1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)
 


10月6日 辛酉 去る夜より雨降る。午の刻霽に属く。
  未の刻、新造の公文所吉書始めなり。安藝の介中原廣元別当として着座す。齋院次官
  中原親能・主計の允藤原行政・足立右馬の允籐内遠元・甲斐の四郎・大中臣秋家・籐
  判官代邦通等、寄人として参上す。邦通先ず吉書を書く。廣元御前に披覧す。次いで
  相模の国中の神領仏物等の事これを沙汰す。その後椀飯を行う。武衛出御す。千葉の
  介経営す。公私引出物有り。上分は御馬一疋、下は各々野劔一柄と。
 

10月12日 丁卯
  参州、安藝の国に於いて賞を勲功有るの輩に行う。これ武衛の仰せに依ってなり。そ
  の中、当国住人山方の介為綱、殊に抽賞せらる。軍忠人に越えるが故なり。
 

10月13日 戊辰 [玉葉]
  伝聞、教盛卿等の為、長門の国に在るの源氏、葦敷追い落とされをはんぬと。また平
  氏五六百艘淡路に着くと。
 

10月15日 庚午 辰の時地震
  今日、武衛山家の紅葉を歴覧せしめ給う。若宮の別当法眼参會すと。


10月20日 乙亥
  諸人訴論対決の事、俊兼・盛時等を相具し、且つはこれを召し決し、且つはその詞を
  注せしめ、沙汰を申すべきの由、大夫屬入道善信に仰せらると。仍って御亭東面の廂
  二箇間を点じその所と為す。問注所と号し、額を打つと。
 

10月24日 己卯
  因幡の守廣元(九月十八日任ず)申して云く、去る月十八日源廷尉叙留す。今月十一
  日院内の昇殿を聴すと。その儀、八葉の車に駕し、扈従の衛府三人・共侍二十人(各
  々騎馬)。庭上に於いて舞蹈す。劔笏を撥げ殿上に参ると。
 

10月27日 壬午
  淡路の国廣田庄は、先日廣田社に寄附せらるるの処、梶原平三景時平氏を追討せんが
  為、当時彼の国に在るの間、郎従等彼の庄に乱入し、乃具を妨げるか。仍って仲資王
  子細を申さる。更に改変の儀非ず。且つは景時に下知すべきの由、今日御報を遣わさ
  ると。
 

10月28日 癸未
  石清水の別当成清法印申す興行の両條、京都に申さるる所なり。俊兼これを奉行す。
   成清法印申す
    寶塔院庄の事、彌勒寺庄の事
   右の両條、道理に任せ御沙汰有るべきの由、先日仰せ下され候いをはんぬ。神社の
   事、殊に善政を行わるべく候なり。自然黙止せられば、不便の事に候。この旨を以
   て披露せしめ給うべく候。恐惶謹言。
     元暦元十月二十八日      頼朝判
   進上 大蔵卿殿