1186年 (文治2年 丙午)
 
 

1月2日 辛巳 暮に及び雪
  二品並びに御台所甘縄神明宮に御参り。御還向の便路を以て、籐九郎盛長が家に入御
  すと。
 

1月3日 壬午 去る夜の雪猶地に委す
  去年二品に叙し給うの後、未だ御直衣始めの沙汰に及ばず。豫州の事に依って、世上
  未だ静謐せずと雖も、且つは衆庶安堵の思いを成さしめんが為、今日その儀を刷わる。
  則ち鶴岡八幡宮に詣で給う。左典厩・前の少将時家等参会す。また武蔵の守義信・宮
  内大輔重頼・駿河の守廣綱・散位頼兼・因幡の守廣元・加賀の守俊隆・筑後権の守俊
  兼・安房判官代高重・籐判官代邦通・所雑色基繁・千葉の介常胤・足立右馬の允遠元
  ・右衛門の尉朝家・散位胤頼等、随兵十人供奉す(最末に在り)。
    武田兵衛の尉有義  板垣の三郎兼信 工藤庄司景光  岡部権の守泰綱
    渋谷庄司重国    江戸の太郎   市河別当行房  小諸の太郎光兼
    下河邊庄司行平   小山の五郎宗政
  御奉幣の事終わり還御の後、椀飯有り。抑も今日御神拝の間、供奉人等、廟庭の左右
  に相分かれ着座す。而るに胤頼父常胤に相対して着す。聊か座の下方に寄ると。人甘
  心せず。これ仰せに依って此の如しと。常胤は父たりと雖も六位なり。胤頼は子たり
  と雖も五品なり。官位は君の授く所なり。何ぞ賞せざるやの由仰せ下さると。この胤
  頼は、平家天下の権を執るの時、京都に候すと雖も、更にその栄貴に諂わず。遠藤左
  近将監持遠の挙に依って、上西門院に仕う。御給を被り従五位下に叙す。また持遠の
  好に就いて、神護寺の文學上人を以て師檀と為す。文學伊豆の国に在る時同心せしめ、
  二品に示し申すの旨有り。遂に義兵を挙げ給うの比、常胤に勧め最前に参向せしむ。
  兄弟六人の中殊に大功を抽んずる者なり。
 

1月5日 甲申
  前の中将時實朝臣流人として配所に赴かず。剰え豫州に同道するの間、すでに重疉の
  過有り。仍って生虜らしめ召し下され、美濃の籐次安平が西御門の家に在り。爰に子
  細を問わるるの処、分明の陳謝無し。承伏するが故か。然れども関東に於いて刑を定
  められ難きに依って、今日京都に返し進せらるべきの由治定すと。また師中納言、御
  使として参向有るべきの由その聞こえ有り。指せる子細に非ざれば、留めしめ給うべ
  きか。また去る冬折紙に注し申さるる條々、所詮聖断在るべきの旨、示し遣わさるる
  所なり。

[玉葉]
  未の刻、蔵人次官定経来たり云く、去る冬発遣せらるる所の宇佐和気使、路頭に於い
  て狼藉の事出来す。前途を遂げ難きの由申せしむるに依って、内々北條時政に仰せ、
  武士を差し遣わし、件の狼藉を鎮めんと欲すの間、重ねて播磨の国に於いて武士等の
  為濫吹の事有り。神馬・神宝等路頭に棄て逃げ上りをはんぬ。
 

1月7日 丙戌 雨降る
  北條殿の飛脚京都より参着す。御使雑色鶴二郎等、去る冬十二月二十六日入洛す。申
  せしめ給うの趣、同二十七日その沙汰有り。解官・配流等、蔵人宮内権の少輔親経宣
  下、別当家通・籐宰相雅長除目を書くと。
    参議源雅賢(元蔵人頭・右中将)   右大弁籐行隆(元右中弁)
    左中弁同光長(権の右中)      右中弁源兼忠(元権)
    権の右中弁平基親(元左少)     左少弁籐定長(元右少)
    右少弁籐親経(元蔵人・宮内権の少輔)
    左大史小槻廣房(元算博士・日向の守、年三十八)
    大蔵卿籐宗頼(前の伯耆の守)    右馬の頭籐公佐(元侍従)
    和泉の守籐長房(光長朝臣給) 陸奥の守籐盛實(前の中納言雅頼卿給、元近江)
    近江の守籐雅経(参議雅長給) 越中の守同家隆(元侍従、前の中納言光隆卿給)
   [越前の守同公守           石見の守藤業盛]
    因幡の守源通具(権中納言通親卿給) 伊豫の守源季氏(右大臣給)
    美作の守籐公明(左衛門の督實家卿給)
    蔵人頭 籐光長(従四位上)     源兼忠(従四位下)
  解官
    参議平親宗   左大史小槻隆職   刑部卿籐頼経
    左衛門の少尉籐知康(大夫の尉)   同信盛(検非違使)
    中原信貞    左馬権の頭平業忠  兵庫の頭籐章経
  配流
    前の大蔵卿高階泰経(伊豆)     前の刑部卿籐頼経(安房)
  議奏の公卿
    右大臣        内大臣       皇后宮大夫(實房)
    中御門大納言(宗家) 堀河大納言(忠親) 師(経房)
    源中納言(通親)   左衛門の督(實家) 籐宰相(雅長) 左大弁(兼光)
 

1月8日 丁亥
  営中に心経会有り。若宮の別当法眼並びに大法師源信・恵眼等参行す。施物は各々被
  物一重、邦通これを奉行す。
 

1月9日 戊子
  高野山の衆徒訴え申す旨有るに依って、北條殿下知を加えしめ給うの上、寺領の狼藉
  を止めんが為、雑色を差し遣わさると。
   下す 紀伊の国高野山御庄々
     早く兵粮米並びに地頭等を停止せしむべき事
   右件の御庄々は、彼の御山に仰せ下さ[るる]所なり。仍ってその制止を致せしめ
   んが為、雑色守清を下し遣わす所なり。自今以後に[於いて]は、旁々の狼藉を停
   止せしむべきなり。且つは御庄々の折紙これを遣わす。敢えて遺失すること勿れ。
   故に下す。
     文治二年正月九日       平
 

1月10日 己丑
  摂津の国貴志の輩の事、御家人に加えらるる所なり。但し関東の番役等を止め、一向
  左馬の頭能保の宿直を勤むべき由定めらると。
 

1月11日 庚寅
  高瀬庄の事、武家の沙汰を交ゆべからざるの由仰せ下さると雖も、北條殿所存を折紙
  に注し、師中納言に付けらると。
   高瀬庄の事、兵粮米を究済せしめ候と雖も、地頭惣追捕使に於いては補せられ候い
   をはんぬ。但し狼藉に於いては停止せしむべく候なり。
 

1月17日 丙申
  去る冬下向の左府の御使、今日帰洛す。御報遅々に依ってなり。然れども使節の験無
  きに非ずと。これ官符を豫州等に下さるる事、左府の計議に依るの由風聞す。頗る以
  て不快。而るに宣下せられずんば、行家・義経、洛中に於いて謀叛を企てんか。官符
  を給い西海に赴くが故、君臣共に安全なり。これ何ぞ不義に処せられんやの由これを
  申さる。二品彼の由を承り諾し申さると。

[玉葉]
  今日午の刻、蔵人頭右中弁兼忠朝臣院の御使として来たり。仰せて云く、前の少将平
  時實、平家滅亡しをはんぬるの時生虜として参洛す。所労に依って罪科配流に処せら
  れをはんぬ。而るに配所に赴かず。賊徒(行家・義経)に伴い西海に赴くの間、彼等
  逆風の為退散す。時實また生虜として不慮の外関東に下向しをはんぬ。而るに源二品
  卿件の時實を召し進す所なり。即ち彼の卿の書札此の如し。(その状に云く、罪科を
  定めらる。而るに配所に赴かず、坂東に下る。頼朝私に進士し難し。左右勅定に在る
  べし。仍って召し進す所なりと)
 

1月19日 戊戌
  神祇大副大中臣公宣・少副為定等の使者、この間参住し、今日帰国す。これ去年十一
  月九日、祭主神祇権の大副親俊卿伊勢の国に於いて薨逝す。仍って各々款状を捧げ、
  祭主の闕を望むの処、神宮奉行親宗卿・光雅朝臣等賄に耽り、同月二十五日、能隆朝
  臣を補せられをはんぬ。これ超越せらるる所なり。件の両奉行は、謀反に與同するの
  凶臣なり。その奸濫すでに顕露す。神慮不快か。聖断違うに依って、盍ぞ諫奏せられ
  ざらんや。早く奏聞せしめ給うべきの由これを載す。光倫神主これを執り申す。仍っ
  てこの状を京都に進せらる。てえれば、但し此の如き事、二品委細を知らざるに依っ
  て、ただ人の鬱憤を散ぜんが為、執り申すばかりなり。非拠たるに於いては、勅裁有
  るべからず。執り申し難きの由これを申さる。

[玉葉]
  伝聞、関東より窮冬進す所の折帋状、猶摂政の外内覧有るべきの由、頼朝存ぜしむと。
  但し実否知り難し。摂政の辺棟範の従女頼朝の縁人たり。仍って告げ送る所と。その
  後摂政出仕す。また人気色安堵すと。
 

1月21日 庚子
  法皇今年六十の御宝算なり。仍って御賀を行わるべきの旨、これを申し行われんが為、
  上絹三百疋・国絹五百疋・ショウ牙等、この外班幔六十帖、京都に進上せしむ所なり。
  また去年言上せらるる條々、悉く以て施行せらるるの上は、流刑等の事、早く行わる
  べきの由これを申さる。大夫屬入道この間の事を執り沙汰せしむと。
 

1月23日 壬寅
  二品神馬を諏訪上下宮に進すと。

[玉葉]
  (前略)書札を以て雅頼卿に示し送りて云く、上総は、時家(時實弟)配流の国か。
  もし然れば、兄弟同国、他国無きに似たり。猶隠岐に遣わされ宜しいかてえり。返札
  に云く、尤も然るべし。官符を作り改むべきの由下知しをはんぬと。
 

1月24日 癸卯
  日吉の塔下彼岸衆訴訟の事、その沙汰有り。二品一方の御成敗に非ざるの間、今日京
  都に執り申さるる所なり。
   日吉の塔下彼岸衆の申文一通、謹んで以てこれを進上し候。法性寺領として、小橋
   庄三箇村を押領せられ候と。而るに重家、近衛殿より小橋庄の預所職を賜い候いを
   はんぬ。仍って衆徒重家の結構を停止すべきの旨、触れ遣わし候と雖も、彼と云い
   是と云い、共に以て庄領に候。仍って私の成敗に能わず候。執り申せしめ候所なり。
   道理に任せ計り仰せ下さるべく候か。頼朝恐々謹言。
     正月二十四日           頼朝(裏御判)
   進上 師中納言殿

[玉葉]
  雅頼卿札を送りて曰く、官符すでに請印をはんぬと。更に請印を行うこと以ての外の
  大事なり。これをして如何。彼の時家弟全く配流の儀無し。ただ故平禅門私に遣わす
  所と。余答えて云く、請印をはんぬらば、国を改めに及ばざるか。
 

1月26日 乙巳
  摂録の事、早く宣下せらるべきの由、二品京都に申せしめ給う。当執柄は、伊豫の守
  義経謀逆の事に依って、雑説等有るが故なりと。
 

1月28日 丁未
  左典厩及び室家、帰洛せらるべきに依って、足立右馬の允遠元が家に出門す。これよ
  り先、二品並びに御台所その所に渡御し、侍り奉らしめ給う。これ御餞別の儀なり。
  帖絹・白布・紺布・藍摺等を以て候す。椀飯を作し兼ねてこれを置かる。また色々の
  絹布・羽皮等を積み侍所に置く。扈従の輩の為なり。終夜御遊宴と。また備後信敷庄
  以下数箇所の地頭職、彼の室家に避け與えしめ給うと。

[玉葉]
  伝聞、去る比鎌倉より飛脚到来す。今朝御返事を仰せ遣わさると。申せしむ事等、
   経房下向すべからず(先日御使として向かうべきの由示し送ると。その返事か)
   甘苔六百帖進す所の事
   去る冬奏聞の條々(解官・任官)ただ愚案の趣を奏すと雖も、所詮勅定在るべき事
   義経謀反の間、追討の宣旨の事、叡慮より起こらざるの由□披の由の事
 

1月29日 戊申
  豫州の在所今に聞かず。而るに猶推問せらるべき事有り。静女を進すべきの由、北條
  殿に仰せらると。またこの事尤も沙汰有るべき由、経房卿に付け申せしめ給うと。

[玉葉]
  伝聞、先日頼朝申す所の事、委しく御返事を仰せ遣わさる。その内泰経過せざるの由、
  殊に仰せ遣わさる。また北面の下臈等、糸惜しみ思し食すの由仰せ有りと。