1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)
 
 

11月6日 辛卯
  鶴岡八幡宮に於いて神楽有り。武衛参り給う。御神楽以後、別当坊に入御す。請じ奉
  るに依ってなり。別当京都より児童(惣持王と号す)を招請す。去る比下着す。これ
  郢曲の達者なり。これを以て媒介と為し、盃酒を勧め申す所なり。垂髪横笛を吹く。
  梶原の平次これに付け、また唱歌す。畠山の次郎今様を歌う。武衛入興し給う。晩に
  及び還らしめ給うと。
 

11月12日 丁酉
  常陸の国の住人等を御家人と為す。その旨存ずべきの由仰せ下さると。
 

11月14日 己亥
  左衛門の尉朝綱・刑部の丞盛綱已下、所領を西国に宛て賜うの輩これ多し。仍ってそ
  の旨を存じ、面々沙汰し付けらるべきの由、武衛今日御書を源廷尉の許に遣わさると。
 

11月21日 丙午
  今朝武衛御要有り、筑後権の守俊兼を召す。俊兼御前に参進す。而るに本より花美を
  事と為す者なり。只今殊に行粧を刷い、小袖十余領を着す。その袖妻色々を重ぬ。武
  衛これを覧て、俊兼の刀を召す。即ちこれを進す。自ら彼の刀を取り、俊兼が小袖妻
  を切らしめ給う後、仰せられて曰く、汝才翰に富むなり。盍ぞ倹約を存ぜんや。常胤
  ・實平が如きは、清濁を分らざるの武士なり。所領と謂うは、また俊兼に双ぶべから
  ず。而るに各々衣服已下麁品を用い、美麗を好まず。故にその家富有の聞こえ有り。
  数輩の郎従を扶持せしめ、勲功を励まんと欲す。汝産財の所費を知らず、太だ過分な
  りと。俊兼述べ申すに所無く、面を垂れ敬屈す。武衛向後花美を停止すべきや否やの
  由仰せらる。俊兼停止すべきの旨を申す。廣元・邦通折節傍らに候す。皆魂を鎖すと。
 

11月23日 戊申
  園城寺の専当法師関東に下着す。衆徒の牒状を持参する所なり。武衛則ち御前に召し
  出し、因幡の守廣元をしてこれを読ましめらる。その状に云く、
   園城寺牒 右兵衛の佐家衙
    平家領没官地を以て当寺に寄進し、当寺仏法を紹隆せらるべき事
   右当伽藍は、彌勒慈尊利生の地、智證大師興隆の庭なり。学ぶ所は中道上乗の教法、
   祈る所は天長地久の御願なり。法皇の門侶に列なり、吾が寺を崇め八エンの静謐を
   致す。筌宰の朝政を輔け、この地に帰り一家の繁昌を祈る。誠に知る。我が仏法を
   崇めるの聖主宝祚延長す。我が仏法を蔑するの人臣門族滅亡す。事縁起に見ゆ。誰
   か疑滞を貽す者か。爰に故入道太政大臣忽ち皇憲に背き、恣に悪罪を犯す。射山の
   禅居を幽閉し、博陸の重臣を配流す。その後また親王宮を追捕し、兼ねて頼政卿を
   伐たんと擬すの間、各々虎口の難を逃れ、この鳥瑟の影に来たる。衆徒等慈愍の性
   を稟け、救護心に在り。皇子の令旨に随い、源氏の謀略に伴い、国家鎮護の秘策を
   廻らし、逆臣降伏の懇祈を専らにす。これに依って千万騎の軍兵を引率し、数百宇
   の房舎を焼失す。仏像経論烟炎に化して昇天す。学徒行人涕涙に溺れて地に投ず。
   その夭亡を計れは、行学合わせ五百人。その離散を思えば、老少惣て千余輩。哀れ
   むかな。三百余歳の法燈平家の為に永滅す。痛ましきかな。四十九院の仏閣逆賊の
   為に忽失す。唐土会昌の天子にも過ぎ、我が朝守屋大臣にも超ゆ。而るに去る七月
   二十五日、北陸道の武将且つは以て入洛す。六波羅の凶従永く以て退散し、四海こ
   れを悦ぶ。況や三井に於いてをや。一天これを感ず。況や吾が寺に於いてをや。然
   れども所行の旨、すでに先輩に過ぎ、禅定法皇の仙洞を焼き落とし、天台両門の貫
   首を殺害す。事常篇に絶ゆ。例非常に在り。誰か力命を以てこれを伏す。只大菩薩
   の冥鑒を仰ぐ。何人を以てこれを征伐せん。専ら当将軍の進発を待つ。爰に貴下、
   重代勲功の家を出て、万民倚頼の器と為る。遂に思いを辺城に廻らすの間、忽ち勝
   ちを上都に決するの内、即ち当寺の領に於いて自から義仲の首を獲て、今各々安堵
   の思いを成す。止宿の計を企つべきと雖も、末寺庄園、武士の妨げ静まらず。法侶
   禅徒、帰往の便すでに闕け、纔に止り纔に住す。存する如く亡する如し。春蕨煙老、
   一鉢の貯えこれ空し。秋桂嵐疎、三衣の袂破れ易し。法の衰弊・処の陵遅、見る者
   面を掩い、行く者袖を反す。もし哀憐無くば、爭か住侍を企てんか。然れば則ち平
   家領の内没官地の間、両三所と雖も、当寺に就いては、且つは消えんと欲するの法
   燈を挑げ、且つは断んと欲するの仏種を続けん。倩々先例を考えるに、聖徳太子守
   屋大臣を降伏するの後、彼の家宅を以て仏寺と為し、彼の田園を以て堂舎に寄す。
   それより以来、王法安穏・仏法繁昌。この時尤も彼の例を追うべし。今代必ずその
   蹤を守るべし。また貴下の先祖伊豫入道詔命を蒙り承り、貞任を征伐するの刻、先
   ず園城の仁祠に詣で、殊に新羅の霊社に祈る。その効験に依って彼の夷狄を伏し、
   梟首を洛中に伝え、虎威を関東に施す。曩祖すでに此の如し、子孫豈帰せざらんや。
   これを以てこれを思うに、源家と当寺、因縁和合し、風雨感会のものか。然れば則
   ち当寺の興隆、当家の扶持に任すべし。当家の安穏、当寺の祈念に依るべし。仍っ
   て毎月七箇日を限り、百口の僧綱を屈し、大法師百壇不動供を修す。即ち交名を注
   し聞達先にをはんぬ。抑も大師記文に云く、予の法は国王大臣に付属すべし。この
   法門に於いて、王臣もし忽緒せば、国土衰弊・王法減少・天神捨離・地祇忿怒・内
   外驚乱・遐邇騒動す。彼の時に相当たり、王臣恭敬して予が仏法を祈らん。我が仏
   法を忽緒せば洛中騒乱す、この法文に帰依せば天下安穏なり。彼の平氏は当寺を破
   滅し、自ら門葉を亡ぼす。この源氏は当寺を恭敬し、宜しく栄花を招くべし。衆徒
   の丹祈元より貳無し。三宝の冥助いよいよ恃み有り。あゝ山重なり江湛え、縦え面
   を万里の晩雲に隔つとも、朝に祈り夕に念じ、将に情を両郷の暁月に通す。志合わ
   ば胡越昆弟たり。誠かなこの言。仍って状を以て牒す。到る状に准ぜよ。故に牒す。
     元暦元年十月日        小寺主法師成賀
                    権都維那大法師慶俊
                    権都維那大法師仁慶
     検校権僧正法印大和尚位(在判)
     別当大僧都法印大和尚位
     上座法橋上人位
     大学頭阿闍梨大法師
     権上座伝燈大法師
 

11月26日 辛亥
  武衛伽藍を草創せんが為、鎌倉中の勝地を求め給う。営の東南に当たり一霊窟有り。
  仍って梵宇の営作を彼の所に企てらる。これ父徳を報謝するの素願なり。但し大甞會
  御禊已後、地曳始め有るべきの由定めらるるの処、去る月二十五日その儀(大夫判官
  義経供奉す)を遂げらるるの間、今日犯土有り。因幡の守・筑後権の守等これを奉行
  す。武衛監臨し給うと。
 

11月27日 壬子 [玉葉]
  實厳阿闍梨来たり、密に語りて云く、少納言入道(俗名宗綱、三條宮近臣)去る夜坂
  東より上洛す。言語の次いでに申して云く、頼朝云く、右府殿御事を京下の輩に問う
  の処、人別にその美を称す。未だその悪を聞かず。爰に社稷の臣を知ると。その気色
  を見るに、深く甘心の色有り。且つはこれ殊に音信を通せざるの故と。