1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)
 
 

3月1日 甲申
  夜に入り西国の飛脚参着す。合戦の事かの由推量を成すの間、鎌倉中の諸人馳参すと。
 

3月2日 乙酉
  去る夜の飛脚は、渋谷庄司重国が使いなり。去る正月、参州周防の国より豊後の国に
  渡らるるの時、最前に渡海し、種直を討つの由これを申す。今日、内蔵寮領山城の国
  精進の御薗の事、給人景清の妨げを止め、刑部の丞信親領掌せしむべきの旨、武衛直
  に下知せしめ給うと。
 

3月3日 丙戌
  左馬の頭義仲朝臣の妹公有り。これ先日武衛御台所御猶子の契り有り。而るに美濃(一
  村御志有るの間在国)より上洛し、御息女の威に募り、在京するの間、奸曲の輩多く
  以てこれに属く。往日棄損の古文書を捧げ、不知行の所々を件の姫公に寄附するの後、
  またその使節と称し、権門庄公等を押妨す。この事、当時人庶の愁う所なり。既に関
  東の御遠聞に達するの間、これを物狂い女房と号す。且つは彼の濫吹を停止し、且つ
  は相順う族を搦め進すべきの由、今日近藤七国平、並びに在京・畿内の御家人等の許
  に仰せ遣わさる。但し御一族の中に於いて、奸濫人相交るの條、世の謗りを恥給うに
  依って、御書の面に於いては物狂いの由を載せらるると雖も、潛かに憐愍の御志有り。
  関東に参向すべきの趣、内々諫め仰せらると。
 

3月4日 丁亥
  畿内近国の狼唳を鎮めんが為、典膳大夫久経・近藤七国平を以て、御使として差し遣
  わされすでにをはんぬ。而るに猶在洛の武士狼藉を現すの由聞き及ばしめ給うに依っ
  て、叡疑の恐れを散ぜんが為、その子細を言上せらると。
   武士の上洛候事は、朝敵を追討せしめんが為に候なり。朝敵候せざれば、武士[ま
   た上洛せしむべからず。武士]また上洛せしめざれば、狼藉を致すべからず候か。
   而るに敵人海を隔つの間、今に追討を遂げず。経廻の武士、国々庄々四度計無き事、
   その聞こえ多く候。仍って追討せらる以後、直に沙汰せしむべきの由、存じ思い給
   い候と雖も、近国に於いては、且つは糺定せしめんが為、使者二人上洛せしめ候所
   なり。その以前不覚者候わば、ただ院宣を守り、御使に相副え、計を廻らし行わん
   が為に候。然るべからざる進退せしめ候わば、定めて自由の沙汰に似候うか。頼朝
   が威に募り、武士濫妨の事、停止せしめ候の計なり。子細の勒状、使者に給い候い
   をはんぬ。この旨を以て申し沙汰せしめ給うべく候。恐々謹言。
     三月四日           頼朝
   謹上 籐中納言殿

[玉葉]
  隆職追討の間の事を注し送る。義経が許より上状を申すと。去る月十六日纜を解く。
  十七日阿波の国に着く。十八日屋島に寄せ、凶党を追い落としをはんぬ。然れども、
  未だ平家を伐ち取らずと。
 

3月6日 己丑
  景廉所労の事、武衛御歎息殊に甚だし。仍って景廉病痾の事、尤も療養を加うべし。
  平癒の後は、早く帰参すべきの由、示し付けらるべきの趣、御書を参州に献ぜらる。
  また慇懃の御書を景廉に遣わされ、病悩の事を訪い仰せらる。剰え御馬(御厩の小鴾
  毛、景義進す)一疋を引き送らる。これに駕し参るべしと。因幡の前司これを奉行す。
 

3月7日 庚寅
  東大寺修造の事、殊に丹誠を抽んずべきの由、武衛御書を南都の衆徒中に遣わさる。
  また奉加物を大勧進重源聖人に送られをはんぬ。所謂八木一万石・砂金一千両・上絹
  一千疋と。御書に云く、
    東大寺の事
   右当寺は、平家の乱逆に破滅す。遂に回禄の厄難に逢い、仏像灰燼と為り、僧徒没
   亡に及ぶ。積悪の至り、比類これ少なきものか。殊に以て歎き思い給う所なり。今
   に於いては、旧の如く修復造営を遂げしめ、鎮護国家を祈り奉らるべきなり。世縦
   え澆季に及ぶと雖も、君猶舜徳を施せしめば、王法・仏法、共に以て繁昌候わんか。
   御沙汰の條、法皇定めて思し食し知り候わんか。然れども当時の如きは、朝敵追討
   の間、他事無きに依って、若しくは遅々せしめ候か。且つはまた当寺の事、丁寧を
   致すべきの由、相存ぜしめ候所なり。仍って勒状件の如し。
     三月七日           前の右兵衛の佐源朝臣
 

3月8日 辛卯
  源廷尉(義経)の飛脚西国より参着す。申して云く、去る月十七日、僅かに百五十騎
  を卒い、暴風を凌ぎ、渡部より纜を解く。翌日卯の刻阿波の国に着き、則ち合戦を遂
  ぐ。平家の従兵、或いは誅せられ或いは逃亡す。仍って十九日、廷尉屋島に向かわれ
  をはんぬ。この使その左右を待たず馳参す。而るに播磨の国に於いて後を顧るの処、
  屋島の方黒煙天に聳ゆ。合戦すでにをはんぬ。内裏以下焼亡その疑い無しと。
 

3月9日 壬辰
  参河の守西海より状を献られて云く、平家の在所近々たるに就いて、相構えて豊後の
  国に着くの処、民庶悉く逃亡するの間、兵粮その術無きに依って、和田の太郎兄弟・
  大多和の次郎・工藤一臈以下侍数輩、推して帰参せんと欲するの間、枉げてこれを抑
  留し、相伴い渡海しをはんぬ。猶御旨を加えらるべきか。次いで熊野の別当湛増、廷
  尉の引級に依って追討使を承り、去る比讃岐の国に渡る。今また九国に入るべきの由
  その聞こえ有り。四国の事は義経これを奉る。九州の事は範頼奉るの処、更にまた然
  る如きの輩に抽んぜらる。啻に身の面目を失うのみならず、すでに他の勇士無きに似
  たり。人の思う所尤も恥と為すと。
 

3月11日 甲午
  参州の御返報を遣わさる。湛増渡海の事、その実無きの由これを載せらる。また関東
  より差し遣わさる所の御家人等、皆悉く憐愍せらるべし。就中、千葉の介常胤老骨を
  顧みず、旅泊に堪忍するの條殊に神妙なり。傍輩に抜んで賞翫せらるべきものか。凡
  そ常胤が大功に於いては、生涯更に報謝を尽くすべからざるの由と。また北條の小四
  郎殿並びに小山の小四郎朝政・同五郎宗政・齋院次官親能・葛西の三郎清重・加藤次
  景廉・工藤一臈祐経・宇佐美の三郎祐茂・天野の籐内遠景・新田の四郎忠常・比企の
  籐内朝宗・同籐四郎能員、以上十二人の中に、慇懃の御書を遣わさる。各々西海に在
  って殊に大功を抽んずるが故なり。同心して豊後の国に渡らしむ。神妙の趣御感在る
  所なり。伊豆・駿河等の国の御家人、同じくこの旨を承り存ずべきの由と。
 

3月12日 乙未
  平氏を征罰せんが為、兵船三十二艘、日来伊豆の国鯉名の奥並びに妻良の津に浮かべ、
  兵粮米を納めらる。仍って早く纜を解くべきの由仰せ下さる。俊兼これを奉行す。
 

3月13日 丙申
  対馬の守親光は武衛の御外戚なり。在住の間、平氏の為襲わるるの由その聞こえ有る
  に依って、迎え取るべきの旨、今日参河の守の許に仰せ遣わさる。剰え過書を作し遣
  わさるる所なり。
   下す 西海・山陽道諸国の御家人
    早く事の煩い無く、対馬の前司の上道を勘過せしむべき事
   右彼の対馬の前司、任国より上道せらる所なり。諸国路次の間、事の煩い無く、狼
   藉無く、勘過せしむべきの状、仰せの所件の如し。以て下す。
     元暦二年三月十三日      前の右兵衛の佐源朝臣
 

3月14日 丁酉 雨
  鬼窪の小四郎行親使節として鎮西に下向す。御書を参州に遣わさる。これ追討の遠慮
  を廻らすべき事、賢所並びに宝物等無為に返し入れ奉るべき事等これに載せらると。
 

3月16日 己亥 天晴 [玉葉]
  伝聞、平家讃岐の国シハク庄に在り。而るに九郎襲い攻めるの間、合戦に及ばず引退
  し、安藝厳島に着きをはんぬと。その時僅かに百艘ばかりと。神鏡・劔璽帰り来たる
  事、公家殊なる祈祷無し。微臣壹この事を欲す。仍って近日殊に随分の祈り等を修す。
  また中心この事を察す。仏天定めて照覧有らんか。
 

3月17日 庚子 [玉葉]
  伝聞、平家或いは備前小島に在り。或いは伊豫五々島に在りと。鎮西の勢三百艘相加
  わると。但し実否知り難し。
 

3月18日 辛丑
  南御堂に於いて、番匠一人(字観能かてえり)、誤って木屋の上より地に落つ。然れ
  どもその身殊なる煩い無し。諸人奇異の思いを成す。これ眞実御所願仏意に叶うが故、
  この男死悶に及ばず。始終恃み有るの由、武衛御自愛再三と。
 

3月19日 壬寅 天晴 [玉葉]
  東大寺勧進聖人重源、指図の目録等を相具し来臨す。大仏の後山壊退すべきの間の事
  なり。先ず小分けに壊し御仏御背を鋳奉るべしと。この條尤も然るべきか。
 

3月21日 甲辰 甚雨
  廷尉平氏を攻めんが為、壇浦に発向せんと欲するの処、雨に依って延引す。爰に周防
  の国在廰船所の五郎正利、当国の舟船奉行たるに依って、数十艘を献ずるの間、義経
  朝臣書を正利に與う。鎌倉殿の御家人たるべきの由と。
 

3月22日 乙巳
  廷尉数十艘の兵船を促し、壇浦を差し纜を解くと。昨日より乗船を聚め計を廻らすと
  三浦の介義澄この事を聞き、当国大島の津に参会す。廷尉曰く、汝すでに門司関を見
  る者なり。今は案内者と謂うべし。然れば先登すべしてえり。義澄命を受け、壇浦奥
  津の辺(平家の陣を去ること三十余町なり)に進み到る。時に平家これを聞き、船に
  棹さし彦島を出る。赤間関を過ぎ田の浦に在りと。


3月24日 丁未
  長門の国赤間関壇浦の海上に於いて、源平相逢う。各々三町を隔て、舟船を漕ぎ向か
  う。平家五百余艘を三手に分け、山峨の兵籐次秀遠並びに松浦党等を以て大将軍と為
  し、源氏の将帥に挑戦す。午の刻に及び平氏終に敗傾す。二品禅尼宝劔を持ち、按察
  の局は先帝(春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す。建禮門院(藤重の御衣)
  入水し御うの処、渡部党源五馬の允、熊手を以てこれを取り奉る。按察大納言の局同
  じく存命す。但し先帝終に浮かばしめ御わず。若宮(今上兄)は御存命と。前の中納
  言(教盛、門脇と号す)入水す。前の参議(経盛)戦場を出て、陸地に至り出家し、
  立ち還りまた波の底に沈む。新三位中将(資盛)・前の少将有盛朝臣等同じく水に没
  す。前の内府(宗盛)・右衛門の督(清宗)等は、伊勢の三郎能盛が為生虜らる。そ
  の後軍士等御船に乱入す。或いは賢所を開き奉らんと欲す。時に両眼忽ち暗んで神心
  惘然たり。平大納言(時忠)制止を加うの間、彼等退去しをはんぬ。これ尊神の別躰、
  朝家の惣持なり。神武天皇第十代崇神天皇の御宇、神威の同殿を恐れ、鋳改め奉らる
  と。朱雀院の御宇長暦年中、内裏焼亡の時、圓規すでに虧けると雖も、平治逆乱の時
  は、師仲卿の袖に移らしめ給う。その後新造の櫃に入れ奉り、民部卿資長蔵人頭とし
  てこれを沙汰す。[澆季の今、猶神変を顕わす。仰ぐべし恃むべし。]

[平家物語]
  和田左衛門尉が未だ和田太郎とて有けるが、褐衣の鎧直垂に、赤地錦にて袖かへて、
  黒皮威の鎧に、黄河原毛なる馬に乗て打立つ。沖なる新中納言の船をささへて射る。
  渚より沖にむけて二町余り三町に及びて、新中納言の船を射越して、二の征矢を一所
  にこそ射うかべたれ。(略)新中納言これに遠矢射つべき兵や有ると尋給へば、伊豫
  国住人新紀四郎親家ぞ撰れて参りける。二の征矢を暫くつまよりて、是は沖より渚へ
  むかひて四町余りぞ射たれける。和田小太郎射劣りぬと思ひて、意趣を立てて、小船
  に乗て漕ぎめぐる。(中略) あはれ同くは、大将軍九郎義経に組ばやといふ。盛次
  が申けるは、九郎はせい小き男の白きが、向ふ歯そりたるなるぞ、さまをやつして尋
  常なる鎧は着ぬ也。ここにて着たる鎧をば、かしこにてかへ、かしこにて着たる鎧を
  ばここにてかへ、常に鎧を着かゆるぞ。これを心得てくめと云。
 

3月27日 庚戌
  土佐の国介良庄の住侶琳猷上人関東に参上す。これ源家に功有る者なり。去る壽永元
  年、武衛の舎弟土佐の冠者希義、彼の国に於いて蓮池権の守家綱が為討ち取らるるの
  時、死骸を遐邇に曝さんと欲す。爰に土人の中、自ら好忠の輩有りと雖も、平家の後
  聞を怖れ、葬礼の沙汰に及ばす。而るにこの上人、往日の師壇を以て、垣田郷の内に
  墓所を点じ、没後を訪い未だ怠らず。また幽霊の鬢髪を取り、今度則ち頸に懸け参向
  する所なり。走湯山の住僧良覺に属き、子細を申すの間、武衛御対面有り。上人の光
  臨を以て、亡魂の再来に用いるの由、芳讃を尽くさると。

[玉葉]
  伝聞、平氏長門の国に於いて伐たれをはんぬ。九郎の功と。実否未だ聞かず。
 

3月28日 辛亥 [玉葉]
  右少弁定長来たり。定長云く、平氏伐たれをはんぬるの由、この間風を聞く。これ佐
  々木の三郎ト申す武士の説と。然れども義経未だ飛脚を進せず。不審猶残ると。
 

3月29日 壬子
  平氏追討の事、武衛申さるるに依って、軍旅の功を励ましめんが為、廰の御下文を豊
  後の国の住人等の中に下さる。これ先日の事たりと雖も、彼の案文、今日関東に到来
  する所なり。
   院廰下す 豊後の国住人某等
    いよいよ征伐を専らにし、勲功を遂げ勧賞を期すべき事
   右、平家謀叛の党類、四国辺の島を往反し、朝憲を蔑爾するの間、鎮西辺の民多く
   烏合の群に入り、狼唳の企てを致せしむ。而るに当国の軍兵等、堅く王法を守り、
   凶醜に與せず。遂に数船を艤し、官軍を迎え取り、九国の輩を服従せしむべきの由
   その聞こえ有り。殊に以て叡感あり。いよいよ鋭兵を増し、彼の凶徒を討滅せしむ
   べきなり。各々その勲功に随い、請いに依って賞賜有るべきなり。当国の大名等、
   宜しく承知すべし。違越せしむ勿れてえり。仰せの所件の如し。故に下す。
     元暦二年二月二日

[玉葉]
  定能卿来たり、平氏の間の事を語る。昨日定長の語る如し。