麻籐太の家人
   右度々の合戦に、源氏の御方して京都に参り候の由、鎌倉殿の御見参に入れんが為、
   注進件の如し。
     元暦元年五月日
 

9月20日 丙午
  玉井の四郎資重濫行の事、院宣を下さるる所なり。今日関東に到来す。武衛殊に恐れ
  申し給うに依って、則ち停止すべきの旨仰せ下さると。
   丹波の国一宮出雲社は、蓮華王院御領なり。能盛法師に預け給い、年来知行せしむ。
   何ぞ地頭と称するの輩有るや。年来また聞こし食し及ばず。而るに彼の御下文と号
   し、玉井の四郎資重恣に押領す。その理然るべきや。有限の御領、異儀有るべから
   ざる事なり。早く件の濫行を停止すべきの由、宜しく下知せしめ給うべきの由、院
   の御気色候なり。仍って執達件の如し。
     八月三十日          右衛門権の佐
   謹上 兵衛権の佐殿
 

9月22日 [平家物語]
  三河守、平家追討のために西国へ発向す。三万余騎の軍兵、数千艘室に着きて、急ぎ
  やしまへも責寄せず、西国にやすらひて、室、高砂の遊君遊女を召集めて、遊びたは
  ぶれてぞ月日を送りける。            (随う人々8月8日条に同じ)
 

9月28日 甲寅
  去る五日、季弘朝臣所帯職を停られをはんぬるの由、仙洞より源廷尉義経に仰せらる。
  義経またその旨を申す所なり。彼の状今日鎌倉に到来すと。