1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)
 
 

2月1日 乙卯
  参州豊後の国に渡る。北條の小四郎・下河邊庄司・渋谷庄司・品河の三郎等先登せし
  む。而るに今日葦屋浦に於いて、太宰少貳種直・子息賀摩兵衛の尉等、随兵を引きい
  これに相逢い挑戦す。行平・重国等懸け廻りこれを射る。彼の輩攻戦すと雖も、重国
  が為討たれをはんぬ。行平美気の三郎敦種を誅すと。
 

2月2日 丙辰 天晴 [玉葉]
  源中納言雅頼来たり、雑事を語る。その中、余無実を負う事有り。彼の納言或る僧を
  以て使いと為し、雑事を頼朝の許に示し遣わす。その次いでに、頼朝彼の僧に示して
  云く、右大臣御事、京下の人皆美を称す。而るに以て土肥の二郎實平折紙を遣わし、
  頗る心劣る者なりと。この事蒼穹の頂に在り。定めて照覧有るか。不詳と謂うべし。
  事の次いでを以て陳披すべきか。
 

2月5日 己未
  典膳大夫中原久経・近藤七国平使節として上洛す(先々使節たりと雖も、他人相替わ
  る。今度治定すと)。これ平氏を追討するの間、事を兵粮に寄せ、散在の武士、畿内
  近国の所々に於いて狼藉を致すの由、諸人の愁訴有り。仍って平家滅亡を相待たれず
  と雖も、且つは彼の狼籍を停止せられんが為、差し遣わさるる所なり。先ず中国近辺
  の十一箇国を相鎮め、次いで九国・四国に至るべし。悉く以て奏聞を経て、院宣に随
  うべし。この一事の外、私の沙汰を交ゆべからざるの由定め仰せらると。今の両人指
  せる大名に非ずと雖も、久経は、故左典厩の御時殊に功有り。また文筆に携わると。
  国平は勇士なり。廉直の誉れ有るの間此の如しと。仰せに依って、各々憲法の沙汰を
  致すべきの趣、起請文を進すと。
 

2月12日 丙寅
  武衛伊豆の国に赴かしめ給う。これ伽藍を狩野山に建立せんが為、日来材木を求めら
  る。これを監臨せんが為なり。
 

2月13日 丁卯
  平家追討の御祈祷の為、鶴岡の宝前に於いて、鎌倉中の僧徒を召し聚め、大般若経を
  転読せらる。京都また二十壇の秘法を始行せらると。今日、伊澤の五郎の書状、鎮西
  より武衛の御旅館に到着す。その詞に云く、平家追討の計を廻らさんが為、長門の国
  に入ると雖も、彼の国飢饉にて粮無きに依って、猶安藝の国に引退せんと欲す。また
  九州を攻めんと欲するの処、乗船無きの間、進み戦わざるの由と。即ち御返事に云く、
  粮無きに依って長門を退くの條、只今敵に相向かわずんば、何事か有らんや。九国を
  攻める事、当時然るべからざるか。先ず四国に渡り、平家と合戦を遂ぐべしと。
 

2月14日 戊辰
  参州日来周防の国に在るの時、武衛仰せ遣わされて云く、土肥の二郎・梶原平三に談
  らしめ、九国の勢を召すべし。これに就いて善く帰伏の形勢を見らば、九州に入るべ
  し。然らずんば、鎮西と合戦を好むべからず。直に四国に渡り平家を攻むべしてえり。
  而るに今参州九国に赴かんと欲し、船無くして進まず。適々長門の国に渡ると雖も、
  粮尽きるの間、また周防の国に引退しをはんぬ。軍士等漸く変意有って、一揆せざる
  の由これを歎き申さる。その飛脚今日伊豆の国に参着す。仍って今度合戦を遂げず帰
  洛せしめば、何の眉目有らんや。粮を遣わすの程堪忍せしめ、これを相待つべし。平
  家の故郷を出て旅泊に在りて、猶軍旅の儲けを励ます。況や追討使として、盍ぞ勇敢
  の志を抽んざらんかの由、御書を参州並びに御家人等の中に遣わさると。
 

2月15日 [平家物語]
  三河の守範頼、西河神崎を出て西国へ下向す。山陽道より長門国に赴く。九郎大夫の
  判官義経四国へ渡らんとす。神崎渡辺両所にて船ぞろへしつるが、けふ既に纜をとく。
 

2月16日 庚午
  関東の軍兵、平氏を追討せんが為讃岐の国に赴く。廷尉義経先陣として、今日酉の刻
  纜を解く。大蔵卿泰経朝臣彼の行粧を見るべしと称し、昨日より廷尉の旅館に到る。
  而るに卿諫めて云く、泰経兵法を知らずと雖も、推量の覃ぶ所、大将軍たる者、未だ
  必ず一陣を競わざるか。先ず次将を遣わさるべきやてえり。廷尉云く、殊に存念有り。
  一陣に於いて命を棄てんと欲すと。則ち以て進発す。尤も精兵と謂うべきか。平家は
  陣を両所に結ぶ。前の内府讃岐の国屋嶋を以て城郭と為す。新中納言知盛九国の官兵
  を相具し、門司関を固む。彦島を以て営に定め、追討使を相待つと。
  今日武衛山沢を歴覧するの間、藍澤原に於いて参州に付き{思慮を}廻らし、季重を
  以て御書を遣わさる。また御書を北条の小四郎殿・齋院次官・比企の籐内・同籐四郎
  等に下さる。これ平家を征するの間、各々同心すべき由なり。

[玉葉]
  伝聞、大蔵卿泰経卿御使として渡辺に向かう。これ義経が発向を制止せんが為と。こ
  れ京中武士無きに依って御用心の為なりと。然れども敢えて承引せずと。泰経すでに
  公卿たり。此の如き小事に依って、輙く義経が許に向かうこと、太だ見苦しと。
 

2月18日 壬申
  廷尉昨日渡部より渡海せんと欲するの処、暴風俄に起こり、舟船多く破損す。士卒の
  船等一艘として纜を解かず。爰に廷尉云く、朝敵の追討使暫時逗留す。その恐れ有る
  べし。風波の難を顧るべからずと。仍って丑の刻先ず舟五艘を出す。卯の刻阿波の国
  椿浦に着く(常の行程三箇日なり)。則ち百五十余騎を率い上陸す。当国の住人近藤
  七親家を召し仕承と為し、屋嶋に発向す。路次桂浦に於いて、桜庭の介良遠(散位成
  良弟)を攻めるの処、良遠城を辞し逐電すと。夜に入り、武衛豆州より鎌倉に還着し
  給うと。
 

2月19日 癸酉
  南御堂の事始めなり。武衛(香の御水干。鴾毛の御馬に駕す)その所に渡御す。御堂
  の地南山麓に仮屋を構う。御台所同じく入御す。今日の儀を覧んが為なり。申の刻番
  匠等禄を賜う。御馬を引かると。その後熊野山領参河の国竹谷・蒲形両庄の事、その
  沙汰有り。当庄の根本は、開発領主散位俊成彼の山に奉寄するの間、別当湛快これを
  領掌せしめ、女子に譲附す。件の女子始め行快僧都の妻たり。後前の薩摩の守平忠度
  朝臣に嫁す。忠度一谷に於いて誅戮せらるの後、没官領として、武衛拝領せしめ給う
  の地なり。而るに領主の女子本の夫行快に懇望せしめて云く、早く子細を関東に愁い
  申し、件の両庄を安堵せしむべし。もし然れば、未来を行快子息(女子腹と)に譲る
  べしと。この契約に就いて、行快僧都熊野より使者(僧栄坊)を差し進せ、言上する
  所なり。行快と謂うは、行範の一男、六條廷尉禅門為義の外孫たり。源家に於いてそ
  の好すでに他に異なる。仍って本より重んずるの処、この愁訴出来するの間、左右無
  く下知を加え給う。且つは又御敬神の故なりと。
 
  また廷尉(義経)、昨日終夜阿波の国と讃岐との境の中山を越え、今日辰の刻屋島の
  内裏の向浦に到り、牟礼高松の民屋を焼き払う。これに依って先帝内裏を出でしめ御
  う。前の内府また一族等を相率い海上に浮かぶ。廷尉(赤地錦の直垂・紅下濃の鎧を
  着し、黒馬に駕す)、田代の冠者信綱・金子の十郎家忠・同余一近則・伊勢の三郎能
  盛等を相具し、汀に馳せ向かう。平家また船に棹さし、互いに矢石を発つ。この間佐
  藤三郎兵衛の尉継信・同四郎兵衛の尉忠信・後藤兵衛の尉實基・同養子新兵衛の尉基
  清等、内裏並びに内府休幕以下の舎屋を焼失す。黒煙天に聳え、白日光を蔽う。時に
  越中二郎兵衛の尉盛継・上総五郎兵衛の尉忠光(平氏家人)等、船より下りて宮門の
  前に陣し、合戦するの間、廷尉の家人継信射取られをはんぬ。廷尉大いに悲歎し、一
  口の衲衣を屈し千株松本に葬る。秘蔵の名馬(大夫黒と号す。元院の御厩の御馬なり。
  行幸供奉の時、仙洞よりこれを給う。戦場に向かう毎にこれに駕す)を以て件の僧に
  賜う。これ戦士を撫るの計なり。美談とせざると云うこと莫しと。

  同日住吉の神主津守長盛参洛す。奏聞を経て称く、去る十六日、当社恒例の御神楽を
  行うの間、子の刻に及び、鏑鳴り第三神殿より出て、西方を指し行くと。この間追討
  の御祈りを奉仕す。霊験掲焉たるものか。
 

2月20日 甲戌 雨下る [玉葉]
  住吉社より奏状を進して云く、去る十六日宝殿より神鏑西方を指し飛び去りをはんぬ
  (神官これを聞くと)。実に希有の事なり。昔将門征討せらるるの時、住吉大明神合
  力の由證拠等有り。今また此の如し。神明未だ国を棄てざるか。但し無徳の世猶以て
  憑み難きか。
 

2月21日 乙亥
  平家讃岐の国志度の道場に籠もる。廷尉八十騎の兵を引きい、彼の所に追い到る。平
  氏の家人田内左衛門の尉廷尉に帰伏す。また河野の四郎通信、三十艘の兵船を粧い参
  加す。義経主すでに阿波の国に渡る。熊野の別当湛増源氏に合力せんが為同じく渡る
  の由、今日洛中に風聞すと。
 

2月22日 丙子
  梶原平三景時以下の東士、百四十余艘を以て屋島の磯に着くと。
 

2月27日 辛巳
  夜に入り、追討の御祈りとして、賀茂社に於いて御神楽を行わる。宮人の曲有りと。

[玉葉]
  伝聞、九郎去る十六日纜を解き、無為に阿波の国に着きをはんぬと。件の日、住吉の
  神鏑鳴る日なり。厳重と謂うべしと。
 

2月29日 癸未
  加藤の五郎入道営中に参り、一封の状を御前に置かる。事問わざるに落涙数行す。小
  時申して云く、愚息景廉、三州の御共として鎮西に下向す。而るに去る月周防の国よ
  り豊後の国に渡らしめ給わんと欲するの刻、景廉重病に沈む。然れども病身を一葉の
  船に乗せ、猶御共を為すの由これを申し送る。則ちこの状なり。凡そ君の奉為、戦場
  に臨み万死の数に入る。今に於いてはまた病に侵され、殆ど死を免がれ難からんか。
  再び合眼せずんば、老耄の存命甚だ拠所無しと。武衛御感涙を拭いながら、景廉が状
  (和字)を覧る。その趣、常に御座右に候すべきの旨、兼日厳命を奉ると雖も、天下
  重事の時に臨み、猶留むべからざるの由思い定むの間、なまじいに以て西海に赴くの
  処、病痾すでに危急に及ぶ。縦え命を墜すと雖も、国敵を討たれんが為の由、思し食
  さるべく候かの趣、披露すべしてえり。