1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)
 
 

12月1日 庚戌
  平氏の一族、誅戮・配流の二罪に相漏れるの輩、多く以て京都に在り。また前の中将
  時實、去る夏配流の宣下に含むと雖も、配所に向わず。今度義経に同意し西海に赴く
  の由風聞す。仍ってこれかれ早くこれを尋ね取り、在京の御家人に召し預くべきの由、
  今日北條殿(去る月二十五日入洛)に仰せ遣わさると。
 

12月3日 壬子 天晴 [玉葉]
  伝聞、泰経来七日関東に向かうべし。これ搦め召さるるの儀に非ず。進んで陳謝の為
  行き向かうと。但しこれ内儀を聞き遮って首途する所か。遂に遁れ得べからざるが故
  なり。侍従能成(九郎一腹の弟、故長成子)、今旦、保田の子男を相具し下向しをは
  んぬと。猶人々多く損亡すべきの由風聞すと。
 

12月4日 癸丑
  生倫神主申して云く、去る月の御願書を捧げ、安房の国東條の御厨寺に参籠せしめ、
  懇祈を抽んずるの処、今月二日、霊夢の告げ有りと。二品則ち御厩の馬(飛龍と号す)
  を件の寺に奉らると。

[玉葉]
  大外記頼業来たり。公朝頼朝の返札を持参するの後、院中頗る安堵す。その状和顔の
  趣有りと。頼業語る所なり。


12月6日 乙卯
  今度行家・義経に同意するの侍臣並びに北面の輩の事、具に関東に達す。仍って罪科
  に申し行わるべきの由、交名を折紙に注し、師中納言に遣わさる。その上殊に結構の
  衆六人申請すべきの旨、北條殿に触れ仰せらる。侍従良成・少内記信康(伊豫の守右
  筆)・右馬権の頭業忠・兵庫の頭章綱・大夫判官知康・信盛・右衛門の尉信實・時成
  等なり。また右府関東を引級する聞こえ有り。中丹を露わしむるに依って、一通の書
  を献らる。廣元・善心・俊兼・邦通等この間の事を奉行すと。院奏の折紙状に云く、
  御沙汰有るべき事
  一、議奏の公卿
    右大臣(内覧の宣旨を下さるべし) 内大臣
    権大納言實房卿          宗家卿  忠親卿
    権中納言實家卿          通親卿  経房卿
    参議雅長卿            兼光卿
    已上の卿相、朝務の間、先ず神祇より始めて、次いで諸道に至る。彼の議奏に依
    って、これを計り行わるべし。
  一、摂録の事
    内覧の宣旨を右大臣に下さるべきなり。但し氏の長者に於いては、本人相違有る
    べからざるなり。
  一、職事の事[玉葉、蔵人頭]
    光長朝臣     兼忠朝臣
    二人相並び補せらるべきか。光雅朝臣は追討の宣旨を下されをはんぬ。天下草創
    の時、不吉の職事なり。早くこれを停廃せらるべし。
  一、院の御厩別当
    朝方卿、[本]奉行の職なり。還補せらるべきか。
  一、大蔵卿
    宗頼朝臣、これに任ぜらるべし。
  一、弁官の事
    親経採用せらるべきか。
  一、右馬の頭
    侍従公佐これに任ぜらるべし。
  一、左大史
    日向の守廣房任国を失う。これに任ぜらるべし。隆職は追討の宣旨を成す。天下
    草創の時、禁忌候べき者なり。仍って停廃せらるべし。
  一、国々の事
    伊豫    右大臣御沙汰(月輪殿)
    越前    内大臣御沙汰
    石見    宗家卿これに給すべし
    越中    光隆卿これに給すべし
    美作    實家卿これに給すべし
    因幡    通親卿これに給すべし
    近江    雅長卿これに給すべし
    和泉    光長朝臣これに給すべし
    陸奥    兼忠朝臣これに給すべし
    豊後 頼朝申し給わんと欲す。その故は、国司と云い国人と云い、行家・義経の
       謀叛に同意す。仍ってその党類を尋ね沙汰せしめんが為、国務を知行せし
       めんと欲すなり。
  一、闕官の事
    器量を撰定し、これを採用せらるべし。
     十二月六日          頼朝(在判)

  解官の事
    参議親宗    大蔵卿泰経    右大弁光雅
    刑部卿頼経   右馬の頭経仲   左馬権の頭業忠
    左大史隆職   左衛門の尉知康  信盛  信實  時成
    兵庫の頭章綱
  行家・義経等に同意し、天下を乱さんと欲すの凶臣なり。早く見任を解官し、これを
  追却せらるべし。兼ねてまたこの外、行家・義経が家人・追従・勧誘の客、浅深を相
  尋ね、官位の輩に於いては、一々これを解官停廃せらるべし。僧・陰陽師の類相交る
  の由その聞こえ有り。同じくこれを追却有るべし。
     十二月六日          頼朝(在判)

  右府に献らる御書に曰く、
   事の由を言上す。
   右日来の次第を言上し候は、定めて子細の事長く候か。但し平家君に背き奉り、旁
   々遺恨を結び奉り、偏に濫吹を企て候。世以て隠れ無く候。今始めて言上に能わず
   候。而るに頼朝伊豆の国の流人と為り、指せる御定を蒙らずと雖も、忽ち籌策を廻
   らし、御敵を追討すべきの由、結構せしめ候の間、御運然らしむるの上、勲功空し
   からず。始終討ち平らげしめ候て、敵を誅に伏し、世を君に奉る。日来の本意相叶
   い、公私悦び思い給い候に依って、先ず平家追討の左右を待たず、近国十一箇国の
   武士の狼藉を停めんが為、二人の使者久経・国平を差し上し候て、猶私の下知恐れ
   有るに依って、一々院宣を賜い、成敗すべきの由仰せ含め候いをはんぬ。仍って彼
   の国の狼藉、大略沙汰せしめ鎮め候の後、別の仰せに依って、重ねてまた件の使者
   の男、鎮西・四国に下し遣わされ候。すでに院宣を賜い進発せしめ候いをはんぬ。
   此の如きの間、種直・隆直・種遠・秀遠の所領は、没官の所たるに依って、先例に
   任せ沙汰人の職を置くべきの由、存ぜしめ候と雖も、且つは先に事の由を申しなが
   ら、尚輙く今に成敗せざり候。何ぞ況や自余の所、成敗に及ばず候。近国の沙汰の
   如く、院宣に任せ旁々の狼藉を鎮むべきの由、兼ねて存知しめ候の処、不審の次第
   出来候て、義経を以て九国の地頭に補し、行家を以て四国の地頭に補せられ候の條、
   前後の間、事と意と相違す。彼の輩各々その柄を相憑み、非分の謀りを巧み、下向
   せしめ候の刻、指せる寄攻の敵無しと雖も、天譴遁れ難く、乗船纜を解くの時、海
   に入り浪に浮かぶ。郎従眷属、即時に滅亡せしめ候の條、誠に人力の及ぶ所に非ず。
   すでにこれ神明の御計なり。而るに彼の両人、その身未だ出来せず。跡を晦まし逐
   電す。旁々手を分け尋ね求めしめ候の間、国々庄々・門々戸々・山々寺々、定めて
   狼藉の事等候か。召し取り候の後は、何ぞ相鎮まり候わずや。但し今に於いては、
   諸国庄園平均に地頭職を尋ね沙汰すべく候なり。その故は、これ全く身の利潤を思
   い候に非ず。土民或いは梟悪の意を含み、謀叛の輩に値偶し候。或いは脇々の武士
   に就いて、事を左右に寄せ、ややもすれば奇怪を現し候。その用意を致し候わずば、
   向後定めて四度計無く候か。然らば伊豫の国に候と雖も、庄公を論ぜず、地頭の輩
   を成敗すべく候なり。但しその後、先例有限の正税已下国役・本家の雑事、若しく
   は対桿を致し、若しくは懈怠を致し候わば、殊に誡めを加え、その妨げ無く、法に
   任せ沙汰を致さるべく候なり。兼ねてこの旨を御心得しめ給うべく候。兼ねてまた
   当時仰せ下され候べき事、愚意の及ぶ所、恐れながら折紙に注し、謹んで以てこれ
   を進上す。一通院奏料は、師中納言卿に付けしめ候いをはんぬ。今度は天下の草創
   なり。尤も淵源を究め行わるるべく候。殊に申し沙汰せしめ給うべきなり。天の與
   え奉らしむる所なり。全く御案に及ぶべからず候。この旨を以て右大臣殿に洩らし
   申せしめ給うべきの状、謹んで言上件の如し。
     [文治元年]十二月六日    頼朝(在判)
   謹上 右中弁殿

[玉葉]
  礼紙状に云く、
   逐って言上す、
   謀叛人行家・義経に同意するの輩、先ず解官追却せらるべし。交名は折紙に注し、
   謹んで以てこれを進覧す。一通院奏料は、師中納言卿に付けしめ候なり。民部卿成
   範卿は、彼の輩に同意せしめ候の由、承り及び候と雖も、御縁人たるに依って、輙
   く左右を申すべからず候。定めて御計候か。恐惶謹言。
 

12月7日 丙辰
  雑色濱四郎御使として、院奏の折紙状、並びに右府に献らるる御書等を帯し上洛す。
  左典厩の下部黒法師丸、京都の案内者としてこれに相副えらる。義経に同心の聞こえ
  有るの侍臣の事、子細を申せらるるの中、民部卿成範卿は右府の御縁者たるの間、折
  紙に除かると。この間の事等、京都の巨細は、大略以て左典厩並びに侍従公佐等に示
  し合わされ治定すと。彼の公佐朝臣は、二品の御外舅北條殿の外孫(法橋全成息女の
  子なり)なり。旁々以てその好有るの上、心操せ太だ穏便、御意に背かざるの故、今
  度則ち右馬権の頭に挙し申せしめ給うと。
 

12月8日 丁巳
  吉野の執行静を北條殿の御亭に送る。これに就いて豫州を捜し求めんが為、軍士を吉
  野山に発遣せらるべきの由と。

[玉葉]
  或る人云く、泰経・親宗等の所領、頼朝の許より注し送るべきの由、北條の許に仰せ
  遣わさると。両人の損亡決定かと。諸国に宛てる所の兵粮、皆官物内に募るべきの由
  下知するの間、庄公の運上通ぜず。人命殆ど元正を待つべからずと。
 

12月11日 庚申
  二品の若君俄に以て御病悩。諸人群参す。営中物騒なり。若宮の別当法眼御加持の為
  参候せらると。
 

12月12日 辛酉 朝雨 [玉葉]
  伝聞、去る夜、頼朝の許より、使い(兼能と)を経房卿の許に送る。頼朝を追討する
  の宣旨を下さるるの間の事、尚欝し申すと。
 

12月14日 癸亥 夜より雪降る [玉葉]
  或る人云く、頼朝物を法皇に貢ぐ。その物甚だ軽微、殆ど軽慢を奉るに似たりと(国
  絹八十疋・白布十段・引物二十具と)。この次いでに申す。北面の下臈五人、追却せ
  らるべきの由と。一定後聞、供物無実と。伝聞、経房卿正月七日首途、御使として関
  東に赴くべしと。後聞、頼朝の進物、秀平の進す所と。
 

12月15日 甲子
  北條殿の飛脚京都より参着す。洛中の子細を注し申さる。謀反人の家屋等先ずこれを
  点定す。悪事に同意する輩、当時露顕の分、逐電せざるの様計略を廻らす。この上ま
  た師中納言殿に申しをはんぬ。次いで豫州の妾出来す。相尋ねるの処、豫州都を出て
  西海に赴くの暁、相伴われ大物浜に至る。而るに船漂倒するの間、渡海を遂げず。伴
  類皆分散す。その夜は天王寺に宿す。豫州これより逐電す。時に日を約し、今一両日
  当所に於いて相待つべし。迎えの者を遣わすべきなり。但し約日を過ぎらば、速やか
  に行き避くべしと。相待つの処、馬を送るの間これに乗り、何所を知らずと雖も、路
  次を経ること三箇日有り、吉野山に到る。彼の山に逗留すること五箇日、遂に別離す。
  その後更に行方を知らず。吾深山の雪を凌ぎ、希有にして蔵王堂に着くの時、執行の
  虜え置く所なりてえり。申し状此の如し。何様に計り沙汰すべきかと。若公御平愈と。

[玉葉]
  定能卿来たり語りて云く、北面の輩勘当を下さるるの事、土肥・北條等の申状に依っ
  て、更に免除すと。勿論の事か。

[高野山文書]
**北條時政請文
  兵粮米に於いては、国図並びに抄帳省免せしむ所の神社、仏寺外の余所を以て、充て
  下さしめ候と雖も、旁々御祈祷殊勝たるに依って、奉免せしめ候所なり。この解状の
  所々は、すでに神社・仏寺の内を注せられず候。若くは乍ち神社・仏寺領を知るの由
  を申さしめ候なり。恐々謹言。
    十二月十五日          平(時政花押)
 

12月16日 乙丑
  去る七日、上洛の御使に副えらるる所の黒法師丸、途中より馳せ帰り、申して云く、
  雑色濱四郎駿河の国岡部の宿に至り、俄に病脳し心神度を失う。平愈の期を待ち、両
  日を経ると雖も、当時起居猶その意に任せず。況や遠路に向かい難しと。これに依っ
  て時刻を廻らさず雑色鶴次郎・生澤の五郎を差し上せらる。黒法師丸猶相副う所なり。
  また北條殿の御返事を遣わさる。静は召し下さるべしと。
 

12月17日 丙寅
  小松内府の息丹後侍従忠房、後藤兵衛の尉基清これを預かる。また北條殿関東の仰せ
  に任せ、屋島前の内府の息童二人・越前三位通盛卿の息一人これを捜し出さる。遍照
  寺の奥、大覺寺の北菖蒲沢に於いて、権の亮三位中将惟盛卿の嫡男(字六代)を虜え、
  乗輿せしめ野地に向かわるの処、神護寺の文覺上人、師弟の昵み有りと称し、北條殿
  に申請して云く、須く子細を鎌倉に啓すべし。その左右を待つの程、宥め置かるべし
  と。前の土佐の守宗實(小松内府息)は左府の猶子なり。これまた二品に申され、暫
  く免許すべきの由仰せ遣わさる。これに依って両人はこれを閣かる。屋島内府の息等
  に於いては梟首すと。
 
 

12月18日 丁卯 [玉葉]
  大外記頼業注し送りて云く、昨日解官を行わる。左大臣師尚に下知すと。
  (内容は12月29日条に同じ
 

12月21日 庚午
  諸国庄園下地に於いては、関東一向に領掌せしめ給うべしと。前々地頭と称すは、多
  分平家の家人なり。これ朝恩に非ず。或いは平家領内、その号を授けこれを補し置く。
  或いは国司領家、私の芳志としてその庄園に定補す。また本主の命に違背せしむの時
  はこれを改替す。而るに平家零落の刻、彼の家人たるに依って、知行の跡没官に入れ
  られをはんぬ。仍って芳恩を施す本領主、手を空しくし後悔の処、今度諸国平均の間、
  還ってその思いを断つと。
 

12月23日 壬申
  師中納言御使として下向せらるべきの由、今日関東に風聞す。すでに叡慮治定すと。
  これ行家・義経の間の事、條々奏聞せらるるの趣、勅答有らんが為か。二品殊に恐れ
  申せしめ給う。言上すべき事、使者並びに書状を用い仰せ下さるる事、また奉書を披
  き欝念を散ず。卿相の如き御使と為し、長途を凌がるるの條、尤も慎むべきの由これ
  を申さると。また前の対馬の守親光、公家の為武門の為、大功を抽んじをはんぬ。而
  るに意ならず任国を改めらる。還任すべきの由頻りに愁い申すの間、二品これを執り
  申さるる所と。

[玉葉]
  明日、左相府上表と。年来全く職を避くの心無き人なり。而るに忽ちこの儀出来す。
  その故如何。若くは追討の宣旨の事に依って、頼朝怨みを成すの由風聞するの間、恐
  れて避けらるるか。事甚だ周章に似たり。猶この時を過ぎ辞遁せらるべきか。今日聊
  か聞き及ぶ事有り。次第勿論々々。
 

12月24日 癸酉
  文覺上人の弟子某上人の飛脚として参り申して云く、故維盛卿嫡男六代公は、門弟た
  るの処、すでに梟罪を被らんと欲す。彼の党類悉く追討せられをはんぬ。此の如き少
  生は、縦え赦し置かるると雖も、何事か有らんや。就中祖父内府は貴辺に於いて芳心
  を尽くさる。且つは彼の功に募り、且つは文覺に優ぜられ、預け給うべきかと。彼は
  平将軍の正統たるなり。少年と雖も、爭か成人の期無からんや。尤もその心中測り難
  し。但し上人の申し状、また以て黙止すべきに非ず。進退谷むの由仰せらると。使者
  の僧懇望再三に及ぶの間、暫く上人に預け奉るべきの由、御書を北條殿に遣わさると。

**[平家物語]
  (前略)北條思ひ煩ひける所に走り付て、若君ゆるし給たりといふ二位殿の御文あり。
  北條急ぎて見給へば、御自筆にて、
   小松の権亮三位中将維盛の子息、生年十二に成、字六代といふなるを尋出したるな
   る。高雄の文覺上人頻に申請給ぞ。いまだあらば預け奉り給べし。
     文治元年十二月二十五日     頼朝
   北條四郎殿へ
  とぞ書れたりける。北條四郎高くよみ給はで、神妙々々と宣ひて打おき給へば、若君
  ゆり給にけり。
 

12月26日 乙亥
  前の中将時實朝臣豫州に同意し、西海に赴くの間、路次に於いてこれを生虜る。今日、
  武者所宗親相具し参向する所なり。また左府の御書到来す。これ故小松内府の末子前
  の土佐の守宗實は、幼齢の当初より猶子たり。而るに彼の余族に依って、断罪有るべ
  きの由風聞す。枉げてこれを申し請けんと欲すと。その旨を存ずべきの趣報じ申せら
  ると。

[玉葉]
  午の刻、右中弁光長朝臣、頼朝卿の貴札並びに折紙等を持ち来たる。夢の如し幻の如
  し。珍事たるに依って、後鑒の為これを続き加う。
  (書状・折紙は12月6日条に同じ
 

12月28日 丁丑
  甘縄辺の土民(字所司の次郎)、去る夜閾の上に於いて立ちながら頓死す。人挙てこ
  れを見る。家中の輩群集の者に語りて云く、半更に及び、戸を叩きこの男の名字を喚
  ぶ者有り。この男答え、則ち戸を開くの刻、再び語らず。而るに良久しくしてこれを
  怪しみ、脂燭を取り見る処、すでに死門に入ると。また去る比、若宮の別当坊の下僧
  夜行の時、路次に於いて頓滅す。小時蘇生す。語りて云く、大法師一両人行き会い、
  抱き留める由を思うと。その僧今に亡ぶが如しと。また御台所の御方に祇候する女房
  下野の局の夢に、景政と号すの老翁来たり、二品に申して云く、讃岐院天下に於いて
  祟りを成さしめ給う。吾制止申すと雖も叶わず。若宮の別当に申さるべしてえり。夢
  覚めをはんぬ。翌朝事の由を申す。時に仰せらるるの旨無きと雖も、彼是誠に天魔の
  所変と謂うべし。仍って専ら国土無為の御祈りを致さるべきの由、若宮の別当法眼坊
  に申さる。しかのみならず、小袖・長絹等を以て供僧職掌に給う。邦通これを奉行す。

[玉葉]
  定長密語に云く、摂政折紙状を披見して云く、この事状の如き内覧の一事に限らざる
  か。氏の長者に於いては、相違有るべからずの由すでにこれを載す。爰に知る相違の
  事決定これに在るか。仍ってこの事奉行宣下、猶以て恐れ有り。ただ院より直に上卿
  に仰せ、宣下せらるべきかと。而るに院仰せて云く、状の云う如き、二人内覧トコソ
  見タレ、不審に及ぶべからずと

[愚管抄]
  九條右大臣(兼實)に内覧の宣旨下されにけり。この頼朝追討の宣旨下したる人々、
  皆勅勘候べき由申したりけり。蔵人の頭光雅、大夫史隆職など解官せられにけり。上
  卿は左大臣経宗なり。それをば左右も申さざりけれど、議奏の上卿とて申したりける
  は、左大臣をばかきいれざりけり。これにてさよと人に思わせけり。これまでもいみ
  じくはからいたりけるにや。また院の近習者泰経三位など、追い込めてけり。


12月29日 戊寅
  北條殿の御使参着す。去る十七日、解官の宣旨を下さる。大外記師尚これを送る。則
  ちその状を奉献すと。
   大蔵卿兼備後権の守高階朝臣泰経
   右馬の頭高階朝臣経仲
   侍従藤原朝臣能成
   越前の守高階朝臣隆経
   少内記中原信康
   左大臣宣べ、勅を奉る。件等の人、宜しく見任を解却せしむべしてえり。
     文治元年十二月十七日     大外記中原師尚(奉る)

[吉記]
  今夜任官の事有り。上卿別当(家通)、参議雅長卿これを書く。蔵人宮内権の少尉親
  経これを宣下す。先ず解官の事を仰すと。
   (前略)
  蔵人頭に補せらる
    左中弁光長      右中弁源兼忠
  解官
    参議平親宗      右大弁藤光雅       刑部卿藤頼経
    左馬権頭平業忠    左大史小槻隆職      兵庫藤章綱
    左衛門尉平知康    藤信盛    同信定   同時成
  配流
    高階泰経(伊豆)   藤頼経
 

12月30日 己卯
  諸国の地頭職を拝領せしめ給うの内、土佐の国吾河郡を以て、六條若宮に寄附せしめ
  給う。彼の宮は、故廷尉禅室六條の御遺跡を点じ、石清水を勧請し奉らる。廣元の弟
  秀厳阿闍梨を以て別当職に補せらるる所なり。

[玉葉]
  今日、関東より飛脚到来す。その状に云く、大蔵卿泰経・刑部卿頼経等、行家・義経
  に同意する者なり。早く遠流に処せらるべし。一人は伊豆、一人は安房と。経房に付
  くべきの由、光長に仰せ(件の状、光長の許に送るなり)をはんぬ。光長書状を以て
  師卿に送る。返札に云く、申請に任せ、早く沙汰有るべしと。件の状を以て関東に仰
  せ遣わすべきの由、光長に仰せをはんぬ。