1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)
 
 

12月1日 丙辰
  武衛園城寺の使者を召し、御下文二通を賜う。両村を一寺の伽藍に寄附せしめ給う所
  なり。その状に云く、
   奉寄 三井寺御領の事
    在 若狭の国玉置領壹処
   右件の所、平家没官の領たるに依って、院より給い預かる所なり。而るに今当寺の
   仏法を崇めんが為、寄進せしむ所なり。但し下司職に於いては、鎌倉より沙汰し付
   す所なり。相違有るべからざるの状件の如し。
     元暦元年十一月二十八日    前の右兵衛の佐源朝臣

   奉寄 寺領貳箇所の事
   右、平家の逆徒の為寺院の破壊に及ぶ。爾るより以降、未だ住侶の有無を知らず。
   蓄懐の案内を達せず。上洛の時を期し、暫く日を送るの処、牒状忽ち到来す。旨趣
   尤も甚深なり。仍って寺領二箇所(近江の国横山・若狭の国玉置領)、寄文を相副
   え、寄進せしむ所なり。事の妨げを無せんが為、便宜の地を選ぶなり。但し世間落
   居せば、この上重ねて計らい沙汰すべきの由、存じ思い給うなり。仍って勒状件の
   如し。
     十二月一日          前の兵衛の佐
 

12月2日 丁巳
  武衛御馬一疋(葦毛)を佐々木の三郎盛綱に遣わさると。盛綱平家を追討せんが為、
  当時西海に在り。而るに折節乗馬無きの由言上せしむに依って、態と雑色を立て、こ
  れを送り遣わさる。
 

12月3日 戊午
  園城寺の専当帰洛す。而るに北條殿殊に当寺を帰依せしめ給うの間、慇懃の御書を相
  副え、彼の寺の事を源廷尉に申さる。その詞に曰く、
   園城寺の衆徒、殊に牒状を勒し、鎌倉殿に申さるる事候かの間、平家領一両所、先
   ず以て寄進せしめ給い候所なり。この次第、尤も厳重に思し食し候の故なり。而る
   に彼の衆徒の御中より、触れ申さしめ給う事候わば、殊に御心に入れ、御沙汰有る
   べく候ものなり。更に御疎略に候べからざるものか。且つはまた御気色に依って申
   し上げしめ候所なり。凡そ申し上ぐべく候事等これ多く候と雖も、急々の間、心に
   能わざる事に候。恐々謹言。
     十二月三日          平
   進上 判官殿
 

12月7日 壬戌
  平氏左馬の頭行盛朝臣五百余騎の軍兵を引卒し、城郭を備前兒島に構うの間、佐々木
  の三郎盛綱武衛の御使として、これを責め落とさんが為行き向かうと雖も、更に波濤
  を凌ぎ難きの間、浜の干潟に轡を案ずるの処、行盛朝臣頻りにこれを招く。仍って盛
  綱武意を励まし、乗船を尋ねるに能わず。乗馬しながら藤戸の海路(三町余)を渡す。
  相具する所の郎従六騎なり。所謂志賀の九郎・熊谷の四郎・高山の三郎・與野の太郎
  ・橘三・橘五等なり。遂に向岸に着かしめ、行盛を追い落すと。
 

12月16日 辛未
  吉備津宮の宮仕、今日鎌倉に参着す。供僧行實解状を捧げる所なり。その趣、本宮長
  日の法華経の免田、並びに二季彼岸の仏聖田等、西海合戦の事に依って没倒す。関東
  の御沙汰として、元の如く奉寄せらるべきの由なり。武衛子細を相尋ね、成敗すべき
  の由、御消息を件の解状に相副え、實平の許に遣わさると。實平当時備前の国に在り
  と。
 

12月20日 乙亥
  今日、源廷尉の請文京都より参着す。これ西国に所領を賜うの輩、仰せの旨に任せ沙
  汰し付くの由と。
 

12月24日 己卯
  公文所に於いて、雑仕女三人を置かる。因幡の守の沙汰として、今日その輩を定むと。
 

12月25日 庚辰
  鹿島社神主中臣の親廣・親盛等、召しに依って参上す。今日営中に参り、金銀の禄物
  を賜う。剩え当社御寄進の地、永く地頭の非法を停止し、一向に神主管領せしむべき
  の旨仰せ含めらる。これ日来御願書を捧げ、丹祈を抽んじ給うの処、去る春の比、厳
  重の神変を現わし給うの後、義仲朝臣伏誅し、平内府また一谷の城郭を出て、敗北し
  四国に赴きをはんぬ。いよいよ御信心を催すに依って、今この儀に及ぶと。
 

12月26日 辛巳
  佐々木の三郎盛綱馬により備前の国兒島に渡り、左馬の頭平行盛朝臣を追伐する事、
  今日御書を以て、御感の仰せを蒙る。その詞に曰く、昔より河水を渡すの類有りと雖
  も、未だ馬を以て海浪を凌ぐの例を聞かず。盛綱が振る舞い希代の勝事なりと。
 

12月29日 甲申
  常陸の国鹿島社司宮介良景が所領の事、且つは地主全富名に准え、且つは御物忌千富
  名の例に任せ、万雑事を停止すべきの由仰せらると。