1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)
 
 

1月1日 乙酉
  卯の刻、武衛(御水干)鶴岡宮に御参り。神馬二疋(黒鹿毛)を奉らる。山上の太郎
  高光・小林の次郎重弘等これを引く。次いで法華経供養、導師は別当法眼尊暁なり。
  供養の後、御布施(裹物二)を引かる。右馬の助以廣これを取る。
 

1月6日 庚寅
  平家を追討せんが為西海に在るの東士等、船無く粮絶えて合戦の術を失うの由、その
  聞こえ有るの間、日来沙汰有り。船を用意し兵粮米を送るべきの旨、東国に仰せ付け
  らるる所なり。その趣を以て、西海に仰せ遣わされんと欲するの処、参河の守範頼(去
  年九月二日出京し西海に赴く)去年十一月十四日の飛脚、今日参着す。兵粮闕乏する
  の間、軍士等一揆せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰らんと欲すと。その外鎮西の
  條々これを申さる。また乗馬を所望せらると。この申状に就いて、聊か御不審を散ず
  と雖も、猶雑色定遠・信方・宗光等を下し遣わさる。但し定遠・信方は在京す。京都
  より相具すべきの旨、宗光に仰せ含めらる。宗光委細の御書を帯す。これ鎮西に於い
  て沙汰有るべきの條々なり。その状に云く、
   十一月十四日の御文、正月六日到来す。今日これより脚力を立てんとし候つる程に、
   この脚力到来し、仰せ遣はしたるむね委しく承り候をはんぬ。筑紫の事、などか従
   はざらんとこそおもふ事にて候へ。物騒がしからずして、よくよく国に沙汰し給べ
   し。構えて構えて国の者共ににくまれずしておはすべし。馬の事、実にさるべき事
   にてはあれども、平家は常に京城をうかがふ事にてあれば、もしおのづから道にて
   押しとられなどしたらん事は、聞く耳も見苦しき事にてあらんずれば、つかはさぬ
   也。又内藤六が周防のせいを以て志をさまたげ候なる、以ての外の事也。当時は国
   の者の心を破らぬ様なる事こそ吉き事にてあらむずれ。又八嶋に御坐します大やけ、
   並びに二位殿女房たちなど、少しもあやまちあしざまなる事なくて、向かへとり申
   させたまふべし。かくとだにも披露せられば、二位殿などは、大やけをぐしまゐら
   せて、向さまにおはする事もあらむ。大方は帝王の御事、いまに始めぬ事なれ共、
   木曽はやまの宮、鳥羽の四宮討ち奉らせて冥加つきて失せにき。平家又、三条高倉
   の宮討ち奉りて加様にうせんとする事なり。さればよくよくしたためて、敵をもら
   さずして閑に沙汰せらるべき也。内府は極めて臆病におはせる人なれば、自害など
   はよもせられじ。生けどりに取て京へぐして上るべし。さて世のすゑにも云い伝へ
   てあらば、いま少し吉き事なり。返す返す此大やけの御事、おぼつかなきことなり。
   いかにもいかにもして、事なきやうにさたせさせ給べし。[大勢どもにも、此由を
   よくよく仰せ含められ候べし]。穴賢々々。
   さては、侍共に構えて構えて心心ならずしてあるべきよし、よくよく仰せらるべし。
   構えて構えて筑紫の者どもに、にくまれぬやうにふるまはせ給べし。坂東の勢をば
   むねとして、筑紫のものどもをもて、八嶋をば責めさせて念無きやうに閑かに沙汰
   候べし。敵はよはくなりたると人の申さんに付いて、敵をあなづらせ給ふ事、返す
   返すあるべからず。構えて構えて敵をもらさぬ支度をして、よくよくしたためて事
   を切らせ給べし。猶々返す返す大やけの御事、ことなきやうに沙汰せさせ給べきな
   り。二月十日のころには、一定船をば上するなり。さては佐々木の三郎、筑紫へは
   下りさがりたるによて、下して備前の児島をば責め落としたるなり。構えて構えて、
   いかにも物騒がしからずして閑かに軍しおほすべし。侍どもの事、是によりかれに
   よりなどして、ささやき事などして、人に見うとまれ給べからず。又路々の間、兵
   粮なくなりたるなど、京より方々にうたへ申せども、さほどの大勢の軍粮料にて上
   らざりしかば、爭かはさなくてあるべきとおもふなり。坂東にも、その後別の事も
   なし。少しも騒がしき事候はず。委くは此の雑色に仰せ含め候ぬ。恐々。
    千葉の介ことに軍にも高名してけり。大事にせられ候べし。
     正月六日
   蒲殿

   国の者など、をのづから落ちまうでくる事あらば、もてなして、よによに糸惜しく
   せさせ給ふべし。豊後の船だにもあらば、やすき事なり。四国をば船少々あらば是
   よりせめよと云うなり。東国の船は、二月十日のころに国を立って上するなり。猶
   々も筑紫の事よくよくしたためて物騒がしからず。ことなきやうにさたせらるべし。
   又侍共のさ様に心々にてあんなる、返す返す以ての外也。実にその条さぞあるらむ。
   又方々よりわれが事をば訴へあひたれども、人のとかくいはんに、全くよるべから
   ず。実に能だにもふるまはれば、それぞよき事なり。又人云はずとも所せむなくお
   はせんずるぞ、以ての外の事にてあるべき。又小山の者共、いづれをも殊に糸惜し
   みし給べし。穴賢々々。
   是より行きたる者は、われをおもはば、当時所知所領をしらず候とも、さやうの論
   をすべき様なし。件のさまたげ止めさせ給ふべく候。当時は構えて構えて、国の者
   をすかしてよき様にはからはせ給へ。筑紫の者にて、四国をば責めさせ給べし。此
   使いは雑色宗光・定遠・信方三人の遣いなり。信方・定遠は京にあるを下すなり。
   宗光ぞ国より上する。委しき事は宗光がもちたる文に申したるなり。よろづよくよ
   く計ひて沙汰すべし。穴賢々々。
     正月六日
   参河の守殿御返事

  重ねて仰す。
   御下文一まい進し候。国の者共に見せさせ給べし。わうはく法師の事、用いさせ給
   べからず候。穴賢々々。甲斐の殿原の中には、いざわ殿・かがみ殿、ことにいとを
   しくし申させ給べし。かがみ太郎殿は、次郎殿の兄にて御坐し候へども、平家に付
   き、又木曽に付いて、心をふぜんにつかいたりし人にて候へば、所知など奉るべき
   には及ばぬ人にて候なり。ただ次郎殿をいとをしくして、これをはぐく見候べき也。

  また御下文一通、九国の御家人の中に遣わさる。その状に云く、
   下す 鎮西九国の住人等
    早く鎌倉殿の御家人として、且つは本所を安堵し、且つは参河の守の下知に随い、
    同心合力し朝敵平家を追討すべき事
   右彼の国々の輩に仰せ、朝敵を追討すべきの由、院宣先にをはんぬ。仍って鎌倉殿
   の御代官両人上洛するの処、参河の守は九国に向かい、九郎判官を以て四国に遣わ
   さる所なり。爰に平家、縦え四国に在りと雖も、九国に着くと雖も、各々且つは院
   宣の旨を守り、且つは参河の守の下知に随い、同心合力せしめ、件の賊徒を追討す
   べきなりてえり。九国の官兵、宜しく承知し、不日に勲功の賞を全うすべし。以て
   下す。
     元暦二年正月日        前の右兵衛の佐源朝臣
 

1月8日 壬辰 陰晴不定 [吉記]
  大府卿院に於いて示して云く、廷尉義経四国に向かうべきの由申す所なり。而るに自
  身は洛中に候すべきか、ただ郎従を差し遣わすべきかの由、申さるる人有り。且つは
  これ忠清法師在京中の由風聞す。定めて凶心を挿むかと。二三月に及ばば兵粮尽きを
  はんぬ。範頼もし引き帰さば、管国の武士等猶平家に属き、いよいよ大事に及ぶかの
  由、義経申す所なり。予申して云く、義経が申し状、尤もその謂われ有り。大将軍下
  向せず、郎従等を差し遣わすの間、諸国の費え有りと雖も、追討の実無きか。範頼下
  向の後この沙汰に及ぶか。然れば今春義経発向し尤も雌雄を決すべきか。忠清法師の
  事に於いては、沙汰に及ばざるか。但しその身を搦め進すべきの由、尤も宣下せらる
  べきか。義経下向すと雖も、猶然るべきの輩は、差し分け京都に祇候せしむべきの由、
  尤も仰せ合わさるべきなり。御祈祷微々、不便極まり無き事なり。その用途無きと雖
  も、尤も諸社・諸寺に仰せらるべきなり。三種の宝物の事、能々籌を運らさるるべき
  の由これを申す。
 

1月10日 甲午 [吉記]
  大夫判官義経西国に発向すと。
 

1月12日 丙申
  参州周防より赤間関に到る。平家を攻めんが為、その所より渡海せんと欲するの処、
  粮絶え船無く、不慮の逗留数日に及ぶ。東国の輩、頗る退屈の意有り。多く本国を恋
  う。和田の小太郎義盛が如き、猶潛かに鎌倉に帰参せんと擬す。何ぞ況やその外の族
  に於いてをや。而るに豊後の国の住人臼杵の次郎惟隆・同弟緒方の三郎惟栄は、志源
  家に在るの由、兼ねて以て風聞するの間、船を彼の兄弟に召し、豊後の国に渡り、博
  多の津に責め入るべきの旨儀定有り。仍って今日三河の守周防の国に帰ると。
 

1月21日 乙巳
  武衛御宿願に依って、栗浜明神に参り給う。御台所同じく伴わしめ給うと。
 

1月22日 丙午
  出雲の国安楽郷を以て、先日鴨社神領に寄付せしめ給いをはんぬ。而るを冬季御神楽
  の料所たるべきの旨仰せ遣わさる。廣元これを施行す。
 

1月26日 庚戌
  惟隆・惟栄等、参州の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防の国の住人宇佐郡
  の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州纜を解き、豊後の国に渡ると。
  同時に進み渡るの輩
    北條の小四郎   足利蔵人義兼    小山兵衛の尉朝政 同五郎宗政
    同七郎朝光    武田兵衛の尉有義  齋院次官親能   千葉の介秀胤
    同平次常秀    下河邊庄司行平   同四郎政能    浅沼の四郎廣綱
    三浦の介義澄   同平六義村     八田武者知家   同太郎知重
    葛西の三郎清重  渋谷庄司重国    同二郎高重    比企の籐内朝宗
    同籐四郎能員   和田の小太郎義盛  同三郎宗實    同四郎義胤
    大多和の三郎義成 安西の三郎景益   同太郎明景    大河戸の太郎廣行
    同三郎      中條の籐次家長   加藤次景廉    工藤一臈祐経
    同三郎祐茂    天野の籐内遠景   一品房昌寛    土左房昌俊
    小野寺の太郎道綱
  この中常胤は衰労を事ともせず、風波を凌ぎ進み渡る。景廉は病身を忘れ相従う。行
  平は粮尽き度を失うと雖も、甲冑を投じ小船を買い取り最前に棹さす。人怪しみて云
  く、甲冑を着けず、大将軍の御船に参らしめ、全身戦場に向かうべきかと。行平云く、
  身命に於いては本よりこれを惜しとせず。然らば甲冑を着けずと雖も、自身進退の船
  に乗り、先登に意を任せんと欲すと。将帥纜を解く。爰に三州曰く、周防の国は、西
  は宰府に隣し、東は洛陽に近し。この所より子細を京都と関東に通し、計略を廻らす
  べきの由、武衛兼日の命有り。然れば有勢の精兵を留め、当国を守らしめんと欲す。
  誰人を差すべきやてえり。常胤計り申して云く、義澄精兵たり。また多勢の者なり。
  早く仰せらるべしと。仍ってその旨を義澄に示さるるの処、義澄辞し申して云く、意
  を先登に懸けるの処、徒にこの地に留まるは、何を以て功に立てんやと。然れども勇
  敢を選び敢えて留置せらるの由、命ずる所再三に及ぶの間、義澄陣を防州に結ぶと。