1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)
 
 

5月1日 癸未
  故伊豫の守義仲朝臣の妹公(字菊)京都より参上す。これ武衛招引せしめ給うが故な
  り。御台所殊に愍み給う。先日所々押領の由の事、奸曲の族名を仮り面に立つの條、
  全く子細を知らざるの旨陳謝すと。豫州は朝敵として、討罰に預かると雖も、指せる
  雑怠無きの女性、盍ぞこれを憐まざらんかと。仍って美濃の国遠山庄の内一村を賜う
  所なり。また武衛御書を左兵衛佐局に遣わさる。これ崇徳院法華堂領新加の事なり。
  去年備前の国福岡庄を以て寄進せらるるの処、牢籠の間、これを取り替え尼(妹尾)
  に進せられをはんぬ。供仏施僧の媒として、御菩提を訪い奉らるべきの趣これを載せ
  らる。件の禅尼は武衛の親類なり。当初彼の院の御寵たるなりと。
  今日、建禮門院落飾せしめ御うと。

[吉記]
  今日建礼門院御遁世有り。戒師は大原本成房と。
 

5月2日 甲申
  土佐の上人琳献帰国す。関東に止住せしめ、一寺の別当職を掌どるべきの由、頻りに
  抑留し給うと雖も、土佐の冠者の墳墓に於いては、仏事を凝らすべきの旨申請するの
  間、御餞別会有り。また上人の住所介良庄、恒光名、津崎在家は、万雑事を停止せら
  れをはんぬ。しかのみならず、この上人故希義主の夢後を訪うに依って、その志に酬
  いんが為、賞翫すべきの趣、土佐の国の住人等に仰せらると。
 

5月3日 乙酉
  木曽の妹公の事、御扶持を加えらるる所なり。憐み奉るべきの趣、小諸の太郎光兼以
  下信濃の国の御家人等に仰せ付けらると。これ信州は、木曽分国を号す如く、住人皆
  彼の恩顧を蒙るが故なりと。

[玉葉]
  今日午の刻、頭の弁光雅朝臣、院の御使として来たり。二ヶ條の事を問う。
  一 時忠卿申して云く、賊に伴い西海に赴くの條、遁れ難きの過怠たりと雖も、神鏡
    の安全に於いては、時忠の殊功なり。縦え重科有るとも、この功に依り流刑を免
    ぜられ、京都に安堵せんと欲す。則ち剃首染衣して、深山に隠居すべきなりてえ
    り。申し状此の如し。寛宥有るべきや否や。宜しく計奏すべしてえり。
  申して云く、左右偏に勅定に在り。是非を計奏するに能わず。
  一 前の内大臣未だ除名宣旨を下されず。罪名を勘じらるるの時、除名せられをはん
    ぬ。配流官符に載せるの時、左遷の條如何。大臣の配流、太宰権師に補せらる定
    例なり。而るに今度関東に遣わさるべし。仍って東西参差、左遷に能わず。納言
    以下の例に准え権守に左遷、又その謂われ無きか。左右の間計奏すべしてえり。
  申して云く、権師に於いては、一切然るべからず。権守の條また謂われ無し。同じく
  新儀たれば、ただ左遷無きの儀如何。彼の高明・伊周等の例に似るべからざるの故な
  りてえり。
 

5月4日 丙戌
  梶原平三景時の使者鎮西に還ると。仍って御書を付けられ、廷尉を勘発せられをはん
  ぬ。今に於いては彼の下知に従うべからず。但し平氏の生虜等すでに入洛すと。これ
  当時重事なり。罪名治定の程は、景時已下御家人等、皆心を一つにして守護せしむべ
  し。各々意に任せ帰参せしむべからざるの由と。
 

5月5日 丁亥
  宝劔を尋ね奉るべきの由、雑色を以て飛脚と為し、参州に下知し給う。凡そ冬の比に
  至るまで九州に住し、諸事沙汰し鎮めらるべしてえり。且つはその次いでを以て、渋
  谷庄司重国、今度豊後の国の合戦に、加摩田兵衛の尉を討つこと、神妙の由感じ仰せ
  遣わさる。また参州に付け置かるる所の御家人等の事、縦え所存に乖く者相交ると雖
  も、私に勘発を加うべからず。関東に訴え申すべきの由と。去年の比、追討使として、
  二人の舎弟(範頼、義経)院宣を蒙りをはんぬ。爰に参州は九国に入るの間、九州を
  管領すべきの事。廷尉は四国に入るの間、またその国々の事を支配すべきの旨、兼日
  定めらるる処、今度廷尉壇浦合戦を遂げるの後、九国の事悉く以てこれを奪い沙汰す。
  相従う所の東士の事、小過たると雖も、これを免すに及ばず。また子細を武衛に申さ
  ず。ただ雅意に任せ、多く私の勘発を加うの由その聞こえ有り。縡すでに諸人の愁い
  たり。科また宥められ難し。仍って廷尉御気色を蒙ること先にをはんぬと。今日、小
  山の七郎朝光西海より帰参す。
 

5月6日 戊子
  公家追討報賽の為、二十二社の奉幣使を発遣せらる。上卿右大将良経、奉行弁兼忠朝
  臣と。

[吉記]
  巳の刻参院す(今熊野)。去る夜大府卿御教書を送り、参るべきの由示すが故なり。
  條々仰せ合わさるる事有り。
   前の内府関東に申請する間の事、
   時忠卿神鏡の事に依って、宥めらるべきや否やの事、
   残輩且つは罪條を行わるべきかの事、
    この外大府卿細々示し合わす事等有り。両人の事頼朝卿の許に仰せ遣わすべきの
    由仰せ有り。此の如き事跼蹐極まり無きものか。
  今日平家追討の事を報賽せんが為、二十二社の奉幣を行わる。宣命の趣、去る三月二
  十四日、魁首以下生虜すでに多し。神鏡・神璽安穏に帰御す。神□□□致す所なり。
  但しまた凶党、宝剣を海底に投げをはんぬ。冥徳顕現すべきの子細等なり。神宮別の
  御願に依って、神馬並びに金銀幣を献らる。また公卿勅使を立てらるべきの由、辞別
  に載せらると。上卿右大将、行事権右中弁兼忠朝臣、蔵人方の事、勘解由次官定経こ
  れを奉行す。使、石清水源中納言通親、賀茂新宰相雅長、松尾治部卿顕信、平野右京
  大夫季能、稲荷前摂津守以政朝臣、春日前伊與守隆親朝臣、自余諸大夫例の如し。
 

5月7日 己丑
  源廷尉の使者(亀井の六郎と号す)京都より参着す。異心を存ぜざるの由、起請文を
  献らるる所なり。因幡の前司廣元申次を為す。而るに三州は、西海より連々飛脚を進
  し子細を申す。事に於いて自由の張行無きの間、武衛また懇志を通せらる。廷尉は、
  ややもすれば自専の計有り。今御気色不快の由を伝え聞き、始めてこの儀に及ぶの間、
  御許容の限りに非ず。還って御忿怒の基たりと。

[玉葉]
  今暁、左馬の頭能保・大夫の尉義経等東国に下向す。前の内大臣父子、並びに郎従十
  余人相具すと。これ配流の儀に非ずと。

[吉記]
  早旦、大夫判官義経前の内府(張藍摺の輿に乗る)並びに前の右衛門の督清宗(騎馬)、
  及び生虜の輩を相具し関東に下向す。左馬の頭能保朝臣同じく下向すと。
 

5月8日 庚寅
  因幡の前司・大夫屬入道・筑後権の守・主計の允・筑前の三郎等参会し、鎮西の事等
  その沙汰を経らる。早く施行せしむべきの由、俊兼これを奉行す。その條々、
  一、宇佐大宮司公房日来平家の祈祷を致すと雖も、御敬神に依って、元の如く宮務を
    管領すべき事。
  一、同宮の祠官等御恩に浴すべき事。
  一、去年合戦の事に依って、当宮の神殿破損すと。殊に造替を加え、解謝し奉るべき
    の由啓白すべき事。
  一、平家没官領の外、貞能並びに盛国法師等、領家の免を得て、知行の所々有るの由
    風聞す。その在所を注し申すべき事。
  一、美気大蔵大夫(参州に過言する者なり)を関東に召し上すべき事。
  一、鎮西に遣わさるる所の御家人等、塩谷の五郎以下多く以て帰参しをはんぬ。御使
    を遣わし、向後の参上を止められ、西海を沙汰し鎮むべき事。
  一、西国御家人の交名、義盛に仰せ注進せしむべき事。
 

5月9日 辛卯
  渋谷の五郎重助、関東の御挙に預からず任官せしむ事、召名を申し止めらるべきの旨、
  重ねて沙汰有り。これ父重国石橋合戦の時、武衛を射奉ると雖も、寛宥の儀に依って
  召し仕わるるの処、重助は猶平家に属かしめ、度々の召しに背きをはんぬ。而るに平
  家城外に赴くの日、京都に留まり義仲朝臣に従う。滅亡の後、廷尉専一の者と為る。
  條々の科精兵の一事に優ぜらるるの処、結句任官せしめをはんぬ。旁々然るべからざ
  るの由その沙汰有り。今度、重国また豊後の国に渡るの時は、先登の功有りと雖も、
  参州に先立ち上洛するの條、同じく以て不快。則ちこの條々を仰せ遣わさると。また
  原田の所知は、勲功の輩に分ち宛てらるべきの由、参州に仰せ遣わさると。
 

5月10日 壬辰
  志摩の国麻生浦に於いて、加藤太光員の郎従等、平氏の家人上総の介忠清法師を搦め
  取る。京都に伝うと。

[吉記]
  右衛門権の佐棟範、殿下の御使として院に参上す。申して云く、宇佐宮黄金の御正体
  並びに流記の文書、武士の為追捕し取らるると。山の執当澄雲参上す。大山同じく滅
  亡せらるの由、解状を進す。皆これ参河の守範頼が所行なり。天の我が朝を滅すか。
  恐るべし。々々。
 

5月11日 癸巳
  前の内府を召し進せらるの賞に依って、武衛去る月二十七日従二位に叙し給う。除書
  今日到着す。左典厩能保執り進せらるる所なり。近日参向すべきの由申し送らると。

[吉記]
  午上参院す(押小路殿)。大蔵卿に付き頼朝卿の申状・事書状(昨日到来)、並びに
  彼の卿進す所の使の沙汰を致す武士妨げの庄園等の注文を奏す。その次いでに仰せて
  云く、管国等狼藉有るの由、所々より訴え有り。早く範頼を召し上すべし。また頼朝
  卿の許に仰せ遣わすべし。件の事申し沙汰すべしてえり。承るの由を申し、次いで退
  出す。
 

5月12日 甲午
  雑色常通使節として鎮西に赴く。御書を参州に遣わさるる所なり。西国の事、方々の
  御下文等、この青鳥に付けらるると。
 

5月14日 天晴 [吉記]
  忠清法師、一日比姉小路河原の辺に於いて梟首せられをはんぬ。去る比伊勢の国鈴鹿
  山に於いて搦め取られをはんぬ。天下毒害不当の者なり。
 

5月15日 丁酉
  廷尉の使者(景光)参着す。前の内府父子を相具し参向せしむ。去る七日出京、今夜
  酒匂の駅に着かんと欲す。明日鎌倉に入るべきの由これを申す。北條殿御使として、
  酒匂の宿に向かわしめ給う。これ前の内府を迎え取らんが為なり。武者所宗親・工藤
  の小次郎行光等を相具せらると。廷尉に於いては、左右無く鎌倉に参るべからず、暫
  くその辺に逗留し、召しに随うべきの由仰せ遣わさると。小山の七郎朝光使節たりと。
 

5月16日 戊戌
  忠清法師六條河原に於いて梟首すと。今日、前の内府鎌倉に入る。観る者垣墻の如し。
  内府は輿を用い、金吾は乗馬す。家人則清・盛国入道・季貞(以上前の廷尉)・盛澄
  ・経景・信康・家村等同じく騎馬これに相従う。若宮大路を経て横大路に至り、暫く
  輿を留む。宗親先ず参入し、事の由を申し入る。則ち営中に招き入るべきの旨仰せら
  る。仍って西の対を以て彼の父子の居所と為す。夜に入り因州仰せを奉り膳を羞むと
  雖も、内府敢えてこれを用いず。ただ愁涙に溺れるの外他に無しと。この下向の事、
  並びに同父子及び残党の罪條々の事、二品経房卿に属き奏聞せらるの処、その沙汰有
  り。招き下すべし。また死罪に行わるべきの旨、勅許すでにをはんぬ。但し時忠の事
  に於いては、死罪一等を宥めらるべきの由と。これ内侍所無為の御帰坐は、彼の卿の
  功に依るが故なりと。
 

5月17日 己亥
  卯の刻左典厩(能保、去る七日廷尉と同日出京)到着す。直に営中に入れらる。昨日
  極熱の間、聊か霍乱の気有り、逗留の由これを申さると。昨日、左典厩の侍後藤新兵
  衛の尉基清が僕従と、廷尉の侍伊勢の三郎能盛が下部と闘乱す。これ能盛献餉を沙汰
  するの間、基清彼の旅舘の前を馳せ過ぐ。その後旅具を持たせむ所の疋夫等進行する
  の処、能盛が引馬基清の所従を踏む。仍って相互諍論に及ぶ。この間基清が所従刀を
  取り、件の馬の鞦・手綱を切り奔行す。能盛この事を聞き馳せ出て、竹根の引目を以
  て、残る所の疋夫を射る。彼等叫喚せしめ馳せ騒ぐ。基清またこれを聞き駕を廻らし、
  能盛と雌雄を決せんと欲す。典厩頻りにこれを抑留し、使者を廷尉の許に発せらる。
  廷尉またこれを相鎮められ、無為すと。この事典厩強ち訴え申さずと雖も、自ずと二
  品の聴に達す。能盛が下部等驕りを成すの條奇怪の由、御気色甚だしと。
 

5月19日 辛丑
  京畿の群盗等蜂起す。敢えて禁じ難きの間、相鎮むべきの子細、今日沙汰を経らる。
  先ず平氏の家人等の中、戦場を遁れ出るの族、本の在所に閑散せしめ、猶田園を知行
  す。剰え都鄙に横行し、盗犯を事と為すと。次いで近日、遠江の国居住の御家人等、
  武威を以て恣に内奏せしめ、或いは院宣を申し下し、或いは国司・領家等の下文を掠
  め取り、地利を貪り公平を缺くと。次いで伊豆の守仲綱が男、伊豆の冠者有綱と号す
  る者、廷尉の聟として、多く近国の庄公を掠領すと。この[條々の事、その聞こえ有
  るに依って、殊に奏聞を経て、悉く以て糺断せしむべきの由定めらると。]
 

5月20日 壬寅 天晴 [玉葉]
  伝聞、頼朝申し給う所の国々、多く以て返上すべしと。徳化を施さるるべきの由、仮
  名状を以て定能卿に付き院に奏す。偏に天下を思うに依ってなり。時議を顧みず、た
  だ愚志を存ずるのみ。
 

5月21日 癸卯 雷雨、即ち晴に属く。晩涼甚だし。
  二品左典厩を相伴い、南御堂の地に渡御す。造営の躰を巡見し、堂舎の在所等を談合
  せしめ給うと。また南都の大仏師成朝、御招請に依って参向す。これこの御堂の仏像
  を造立せんが為なり。

[玉葉]
  昨日流罪を行わる。僧俗併せて九人と。上卿通親卿、参議兼光と。
    時忠卿(能登)     信基朝臣(備後)     時實朝臣(周防)
    伊明(出雲)      良弘(前の大僧都、阿波) 全眞(前の僧都、安藝)
    忠快(前の律師、伊豆) 能圓(法眼、備中)    行命(熊野別当)
 

5月23日 丁巳
  参河の守(範頼)二品の命を受け、対馬の守親光の迎えの為、船を対馬島に遣わすべ
  きの処、親光平氏の攻めを遁れんが為、三月四日高麗国に渡ると。仍って猶高麗に遣
  わすべきの由、彼の島の在廰等に下知するの間、今日すでにこれを遣わす。当島守護
  人河内の五郎義長、同じく状を親光に送る。これ平氏悉く滅亡しをはんぬ。不審を成
  さず、早く帰朝せしむべきの趣これを載すと。


5月24日 戊午
  源廷尉(義経)、思いの如く朝敵を平らげをはんぬ。剰え前の内府を相具し参上す。
  その賞兼ねて疑わざるの処、日来不義の聞こえ有るに依って、忽ち御気色を蒙り、鎌
  倉中に入れられず。腰越の駅に於いて徒に日を渉るの間、愁欝の余り、因幡の前司廣
  元に付き一通の歎状を奉る。廣元これを被覧すと雖も、敢えて分明の仰せ無し。追っ
  て左右有るべきの由と。彼の書に云く、
   左衛門の少尉源義経恐れながら申し上げ候。意趣は、御代官のその一に選ばれ、勅
   宣の御使として、朝敵を傾け累代の弓箭の芸を顕わし、会稽の恥辱を雪ぐ。抽賞せ
   らるべきの処、思いの外虎口の讒言に依って、莫大の勲功を黙止せらる。義経無犯
   にて咎を蒙る。功有りて誤り無きと雖も、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。
   倩々事の意を案ずるに、以て良薬口に苦く、忠言耳に逆らう、先言なり。茲に因っ
   て、讒者の実否を糺されず、鎌倉中に入れられざるの間、素意を述べるに能わず。
   徒に数日を送る。この時に当たり、永く恩顔を拝し奉らず、骨肉同胞の儀すでに空
   しきに似たり。宿運の極まる処か。将又先世の業因を感ぜんか。悲しきかな。この
   條、故亡父の尊霊再誕し給わずんば、誰人愚意の悲歎を申し披かん。何れの輩哀憐
   を垂れんや。新申状を事とし、述懐に似たりと雖も、義経身体髪膚を父母に受け、
   幾時節を経ず、故頭殿御他界の間、孤児となり、母の懐中に抱かれ、大和の国宇多
   郡龍門の牧に赴くより以来、一日片時も安堵の思いに住せず。甲斐無きの命ばかり
   を存ずると雖も、京都の経廻難治の間、諸国に流行せしむ。身を在々所々に隠し、
   辺土遠国に栖まんと為し、土民百姓等に服仕せらる。然れども幸慶忽ち純熟して、
   平家の一族追討の為、上洛せしむの手合いに、木曽義仲を誅戮するの後、平氏を責
   め傾けんが為、或時は峨々たる巖石に駿馬を策ち、敵の為亡命するを顧みず。或時
   は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈むを痛まず、骸を鯨鯢の鰓に懸く。
   しかのみならず、甲冑を枕と為し、弓箭を業と為す。本意併しながら亡魂の憤りを
   休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲するの外他事無し。剰え義経五位の尉に補任す
   るの條、当家の面目・希代の重職、何事かこれに如かずや。然りと雖も今愁い深く
   歎き切なり。自ずと仏神の御助に非ざるの外は、爭か愁訴を達せん。茲に因って、
   諸神諸社の午王宝印の裏を以て、全く野心を挿まざるの旨、日本国中大小の神祇冥
   道に請驚し奉り、数通の起請文を書き進すと雖も、猶以て御宥免無し。その我が国
   は神国なり。神非礼を稟くべからず。憑む所他に非ず、偏に貴殿広大の慈悲を仰ぐ。
   便宜を伺い高聞に達せしめ、秘計を廻らされ、誤り無きの旨を優ぜられ、芳免に預
   からば、積善の余慶を家門に及ぼし、永く栄花を子孫に伝えん。仍って年来の愁眉
   を開き、一期の安寧を得ん。愚詞に書き尽せず、併しながら省略せしめ候いをはん
   ぬ。賢察を垂れられんと欲す。義経恐惶謹言。
     元暦二年五月日          左衛門の少尉源義経
   進上 因幡前司殿
 

5月25日 丁未
  雑色六人を典膳大夫・近藤七等の許に差し遣わさる。これ畿内の雑訴成敗の間、久経
  三人・国平三人、召し仕うべきの由仰せ付けらるる所なり。この次いでを以て、京畿
  の間沙汰を致すべき條々、御事書を遣わさる。その間久経は人の賄に耽るべからず、
  国平は僻事を現すべからざるの趣、これを載せ加えらると。
 

5月27日 己酉
  源蔵人大夫頼兼申して云く、去る十八日、盗人禁裏に推参せしめ、昼御座の御劔を盗
  み取る。蔵人並びに女官等動揺してこれを求む。頼兼が家人武者所久實、左衛門の陣
  の外に追奔しこれを生虜り、御劔を本所に返し置き奉る。件の犯人搦め取らるるの時、
  自戮せんと欲するの間、すでに半死半生の由、只今その告げ有りと。然る如きの勇士、
  殊に賞を加えらるべきの由、二品感じ仰せらる。則ち劔を取り出し、彼の男に與うべ
  しと称し、頼兼に賜う。この人御気色快然と。
 

5月29日 辛亥 雨降る [吉記]
  前の大納言頼盛卿、東大寺に於いて洛餝出家す。