1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)
 
 

6月2日 癸丑
  去る月二十日、配流の官府を下さる。上卿源中納言(通親)参陣。頭の弁光雅朝臣こ
  れを仰すと。その交名の目録、今日鎌倉に到着す。流人、前の大納言時忠(能登)、
  前の内蔵の頭信基(備後)、前の左中将時實(周防)、前の兵部権の少輔尹明(出雲)、
  法印大僧都良弘(阿波)、権の少僧都全真(安藝)、権の律師忠快(伊豆)、法眼能圓
  (備中)、法眼行明(常陸)。
 

6月5日 丙辰
  囚人前の廷尉季貞の子息、源太宗季(後日、逸見の冠者光長の猶子に為り、宗長と改
  む)と云う者有り。季貞の存亡を見んが為密々下向す。これ弓馬の芸を伝え、剰え矢
  を作ぐ達者なり。矢野橘内所の口伝を受けると。上総の国飯富庄は、外戚の伝領たる
  の間、その便有り。当国住人中禅寺奥次郎弘長の知音たるなり。宗季矢を作ぐの由、
  弘長これを申す。二品その堪否を覧るべきの由仰せらる。仍って今日宗季野箭一腰を
  作ぎ献る。御意に相叶うの間、御家人に列すべきの由仰せ出さると。また石清水の神
  領を加えらると。
   奉寄 八幡宮神領壹処
    在 阿波の国三野田保てえり
   右件の保は、当宮神領に奉寄する所なり。早く少別当仁賢の沙汰として、保務を知
   行し、祈祷の為、所当物を以て神事の用途にせしむべきの状件の如し。奉寄件の如
   し。
     元暦二年六月五日       前の右兵衛の佐源朝臣頼朝
 

6月7日 戊午
  前の内府近日帰洛すべし。面謁すべきかの由、因幡の前司に仰せ合わさる。これ本三
  位中将下向の時対面し給うが故なり。而るに廣元申して云く、今度の儀、以前の例に
  似るべからず。君は海内の濫刑を鎮め、その品すでに二品に叙し給う。彼は過て朝敵
  と為り、無位の囚人なり。御対面の條、還って軽骨の謗りを招くべしと。仍ってその
  儀を止められ、簾中に於いてその躰を覧る。諸人群参す。頃之前の内府(浄衣を着し、
  立烏帽子)西侍障子の上に出る。武蔵の守・北條殿・駿河の守・足利の冠者・因幡の
  前司、筑後権の守・足立馬の允等その砌に候す。二品比企の四郎能員を以て仰せられ
  て云く、御一族に於いて、指せる宿意を存ぜずと雖も、勅定を奉るに依って、追討使
  を発するの処、輙く辺土に招引し奉る。且つは恐れ思い給うと雖も、尤も弓馬の眉目
  に備えんと欲すてえり。能員内府の前に蹲踞し、子細を述べるの処、内府座を動かし、
  頻りに諂諛の気有り。報じ申せらるの趣また分明ならず。ただ露命を救わしめ給わば、
  出家を遂げ仏道を求むの由と。これ将軍四代の孫として、武勇の家を稟く。相国第二
  の息として、官禄任意たり。然れば武威に憚るべからず。官位に恐るべからず。何ぞ
  能員に対し礼節有るべきや。死罪更に礼に優ぜらるべきに非ざるか。視る者弾指すと。
 

6月9日 庚申
  廷尉この間酒匂の辺に逗留す。今日前の内府を相具し帰洛す。二品橘馬の允・浅羽庄
  司・宇佐美の平次已下の壮士等を差し、囚人に相副えらる。廷尉日来の所存は、関東
  に参向せしめば、平氏を征する間の事具に芳問に預かり、また大功を賞せられ、本望
  を達すべきかの由思い儲くの処、忽ち以て相違す。剰え拝謁を遂げずして空しく帰洛
  す。その恨みすでに古の恨みより深しと。また重衡卿、去年より狩野の介宗茂の許に
  在り。今源蔵人大夫頼兼に渡され、同じく以て進発す。衆徒の申請に任せ、南都に遣
  わさるべしと。
 

6月13日 甲子
  廷尉に分ち宛てらるる所の平家没官領二十四箇所、悉く以てこれを改めらる。因幡の
  前司廣元・筑後権の守俊兼等これを奉行す。凡そ廷尉の勲功と謂うは、二品の御代官
  に非ざると云うに莫し。御家人等を差し副えられずんば、何の神変を以て、独り凶徒
  を退けべけんや。而るに偏に一身の大功たるの由、廷尉自称す。剰え今度帰洛の期に
  及び、関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべきの旨詞を吐く。縦え予に違背
  せしむと雖も、爭か後聞を憚りざらんか。所存の企て、太だ奇怪の由忿怒し給う。仍
  って此の如しと。

[嶋津家文書]
                    頼朝花押
   下す 伊勢国波出御厨
    補任 地頭職の事
       左兵衛尉惟宗忠久
   右件の所は、故出羽の守平信兼党類の領なり。而るに信兼謀反を発すに依って追討
   せしめをはんぬ。仍って先例に任せ公役に勤任せしめんが為地頭職に補す所なり。
   早く彼の職として沙汰を致すべきの状件の如し。以て下す。
     元暦二年六月十三日
 

6月14日 乙丑
  参河の守範頼並びに河内の五郎義長等、二品の命を受け、使者を高麗国に渡すの間、
  対馬の守親光彼の島に帰着すと。これ去々年、当島より上洛せんと欲するの折節、平
  家鎮西に零落するの間、路次不通に依って、纜を解くに能わず。猶以て在国するの処、
  中納言知盛卿並びに少貳種直等の奉行として、屋島に参らせしむべきの由その催に及
  ぶ。九州・二島・中国等、皆平家の方に従うと雖も、親光独り志を源家に運すの間行
  き向かわず。仍って三箇度追討使を遣わさる。所謂高次郎大夫経直(種直家子)両度、
  拒押使宗房(種益郎等)一箇度なり。この輩頻りに下国し、或いは国務を知行し、或
  いは合戦に及ぶ。存命難きの間、風波を凌ぎ、去る三月四日高麗国に越え渡らしむの
  時、妊婦を相伴う。仍って仮屋を曠野の辺に構え産生す。時に猛虎窺い来たる。親光
  郎従これを射取りをはんぬ。高麗国主この事に感じ、三箇国を親光に賜う。すでに彼
  の国の臣たるの処、この迎え有り帰朝す。件の国主殊にその余波を惜しみ、重宝等を
  与う。三艘の貢船に納めこれを副え送ると。
 

6月16日 丁卯
  典膳大夫・近藤七等、関東の御使として院宣を帯し、畿内近国を巡検し、土民の訴訟
  を成敗す。然る間当時その誤りを聞かず。二品内々感じ仰せらるるの処、尾張の国に
  玉井の四郎助重と云う者有り。本より猛悪を先として、諸人の愁いを懐かしむるの由
  謳歌す。近日殊にまた違勅の科有り。仍って件の両人尋ね沙汰せんが為、召文を遣わ
  すと雖も敢えて応ぜず。還って謗言に及ぶ。時に久経等子細を言上するの間、俊兼の
  奉行として、今日助重に仰せられて云く、綸命に違背するの上は、日域に住むべから
  ず。関東を忽緒せしむに依って、鎌倉に参るべからず。早く逐電すべしと。
 

6月18日 己巳
  池亜相頼盛の使者到着す。去る月二十九日東大寺の辺に於いて、素懐に任せ出家(法
  名重蓮)を遂げるの由これを申さる。兼日二品に申し合わさるる所なり。
 

6月20日 辛未 天陰、夜半に大地震、一時の中に動揺数度に及ぶ
  筑前の国香椎の社の前の大宮司公友、忽ち領家の命に背き濫行を致し、造替遷宮の儀
  を抑留す。しかのみならず、その身前司たりながら、押して社務を行う。早く罪科に
  行わるべきの由、社官等日来関東に訴え申す。仍って今日その身を追却し、遷宮を遂
  げ行うべし。もし承引せずんば、別の御使いを遣わし、法に任せ沙汰を致すべきの旨、
  下知せしめ給う。俊兼これを奉行す。
 

6月21日 壬申
  卯の刻廷尉近江の国篠原の宿に着く。橘馬の允公長をして前の内府を誅せしむ。次い
  で野路口に至り、堀の彌太郎景光を以て、前の右金吾清宗を梟す。この間大原の本性
  上人、父子の知識として、その所々に来臨せらる。両客共上人の教化に帰し、忽ち怨
  念を翻し、欣求浄土の志を住すと。また重衡卿、今日花洛に召し入れらると。抑も前
  の内府宗盛は、その身公家の御外戚に備え、その官槐門の内相府に昇るなり。然れど
  も朝敵の罪名、宥めるに拠無きか。ほぼ前蹤を訪うに、成務天皇の御宇三年正月、武
  内宿祢始めて大臣に任ず。天智天皇七年十月十三日、大職冠始めて内大臣(武内と大
  識冠との中間、大臣十六人か)に任じ給うより以降、この内府に至るまで、件の職に
  昇るの臣百三十三人(この内、内大臣に於いては九人か)。その中殃に逢うの例無き
  に非ずか。所謂用明天皇二年(四月九日帝崩御)七月日、上宮太子(時に十六歳)大
  臣等守屋を誅す。皇極天皇(舒明天皇后)三年甲辰六月、大極殿に於いて大臣入鹿(大
  臣蝦夷子)を誅す。天武天皇元年七月二十二日、太政大臣大友皇子、叛逆の過を怖れ
  自殺す。同八月二十七日、帝右大臣金連を誅す。同年左大臣赤兄配流す。孝謙天皇の
  御宇天平寶字元年丁酉七月二日、右大臣豊成太宰権の師に遷せらる。同八年甲辰九月
  十九日、大臣正一位仲麿(恵美と号す)を誅す。桓武天皇の御宇延暦元年壬戌六月、
  左大臣魚名左遷す。醍醐天皇の御宇昌泰四年辛酉正月二十五日、右大臣(菅原公)太
  宰権の師に遷し給う。冷泉天皇の御宇安和二年己巳三月二十六日、左大臣高明同官に
  配す。一條天皇の御宇長徳二年丙申四月二十四日、内大臣伊周また師に左遷す。高倉
  院の御宇治承三年己亥十一月十七日、太政大臣師長尾張の国に配す等これなり。
 

6月22日 癸酉
  重衡卿東大寺に遣わさる。衆徒の申請に依ってなり。

[玉葉]
  大蔵卿泰経院宣を伝えて云く、前の内府、並びにその息清宗・三位中将重衡等、義経
  相具し参洛する所なり。而るに生きながらの入洛無骨なり。近江の辺に於いてその首
  を梟首すべし。使の廰に渡すべきや。将に棄て置くべきや。院宣に随うべきの由、頼
  朝卿申せしむの旨、義経申す所なり。計り申すべしてえり(但し重衡ハ南都に遣わし
  をはんぬと)。余申して云く、この事の左右ただ勅定に在るべしてえり。

[吉記]
  夜に入り前の内大臣宗盛の首、渡さるべきの由風聞す。希代の事たるに依って、弊車
  に駕し六條高倉の辺に遣わし出す。黄昏六條河原に於いて、廷尉等これを請け取る(左
  右無く納桶ながら、武士廷尉に渡しをはんぬ)。先ず魁首宗盛卿の首(大臣の首これ
  を渡さる。恵美大臣の例か。誠に希代の珍事なり。大蔵卿内々叡旨を奉り、三丞相に
  仰せ合わすと)、看督□□□□輩(冠退紅)囲繞す。次いで前の右衛門の督清宗の首、
  次いで廷尉七人、府生久忠・経弘・志明基・尉□朝・信盛・章貞・大夫の尉知康(已
  上□袴、弓箭を帯す)。その路、六條を西に行き東洞院に至り、北に行き中御門に至
  り、西に行き西洞院に至り、北に行き獄門に至ると。前の三位中将重衡卿・蔵人大夫
  頼兼・右衛門の尉有綱等南京に向かわれをはんぬと。
 

6月23日 甲戌
  前の内大臣並びに右衛門の督清宗等の首、源廷尉の家人等六條河原に持ち向かう。検
  非違使大夫の尉知康・六位の尉章貞・信盛・公朝、志明基、府生経廣、兼康等、その
  所に莅みこれを請け取り、獄門の前の樹に懸く。この事、頭右大弁光雅朝臣参陣し、
  別当家通に仰す。家通頭の弁に仰す。頭の弁大夫史隆職に伝う。隆職廷尉知康に伝う
  と。今日、前の三位中将重衡南都に於いて頸を殞とすと。これ伽藍火災の張本たるの
  間、衆徒強くこれを申請すと。

[玉葉]
  伝聞、重衡の首泉木津の辺に於いてこれを切る。奈良坂に懸けしむと。前の内府父子
  に於いては、晩に及び使の廰に渡しをはんぬ。院御見物有りと。これ左大臣申し行う
  と。
 

6月25日 丙子
  佐々木の三郎成綱は、平家在世の程は源家に背き奉り、事に於いて不忠を現す。而る
  に彼の氏族城外の後追従し奉り、去年一谷の合戦を遂げ、子息俊綱越前三位通盛を討
  ち取りをはんぬ。仍ってその賞を望むと雖も、先非を悪ましめ給うの間、敢えて御許
  容無きの処、侍従公佐朝臣に属き、頻りにこれを愁い申すに依って、子息の功に募り、
  本知行所に於いては、沙汰し付けらるべきの由御契約有りと。
 

6月30日 辛巳 雨下る [玉葉]
  聞書を見る。頼盛入道備前播磨を給う。九郎賞無し如何。定めて深い由緒有るか。