1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)
 
 

8月4日 甲寅
  前の備前の守行家は二品の叔父なり。而るに度々平氏の軍陣に差し遣わさると雖も、
  終にその功を顕わさざるに依って、二品強ち賞翫せしめ給わず。備州また進んで参向
  無し。当時西国に半面し、関東の親昵を以て、在々所々に於いて人民を譴責す。しか
  のみならず、謀反の志を挿み、縡すでに発覚すと。仍って近国の御家人等を相具し、
  早く行家を追討すべきの由、今日御書を佐々木の太郎定綱に下さると。
 

8月13日 癸亥
  久経・国平等の使者京都より参着す。院の廰の御下文を帯し、すでに以て鎮西に赴き
  をはんぬと。彼の御下文の案を持参す。即ち俊兼に預け置かるる所なり。その状に云
  く、
   院廰下す 太宰府並びに管内諸国の在廰管人等
    早く従二位源卿の使中原久経・藤原国平等が下知に任せ、武士の妨げを停止せし
    め、諸国・諸庄、国司・領家に委附すべき事
   右謀叛の輩追討の後、諸国・諸庄、旧の如く国司・領家知行すべきの処、面々の武
・  士各々押領し、成敗に能わざるの由その聞こえ有るに依って、国務庄家庄務を行い、
   永く新儀を停め、先規を守るべきの由、去る六月廰の下文を成し、源卿の状を相副
   え、久経・国平に着け下し遣わす所なり。早く旁々の濫妨を停止し、国衙と云い庄
   園と云い、元の如く国司・領家に委附せしむべきの状、仰せの所件の如し。太宰府
   及び管内諸国の在廰人等、宜しく承知すべし。敢えて違失勿れ。故に下す。
     元暦二年七月二八日
                    主典代織部正兼皇后宮大屬大江朝臣
   別当大納言兼皇后宮大夫藤原朝臣  判官宮内の権の少輔藤原朝臣
   民部卿藤原朝臣          勘解由次官兼皇后宮権大進藤原朝臣
   権中納言藤原朝臣               右衛門権の佐兼皇后宮大進藤原朝臣
   右少弁藤原朝臣                    左少弁平朝臣
   参議讃岐権守平朝臣
   大蔵卿兼備後権守高階朝臣
   右大弁兼皇后宮亮藤原朝臣
   木工頭藤原朝臣
   右馬頭高階朝臣
 

8月14日 甲子
  改元。元暦二年を改め文治元年と為す。左大弁兼光これを選び進す。

[吉記]
  今日改元定め有り。公卿堀河大納言(忠親)、別当(家通)、大宮中納言(實宗)、左
  兵衛の督(頼實)、藤中納言(定能)、籐宰相(雅長)、平宰相(親宗)、新宰相中将
  (通實)等参陣す。人々定め申し、文治を用いらると。
 

8月16日 丙寅 天晴 [玉葉]
  今夜除目有り。頼朝申すに依ってなり。受領六ヶ国、皆源氏なり。この中、義経伊豫
  の守に任ず。兼ねて大夫の尉を帯すの條、未曾有々々々。
 

8月20日 庚午
  専光房召しに依って伊豆の国より参上す。これ故左典厩の御遺骨京都より到着すべき
  の間、南御堂に安じ奉るべきの間の事、沙汰を致せしめんが為なり。
 

8月21日 辛未
  鹿島社神主中臣親廣と下河邊の四郎政義と、御前に召され一決を遂ぐ。これ常陸の国
  橘郷は、彼の社領に奉寄せられをはんぬ。而るに政義当国南郡の惣地頭職を以て、郡
  内に在りと称し、件の郷を押領し、神主の妻子等を譴責せしむ。剰え所勘に従うべき
  の由祭文を取るの旨、親廣これを訴え申す。政義雌伏し、頗る陳詞を失う。眼代等の
  所為たるかの由これを称す。仍って向後は濫妨を停止し、先例に任せ神事を勤行せし
  むべきの趣、神主恩裁を蒙る。退出の後、政義猶御前に候すの間、仰せに云く、政義
  戦場に向かい殊に武勇を施す。親廣に対し度を失うか。尤もこれを咲うと。政義申し
  て云く、鹿島は勇士を守るの神なり。爭か怖畏の思い無からんや。仍って所存有りと
  雖も、故に陳謝に能わずと。
 

8月23日 癸酉
  為久京都よりまた参着す。新造の御堂を画図せんが為なり。
 

8月24日 甲戌
  下河邊庄司行平帰参の御免を蒙り、鎮西より去る夜参着す。これ参州に相副え西海に
  発向し、軍忠を竭しをはんぬ。同時に遣わさるる所の御家人等、経廻に堪えずして多
  く以て帰参す。行平今に在国す。御感有りと。今日営中に参り盃酒を献ず。二品出御
  す。武州・北條殿已下群参す。行平九国第一と称し、弓一張を進すの処、仰せに曰く、
  左右無くこれを領納し難し。鎮西に遣わすの東士、悉く粮無くして大将軍を棄て、多
  く以て帰参しをはんぬ。汝が所領と西海とはすでに数箇月の行程を隔てるなり。乗馬
  を全うし参上すること、猶不思議と謂うべきなり。剰え盃酒を勧め土産を献ず。彼の
  国に於いて人の賄を取らずんば、爭か此の如きの貯え有らんか。奇怪なりてえり。行
  平陳じ申して云く、在国の程は、兵粮の計を失い、日数を経るの間、郎等等を扶けん
  が為、彼の輩の甲冑以下物具を沽却せしめをはんぬ。而るに豊後の国に渡るの時は、
  傍輩は皆参州の御船を恃む。行平は敢えて私を顧みず忠を存ずるの故、先登を意に任
  せんが為、纔かに残し置く所の自分の鎧を以て、小舟に相換え、甲冑を着けずと雖も、
  船に棹し最前に着岸し、敵陣に入り美気の三郎を討ち取る。凡そ毎度功を竭すの條、
  大将軍の見知分明なり。今召しに依って参らんと欲するの処進物無く、事所存に違う。
  この弓九国に於いて名誉の由兼ねて以て風聞す。その主不慮の外にこれを沽却す。行
  平これを喜ぶ。折節小袖二領を着す。仍って一領これを脱ぎこれに替ゆ。時に参州の
  祇候人等餞別の為来会し、この事を見て頻りにこれに感ず。召し尋ねらるべきか。次
  いで盃酒を献る事は、下総の国に留め置くの郎従矢作の二郎・鈴置の平五等、旅粮を
  用意し途中に来向す。これを以て経営料に宛てしむ。全く他物を貪らずと。二品具に
  これを聞かしめ給い、感涙を浮かべその志に喜び給う。仰せに曰く、行平は日本無双
  の弓取なり。宜き弓を見知るの條、汝が眼に過ぐべからず。然れば重宝たるべしてえ
  り。則ち廣澤の三郎を召しこれを張らしめ、自ら引き試み給う。殊に御意に相叶うの
  由仰せらる。直に御盃を行平に賜う。仰せに曰く、西国の者大底これを見るか。今度
  の勲功に依って、一国の守護職に宛て行わんと欲す。何国や請うべしてえり。行平申
  して云く、播磨の国は須磨・明石等の勝地有り。書写山の如きの霊場有り。尤も所望
  すと。早く御計有るべきの由諾し仰せらると。
 

8月27日 丁丑
  午の刻御霊社鳴動す。頗る地震の如し。この事先々の怪たるの由、景能これを驚き申
  す。仍って二品参り給うの処、宝殿の左右扉破れをはんぬ。これを解謝せんが為、御
  願書一通を奉納せらるるの上、巫女等面々に賜物(各々藍摺二反か)有り。御神楽を
  行わるるの後還御すと。
 

8月28日 戊寅
  二品御書を京都に進せらる。これ葛上・神湯両庄の事、院の廰の御下文を下さるべき
  の由なり。勅使河原の後三郎使節として上洛すと。

[玉葉]
  この日、東大寺金銅廬舎那仏開眼供養なり。朝より雨気有り。午の後大雨。若しくは
  法会の威儀を妨げるか。尤も遺恨なり。これの若くの半作の供養、中間の開眼、大仏
  の照見、本願の叡念に叶うべからざるか。但し開眼の儀終わりこの雨有らば、還って
  また効験と謂うべきか。今日の雨、両般の疑い相兼ねるものなり。
 

8月29日 己卯
  去る十六日小除目有り。その聞書今日到来す。源氏多く以て朝恩を承る。所謂義範(伊
  豆の守)、惟義(相模の守)、義兼(上総の介)、遠光(信濃の守)、義資(越後の守)、
  義経(伊豫の守)等なり。義経朝臣官職の事、以前に於いては、二品頻りに傾け申さ
  ると雖も、今度の豫州の事に至りては、去る四月の比内々泰経朝臣に付けられをはん
  ぬ。而るに彼の不義等露顕せしむと雖も、今更これを申し止めらるるに能わず。偏に
  勅定に任せらると。その外五箇国の事は、任人面々直に懇望し申すの間、且つは勲功
  の賞に募り、且つは二品の眉目を添えんが為、殊に厳密の御沙汰に及ぶ所なりと。各
  々国務を知行せしむべきの由と。皆これ当時関東の御分国なり。
 

8月30日 庚辰
  二品の御素意偏に孝を以て本と為すの処、未だ水菽の酬いを尽くさず。而るに平治の
  有事、厳閤夭亡し給うの後、毎日転読の法華経を以て、没後の追福に備えらる。而る
  に栄貴を極めしめ給うの今、一伽藍の作事を企てらる。先考の御廟をその地に安ずべ
  きの由、存念御うの間、潛かにこの由を伺い奏せらる。法皇また勲功を叡感するの余
  り、去る十二日、判官に仰せ、東の獄門の辺に於いて故左典厩の首を尋ね出され、正
  清(鎌田次郎兵衛の尉と号す)の首を相副え、江判官公朝勅使としてこれを下さる。
  今日公朝下着す。仍って二品これを迎え奉らしめんが為、自ら稲瀬河の辺に参向し給
  う。御遺骨は、文學上人の門弟僧等頸に懸け奉る。二品自らこれを請け取り奉り還向
  す。時に以前の御装束(練色の水干)を改め素服を着し給うと。また播磨の国書写山
  の事、二品の御帰依他に異なり。性空上人の聖跡、不断の法華経転読の霊場なり。尤
  も旧の如く興行を致すべきの由、先度ほぼ泰経朝臣の許に仰せられをはんぬ。重ねて
  奏達せらるべきの旨、今日内々御沙汰に及ぶと。