1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)
 
 

4月4日 丁巳
  平家悉く以て討滅するの由、去る夜源廷尉(義経)の使い京都に馳せ申す。今日また
  源兵衛の尉弘綱を以て、傷死生虜の交名を註し、仙洞に奉ると。

[玉葉]
  早旦人告げて云く、長門の国に於いて平氏等を誅伐しをはんぬと。未の刻、大蔵卿泰
  経の奉行として、義経平家を伐ちをはんぬの由言上す。(略)頭の弁光雅朝臣来臨す。
  光雅仰せて云く、院宣に云く、追討大将軍義経、去る夜飛脚(札を相副う)を進し申
  して云く、去る三月二十四日午の刻、長門の国團に於いて合戦す(海上に於いて合戦
  すと)。午正より申の刻に至り、伐ち取るの者と云い、生け取るの輩と云い、その数
  を知らず。この中、前の内大臣・右衛門の督清宗(内府子なり)・平大納言時忠・全
  眞僧都等生虜りたりと。また宝物等御坐すの由、同じく申し上げる所なり。但し旧主
  の御事分明ならずと。
 

4月5日 戊午
  大夫の尉信盛勅使として長門の国に赴く。征伐すでに武威を顕わす。大功の至り、殊
  に感じ思し食す所なり。また宝物等、無為に入れ奉るべきの由、義経朝臣に仰せらる
  るに依ってなり。
 

4月11日 甲子
  未の刻、南御堂の柱立てなり。武衛監臨し給う。この間西海の飛脚参り、平氏討滅の
  由を申す。廷尉一巻の記を進す(中原信泰これを書くと)。これ去る月二十四日、長
  門の国赤間関の海上に於いて、八百四十余艘の兵船を浮かぶ。平氏また五百余艘を漕
  ぎ向かい合戦す。午の刻逆党敗北す。
   一、先帝海底に没し御う
   一、海に入る人々
      二位尼上         門脇中納言教盛  新中納言知盛
      平宰相経盛(先に出家か) 新三位中将資盛  小松少将有盛
      左馬の頭行盛
   一、若宮並びに建禮門院無為にこれを取り奉る
   一、生虜の人々
      前の内大臣         平大納言時忠   右衛門の督清宗
      前の内蔵の頭信基(疵を被る)左中将時實(同上)兵部少輔尹明
      内府子息六歳童形(字副将丸)
     此の外
      美濃前司則清    民部大夫成良  源大夫判官季貞  摂津判官盛澄
      飛騨左衛門の尉経景 後藤内左衛門の尉信康       右馬の允家村
     女房
      師典侍(先帝御乳母) 大納言典侍(重衡卿妻)
      師の局(二品妹)   按察の局(先帝を抱き奉り入水すと雖も、存命)
     僧
      僧都全眞       律師忠快
      法眼能圓       法眼行明(熊野別当)
   宗たる分の交名且つは此の如し。この外男女生取る事追って注し申すべし。また内
   侍所・神璽は御坐すと雖も、宝劔は紛失す。愚慮の覃ぶ所これを捜し求め奉る。
  籐判官代御前に跪き、この記を読み申す。因幡の守並びに俊兼・筑前の三郎等その砌
  に候す。武衛則ちこれを取り、自らこれを巻き持たしめ給い、鶴岡の方に向かい座せ
  しめ給う。御詞を発せらるること能わず。柱立て・上棟等事終わり、匠等禄を賜う。
  漸く営中に還らしめ給うの後、使者を召し、合戦の間の事具にこれを尋ね下さると。
 

4月12日 乙丑
  平氏滅亡の後、西海に於いて沙汰有るべき條々、今日群議を経らると。参河の守は暫
  く九州に住し、没官領以下の事これを尋ね沙汰せしむべし。廷尉は生虜等を相具し、
  上洛すべきの由定めらると。即ち雑色時澤・重長等、飛脚として鎮西に赴くと。
 

4月13日 丙寅
  武蔵の国威光寺の院主長栄懇祈を日夜怠らず。然るに平家滅亡しをはんぬ。御感の沙
  汰有るの処、小山の太郎有高の為寺領を押領せらるの由、去年九月給う所の御下文を
  捧げ、訴え申す所なり。仍って今日沙汰を経らる。御下文を帯すの上は、その功を失
  い、濫妨を成すこと能治の計に非ず。元の如く返し付くべきの由、因幡の守廣元下知
  を加うに依って、主計の允行政・右馬の允遠光・甲斐の小四郎秋家・判官代邦通・筑
  前の三郎孝尚等連署すと。
 

4月14日 丁卯
  大蔵卿泰経朝臣の使者関東に参着す。追討無為、偏に兵法の巧に依るなり。叡感少彙
  の由申すべきの趣、院宣を被る所なりてえり。武衛殊に謹悦し給うと。今日、波多野
  の四郎経家(大友と号す)鎮西より帰参す。これ齋院次官親能の舅なり。則ち御前に
  召し、西海合戦の間の事を問わしめ給うと。
 

4月15日 戊辰
  関東の御家人、内挙を蒙らず、功無くして多く以て衛府・所司等の官を拝任す。各々
  殊に奇怪の由、御下文を彼の輩の中に遣わさる。件の名字一紙に載せ、面々その不可
  を注し加えらると。
   下す 東国侍の内任官の輩中
    本国に下向することを停止せしめ、各々在京し陣直公役に勤仕すべき事
     副え下す 交名注文一通
   右任官の習い、或いは上日の労を以て御給を賜い、或いは私物を以て朝家の御大事
   を償い、各々朝恩に浴す事なり。而るに東国の輩、徒に庄園の年貢を抑留し、国衙
   の官物を掠め取り、成功に募らず自由に拝任す。官途の陵遅すでにこれに在り。偏
   に任官を停止せしめば、成功の便無きものか。先官当職を云わず、任官の輩に於い
   ては、永く城外の思いを停め、在京し陣役に勤仕せしむべし。すでに朝列に廁う。
   何ぞ籠居せしむや。もし違い墨俣以東に下向せしめば、且つは各々本領を召され、
   且つはまた斬罪に申し行わしむべきの状、件の如し。
     元暦二年四月十五日
   東国住人任官の輩の事
   兵衛の尉義廉 鎌倉殿は悪主なり。木曽は吉主なりと申して、父を始め親昵等を相
          具し、木曽殿に参らしむなんどと申て、鎌倉殿に祇候せば、終には
          落人となり給うと。処せられなんとて候しは、何に忘却せしむか。
          希有の悪兵衛の尉かな。
   兵衛の尉忠信 秀衡の郎等、衛府を拝任せしむ事、往昔より未だ有らず。涯分を計
          り、おられよかし。その気にてやらん。これは猫にをつる。
   兵衛の尉重経 御勘当は、ほぼ免されにき。然れば本領に帰府せしむべきの処、今
          は本領に付け申されざれかし。
   渋谷馬の允  父は在国なり。而るに平家に付き経廻せしむの間、木曽大勢を以て
          攻め入るの時、木曽に付いて留まる。また判官殿御入京の時、また
          落ち参る。度々の合戦に、心は甲にて有れば、前々の御勘当を免じ、
          召し仕わるべきの処、衛府して頸を斬られぬるはいかに。能く用意
          して加治に語らい、頸玉に厚く巻金をすべきなり。
   小河馬の允  少々御勘当免じて、御糸惜しみ有るべきの由思し食すの処、色様吉
          からず。何料の任官やらん。
   兵衛の尉基清 目は鼠眼にて、ただ候すべきの処、任官希有なり。
   馬の允有経  少々奴、木曽殿御勘当有るの処、少々免ぜしめ給いたらば、ただ候
          すべきに、五位の馬の允、未曾有の事なり。
   刑部の丞友景 音様しわがれて、後鬢さまで刑部からなし。
 同男兵衛の尉景貞 合戦の時、心甲にて有る由聞こし食す。仍って御糸惜しみ有るべき
          の由思し食すの処、任官希有なり。
   兵衛の尉景高 悪気色して、本より白者と御覧ぜしに、任官誠に見苦し。
   馬の允時経  大虚言計りを能として、えしらぬ官好みして、甲斐庄と云うを知ら
          ず。あわれ水駅の人かな。悪馬細工して有れかし。
   兵衛の尉季綱 御勘当すこし免して有るべき処、由無き任官かな。
   馬の允能忠  同じ。
   豊田兵衛の尉 色は白らかにして、顔は不覚気なるものの、ただ候すべきに、任官
          希有なり。また下総に於いて、度々召し有るに不参して、東国平ら
          げられて後参る。不覚か。
   兵衛の尉政綱
   兵衛の尉忠綱 本領少々返し給うべきの処、任官して、今は相叶うべからず。鳴呼
          の人かな。
  [馬の允有長]
  右衛門の尉季重 [顔はふわふわとして、希有の任官かな。]
  左衛門の尉景季 久日源三郎
   縫殿の助   顔はふわふわとして、希有の任官かな。
   宮内の丞舒国 大井の渡りに於いて、声様誠に臆病気にて、任官見苦しき事かな。
   刑部の丞経俊 官を好み、その要用無き事か。あわれ無益の事かな。
     この外の輩、その数多く拝任せしむと雖も、文武官の間、何官何職、分明知ろ
     し食し及ばざるの故、委しく注文に載せられず。この外と雖も、永く城外の思
     いを停止せしむべきか。
  右衛門の尉友家
   兵衛の尉朝政
     件の両人、鎮西に下向するの時、京に於いて拝任せしむ事、駘馬の道草を喰ら
     うが如し。同じく以て下向すべからざるの状件の如し。
 

4月20日 癸酉
  今日伊豆の国三島社の祭日を迎え、武衛御願を果たさんが為、当国糠田郷を彼の社に
  寄附せらる。而るにこれより先御奉寄の地三箇所これ有り。今すでに四箇所と為るな
  り。これを相分け、河原谷・三園を以て、六月二十日臨時祭の料所に募り、神主盛方
  (東大夫と号す)に付けらる。糠田・長崎を以て、八月放生会(二宮八幡宮)の料所
  と為し、神主盛成(西大夫と号す)に付けらる。これ皆北條殿御奉り施行せしめ給う
  と。

[玉葉]
  午の刻、頭の中将通資朝臣院の御使として来たり。問いて云く、神鏡等すでに渡辺に
  着御するの由、義経路より飛脚を進す(去る夜到来すと)。御入洛の日、日次を撰ば
  るべし。仍って陰陽家に問わるるの処、明日(二十一日)並びに二十五日等吉日たる
  の由注し申す所なり。而るに明日の事、率爾に議すの間、自ずと御後悔有るか。仍っ
  て二十五日に延行せらる如何。兼ねてまた建禮門院、並びに前の内府同じく以て相具
  す所なり。彼の人々の事何様沙汰有るべきや。計り申すべしてえり。
 

4月21日 甲戌
  梶原平三景時の飛脚鎮西より参着す。親類を参進し書状を献上す。始めは合戦の次第
  を申す。終わりは廷尉不義の事を訴う。その詞に云く、
   西海御合戦の間、吉瑞これ多し。御平安の事、兼ねて神明の祥を示す所なり。所以
   如何なれば、先ず三月二十日、景時郎従海太の成光が夢想ニ、浄衣の男立文を捧げ
   テ来たり。これ石清水の御使カト覚エ披見するの処、平家ハ未ノ日死すべしト載せ
   タリ。覚めての後、彼の男相語ル。仍って未の日、相構えテ勝負を決すべきの由存
   じ思うの処、果たして有るが如し。また屋島の戦場を攻め落とすの時、御方の軍兵
   幾ばくならず。而るに数万の勢マホロシニ出現シテ、敵人ニ見ゆと。次いで去々年
   長門の国合戦の時、大亀一つ出来す。始め海上に浮かび、後ニハ陸に昇る。仍って
   海人これを怪しみ、参河の守殿の御前に持参す。六人力を以て、猶持ち煩うの程な
   り。時にその甲を放つべきの由相儀するの処、これより先夢の告げ有り。忽ち思い
   合うトテ、参河の守殿制禁を加えテ、剰え簡に付けテ放ち遣わされをはんぬ。然る
   を平氏の最後ニ臨み、件の亀(簡を以てこれを知る)再び源氏の御船の前に浮かび
   出る。次いで白鳩二羽船の屋形の上に翻り舞う。その時に当たり、平氏ノ宗の人々
   海底に入る。次いで周防の国合戦の時、白旗一流中空に出現し、暫く御方の軍士の
   眼前に見ゆ。終ニ雲膚に収まりをはんぬと。
   また曰く、判官殿君の御代官として、御家人等を副え遣わし、合戦を遂げられをは
   んぬ。而るに頻りに一身の功の由を存ぜらるると雖も、偏に多勢の合力に依らんか。
   謂うに多勢の人毎に判官殿を思わず、志君を仰ぎ奉るが故、同心の勲功を励ましを
   はんぬ。仍って平家を討滅するの後、判官殿の形勢、殆ど日来の儀に超過す。士卒
   の所存、皆薄氷を踏むが如し。敢えて真実和順の志無し。就中、景時御所の近士と
   して、なまじいに厳命の趣を伺い知るの間、彼の非拠を見る毎に、関東の御気色に
   違うべきかの由、諫め申すの処、諷詞還って身の讎と為る。ややもすれば刑を招く
   ものなり。合戦無為の今、祇候の拠所無し。早く御免を蒙り帰参せんと欲すと。
  凡そ和田の小太郎義盛と梶原平三景時とは、侍の別当・所司なり。仍って舎弟の両将
  を西海に発遣せらるるの時、軍士等の事、奉行せしめんが為、義盛を参州に付けられ、
  景時を廷尉に付けらるるの処、参州は、本より武衛の仰せに乖かざるに依って、大小
  の事常胤・義盛等に示し合わす。廷尉は、自専の慮りを挿み、曽って御旨を守らず、
  偏に雅意に任せ自由の張行を致すの間、人の恨みを成す。景時に限らずと。

[玉葉]
  泰経卿を以て密々尋ね問わるる事等
  一、建禮門院の御事如何。その御所京中か、城外か。将又知ろし食さず、ただ武士の
    家たるべきか。
   申して云く、武士に付けらるる事、一切候べからず。古来、女房の罪科は聞かざる
   事なり。然るべき片山里の辺に座せらるべきか。
  一、前の内府の事如何。義経申して云く、相具し入京すべきか。将又河陽の辺に留置
    すべきか。死生の間の事、頼朝に仰せ合わさるべきか。私に申し遣わしをはんぬ。
    飛脚未だ到らず。進退惟谷む。この上如何計り申すべし。
   申して云く、この事更に思し食し煩うべからざるなり。追討の由を仰せられ、梟首
   すべきの由疑い無しと雖も、生虜として参上す。その上死を賜うべきの由仰せられ
   難し。我が朝死罪を行わざるが故なり。保元この例有り。時の人甘心せず。仍って
   今度、左右無く遠流に処せらるべきなり。而るにその国用意有るべし。南北西の三
   方に於いては然るべからず。東海・東山等の遠国に遣わさるべきなり。沙汰の趣難
   無し。而るに頼朝の雅意に叶うか。御使を遣わされ、徒に数日を経るの條、太だ以
   て見苦しきか。また事私の故有るに似たるなり。泰経太だ以て甘心す。
  一、頼朝の賞の事、請いに依るの由仰せらるべし。将に暗に行わるるべきか。その賞
    如何。
   申して云く、理須く暗に仰せらるべきなり。而るに彼の意趣知り難きか。仍って請
   いに依るの由仰せられ如何。但しその賞上階の上、都督若しくは衛府の督等の間か。
   この賞等定めて不快の思い無きか。仍って行わるるの條宜しきか。但し叡念在るべ
   してえり。泰経事の由を奏す。頼朝の賞の事、猶暗に仰せらるる事、猶予有って仰
   せ合わさるべしと。他事等御甘心有りと。
 

4月24日 丁丑
  賢所・神璽今津の辺に着かしめ御う。仍って頭の中将通資朝臣その所に参る。夜に入
  り、籐中納言経房・宰相中将泰通・権右中弁兼忠朝臣・左中将公時朝臣・右少将範能
  朝臣・蔵人左衛門権の佐親雅等、桂河に参向す。大祓いの後、朱雀大路並びに六條を
  経て、大宮より待賢門に入御し、官の朝所(東門を経る)に渡御す。この間大夫判官
  義経鎧を着し供奉し、官の東門に候す。看督長布衣を着し、松明を取り前に在りと。
  また範頼朝臣(その身九州に在り)参河の国司を辞す。その辞状今日関東に到着す。
  親能これを執り進す。仍って院奏有るべしと。
 

4月25日 戊寅 天晴 [玉葉]
  酉の初め、高畠橋下方に参着す。幾ばくならず御船を付く。御船を去り岸上北方に幄
  を立て、上卿参議弁座と為す。東方差し退き幄を立て、職事次将等の座と為す。上卿
  権中納言藤原経房・参議左中将藤原泰通等の卿・権右中弁源兼忠朝臣、北の幄座に着
  く。蔵人頭左中将源通資朝臣・蔵人左衛門権の佐藤原親雅・左中将藤原公時・右少将
  藤原範能等の朝臣。東の幄に着く。官掌召使指せる座無きか。左右近将監已下参るや
  否や。これを尋ぬべし。内侍所命婦・女官等参仕す。秉燭の後、職事等御船中に入る。
 

4月26日 己卯
  近年兵革の間、武勇の輩私威を耀かし、諸庄園に於いて濫行を致すか。これに依って
  去年春の比、宜しく停止せしむべきの由、綸旨を下されをはんぬ。而るに関東、實平
  ・景時を以て、近国の惣追捕使に差し定めらるるの処、彼の両人に於いては廉直を存
  ずると雖も、補置する所の眼代等、各々猥りの所行有るの由、漸く人の訴えを懐く。
  これに就いて早く停止せしむべきの旨、御下文を成さるる所なり。俊兼これを奉行す
  と。
   下す 畿内近国實平押領の所々
    早く院宣の状に任せ、實平が知行の濫妨を停止せしむべき事
   右畿内・近国の庄公、指せる由緒無く空しく以て押領す。各々代官の輩、偏に郡内
   に居住し、本所の下知に随わず、国宣の廰催を忽緒す。或いは年貢を掠め取り、或
   いは官物を犯用す。所行の至り、尤も以て不当の事なり。今に於いては、早く下さ
   るる院宣に随い、是非を論ぜず、堺内を退出せしむの後、理を帯せば、追って子細
   を言上せしむべきの状件の如し。以て下す。
     元暦二年四月二十六日

  [下す 畿内近国景時押領の所々
    早く院宣の状に任せ、景時が知行の濫妨を停止せしむべき事
   右畿内・近国の庄公、指せる由緒無く空しく以て押領す。各々代官の輩、偏に郡内
   に居住し、平家預所の下知に随わず、国宣の廰催を忽緒す。或いは年貢を掠め取り、
   或いは官物を犯用す。所行の至り、尤も以て不当の事なり。今に於いては、早く下
   さるる院宣に随い、是非を論ぜず、堺内を退出せしむの後、理を帯せば、追って子
   細を言上せしむべきの状件の如し。以て下す。
     元暦二年四月二十六日]
  今日前の内府已下の生虜、召しに依って入洛すべきの間、法皇その躰を御覧ぜんが為、
  密々御車を六條坊城に立てらると。申の刻各々入洛す。前の内府・平大納言(各々八
  葉の車に駕す。前後の簾を上げ、物見を開くと)、右衛門の督(父の車の後に乗る。
  各々浄衣・立烏帽子)、土肥の次郎實平(黒糸威の鎧)車の前に在り。伊勢の三郎能
  盛(肩白赤威の鎧)同じく後に在り。その外の勇士車を相圍む。また美濃の前司以下
  同じくこれに相具す。信基・時實等は、疵を被るに依って閑路を用いると。皆悉く廷
  尉の六條室町亭に入ると。同日則ち罪状定め有り。前の内府父子並びに家人等死罪に
  処せらるべきの由、明法博士章貞勘文を進すと。

[玉葉]
  この日、前の内府、並びに時忠卿以下入洛すと。各々乗車、車簾を上げ浄衣を着すと。
  清宗卿前の内府に同車すと。盛隆・季貞以下の生虜並びに帰降の輩、騎馬車の後に在
  り。武士等囲繞すと。両人共義経の家に安置す。風聞の如きは、来月四日義経に相具
  し頼朝の許に赴くべしと。
 

[4月28日 辛巳
  建禮門院吉田の辺に渡御す(律師實憲坊)。また若宮(今上兄)船津に御坐すの間、
  侍従信清参向せしめこれを迎え奉り、七條坊門亭に入れ奉ると。]
  今日、近江の国住人前の出羽の守重遠参上す。これ累代の御家人なり。齢八旬と。武
  衛その志を哀れみ御前に召す。舎弟十郎並びに僧蓮仁等扶持を加う。重遠申して云く、
  平治合戦の後、譜代の好を存ずるの間、終に平家の威権に随わず、二十余年を送りを
  はんぬ。適々御執権の秋に逢い、愁眉を開くべきの処、還って在京の東士等が為、兵
  粮と称し番役と号し譴責の條、太だ以て堪え難し。凡そ一身の訴えに非ず諸人の愁え
  に及ぶ。平氏の時曽てこの儀無し。世上未だ収まらざるかと。申し状の趣、尤も正理
  に叶うの由御感有り。仍って然る如きの濫妨を停止し、安堵の思いを成さしむべきの
  旨、直に恩裁有りと。また国中訴訟の事、御沙汰有るべきの由と。

[玉葉]
  伝聞、去る夜諸司入御の時、供奉の輩参仕す。諸卿皆参るの儀無く先ず行幸、その後
  渡御すと。神鏡温明殿に御すの後、元の御辛櫃移し奉ると。神璽同じく温明殿に入御
  す。辛櫃の蓋を開け、頭の中将通資朝臣これを取り、御殿に持参すと。
  昨日頼朝の賞を宣下せらる。従二位に叙すと(上卿實房卿。内記不参に依って外記頼
  業に仰すと)。また聞く。草津より入御の儀、泰通弓箭を帯せずと。太だ然るべから
  ざるか。
 

4月29日 壬午
  雑色吉枝御使として西海に赴く。これ御書を田代の冠者信綱に遣わさるる所なり。廷
  尉は、関東の御使として御家人を相副え、西国に差し遣わさるるの処、偏に自専の儀
  を存じ、侍等を以て私に服仕の思いを成すの間、面々に恨み有りと。[所詮向後に於
  いては]、志を関東に存すの輩は、廷尉に随うべからざるの由、内々相触るべしと。
  今日備中の国妹尾郷を以て、崇徳院法華堂の経堂に付けらる。これ没官領として武衛
  拝領せしめ給う所なり。仍って彼の御菩提を資け奉らんが為、衆僧の供料に宛てらる
  ると。