11月1日 庚辰
二品駿河の国黄瀬河の駅に着御す。御家人等に触れ仰せられて云く、京都の事を聞き
定めんが為、暫くこの所に逗留すべし。その程乗馬並びに旅粮已下の事を用意すべし
と。
[玉葉]
今暁、九郎等下向延引す。或いは曰く、西海の議を変じ、北陸に越ゆべしと。路次の
狼藉に依ってか。今夜、定能卿告げ送りて云く、義経等法皇を相具し奉るの儀、都て
候すべからずの由、再三言上す。この上強いて疑殆無きの処、猶その儀有るべきの由、
今日院中に謳歌す。
11月2日 辛巳
豫州すでに西国に赴かんと欲す。仍って乗船を儲けしめんが為、先ず大夫判官友實を
遣わすの処、庄の四郎(元豫州家人、当時相従わず)と云う者有り。今日途中に於い
て友實に相逢う。問いて云く、今の出行何事ぞや。友實実に任せ事の由を答う。庄偽
って元の如く豫州に属くべきの趣を示し合わす。友實またその旨を豫州に伝達すべし
と称し、相具して進行す。爰に庄忽ち廷尉に誅戮せられをはんぬ。件の友實は越前の
国齋藤の一族なり。垂髪して仁和寺宮に候す。首服の時平家に属く。その後向背して
木曽に相従う。木曽追討せらるるの比、豫州の家人と為る。遂に以て此の如しと。
11月3日 壬午
前の備前の守行家(桜威の甲)・伊豫の守義経(赤地錦の直垂・萌葱威の甲)等西海
に赴く。先ず使者を仙洞に進し、申して云く、鎌倉の譴責を遁れんが為、鎮西に零落
す。最期に参拝すべきと雖も、行粧異躰の間、すでに以て首途すと。前の中将時實・
侍従良成(義経同母弟、一條大蔵卿長成男)・伊豆右衛門の尉有綱・堀の彌太郎景光
・佐藤四郎兵衛の尉忠信・伊勢の三郎能盛・片岡の八郎弘綱・弁慶法師已下相従う。
彼此の勢三百騎かと。
[玉葉]
去る夜より、洛中の貴賤多く以て逃げ隠る。今暁、九郎等下向するの間、狼藉を疑わ
んが為なり。辰の刻、前の備前の守源行家・伊豫の守兼左衛門の尉(大夫の尉なり。
従五位下)同義経(殿上侍臣たり)等、各々身の暇を申し西海に赴きをはんぬ。これ
則ち指せる過怠無し。頼朝の為誅伐せられんと欲す。彼の害を免れんが為下向する所
なり。始め推して頼朝を討つべきの宣旨を申し下すと雖も、事叡慮より起こらざるの
由、普く以て風聞するの間、近国の武士将帥の下知に従わず。還って義経等を以て謀
反の者に処す。しかのみならず、法皇已下然るべきの臣下等を引率し、鎮西に向かう
べきの由、披露するの間、いよいよ人望に乖き、その勢日を遂って減少す。敢えて與
力の者無し。仍って京都に於いて関東の武士を支え難く、これを以て下向すと。院中
已下諸家・京中悉く以て安穏す。義経等の所行、実に以て義士と謂うべきか。
11月4日 癸未 天晴 [玉葉]
今日また、武士等義経を追行すと。伝聞、昨日、河尻の辺に於いて、太田と合戦す。
義経利を得て、打ち破り通りをはんぬと。
11月5日 甲申
関東発遣の御家人等入洛す。二品忿怒の趣、先ず左府に申すと。今日豫州河尻に至る
の処、摂津の国の源氏多田蔵人大夫行綱・豊嶋の冠者等前途を遮り、聊か矢石を発つ。
豫州懸け敗るの間挑戦に能わず。然れども豫州の勢以て零落す。残る所幾ばくならず
と。
[玉葉]
九郎等室に於いて乗船しをはんぬと。
11月6日 乙酉
行家・義経、大物浜に於いて乗船するの刻、疾風俄に起こって逆浪船を覆すの間、慮
外に渡海の儀を止む。伴類分散し、豫州に相従うの輩纔に四人。所謂伊豆右衛門の尉
・堀の彌太郎・武蔵房弁慶並びに妾女(字静)一人なり。今夜天王寺の辺に一宿し、
この所より逐電すと。今日、件の両人を尋ね進すべきの旨、院宣を諸国に下さると。
11月7日 丙戌
二品軍士を召し聚めんが為、京都の事を聞こし食し定めんが為、黄瀬河の宿に逗留し
給うの処、去る三日、行家・義経中国を出て西海に落ちるの由その告げ有り。但し件
の両人、院の廰の御下文を賜う。四国・九国の住人、宜しく両人の下知に従うべきの
旨これを載せらる。行家は四国の地頭に補し、義経は九州の地頭に補すが故なり。今
度の事、宣旨と云い、廰の御下文と云い、逆徒の申請に任せられをはんぬ。何に依っ
て度々の勲功を棄捐せらるやの由、二品頻りに欝陶し給う。而るに彼の宣旨を下さる
べきや否や、御沙汰に及ぶの時、右府頻りに関東を扶持せらるの旨風聞するの間、二
品欽悦し給うと。今日義経見任(伊豫の守・検非違使と)を解却せらる。
[玉葉]
夜に入り、人曰く、九郎義経・十郎行家等、豊後の国の武士の為誅伐せられをはんぬ
と。或いは云く、逆風の為海に入ると。両説詳かならずと雖も、解纜安穏ならざるか。
事もし実ならば、仁義の感報すでに空し。遺恨に似たると雖も、天下の大慶たるなり。
11月8日 丁亥
大和の守重弘・一品房昌寛等、使節として黄瀬河より上洛す。行家・義経等の事欝し
申さるる所なり。また彼等すでに都を落ちるの間、御上洛の儀を止め、今日鎌倉に帰
らしめ給うと。
[玉葉]
伝聞、義経・行家等、去る五日夜乗船、大物辺に宿す。追行の武士等、近辺の在家に
寄宿す(手島の冠者、並びに範季朝臣息範資等、大将軍たりと。件の範資儒家の生ま
れと雖も、その性勇士に受く。しかのみならず、蒲の冠者範頼親昵の間、在京の範頼
の郎従等を催し具し行き向かうと)。未だ合戦せざるの間、夜半より大風吹き来たり。
九郎等乗る所の船、併しながら損亡す。一艘として全く無し。船過半海に入る。その
中、義経・行家等、小船一艘に乗り、和泉浦を指し逃げ去りをはんぬと。家光に於い
ては梟首しをはんぬ。豊後の武士等の中、或いは降人と為り、範資が許に来たり。ま
た生きながら捕り取られをはんぬと。
11月10日 己丑
鎌倉に還御するの処、左典厩申されて云く、只今都人の伝言に云く、義経反逆の間、
追討の宣旨を下さるべきや否やの事、左右内府並びに師納言経房等に仰せ合わさるる
の処、右府の意見、首尾殊に理を尽くさる。皆これ豈関東引級の詞なり。内府は是非
分明の儀を申されず。左府は早く宣下せらるべきの由申し切らる。師納言は再三これ
を傾け申すと。また刑部卿頼経・右馬権の頭業忠等は、その志偏に豫州の腹心に有り。
廷尉知康同前の由と。
[玉葉]
夜に入り範季来たり。(略)又云く、頼朝追討の宣旨を下さるるの間、余の申し状、
道理を存すの由、世人謳歌すと。
11月11日 庚寅
義経等反逆の事、申請に任せ宣下せられをはんぬ。但し追って関東に誘うべきの由叡
慮に在るの処、二品の鬱憤興盛するの間、日来沙汰の趣、すでに相違しをはんぬ。爰
に義経・行家反逆を巧み西海に赴くの間、大物浜に於いて漂没の由風聞有りと雖も、
亡命の條疑う所無きに非ず。早く有勢の輩に仰せ、山林を尋ね捜し、その身を召し進
すべきの由、院宣を畿内近国の国司等に下さると。その状に云く、
院宣を被りて称く、源義経・同行家、反逆を巧み西海に赴くの間、去る六日、大物
浜に於いて忽ち逆風に逢うと。漂没の由風聞有りと雖も、亡命の條狐疑無きに非ず。
早く有勢武勇の輩に仰せ、山林河沢の間を尋ね捜し、不日にその身を召し進せしむ
べし。当国の中、国領に至りては、この状に任せ遵行せしめ、庄園に於いては、本
所に触れ沙汰を致す事、これ厳密なり。曽て懈緩すること勿れ。てえれば、院宣此
の如し。これを悉せ。謹状。
十一月十一日 太宰権の師[経房(奉る)]
その国守殿
[玉葉]
晩頭、雅頼卿来たり、世間の事等を談る。余三位中将改名の間の事を示し合わす。中
将の名良経、九郎の名義経なり。良と義とその訓これ同じ。義経須く改名すべきなり。
而るに敢えて以て改めず。然る間忽ち刑人に類し滅亡す。今に於いては、中将の改名
異議に及ぶべからざるか。仍って内々その字を長光法師に問うの処、撰び申して云く、
良輔・経通と。輔字は九條殿の御名、経通公卿の名たりと雖も、彼の子孫無し。当時
憚るべきに非ず。用いられ何事か有らんやと。
11月12日 辛卯
二品御書を駿河の国以西の御家人に遣わさる。触れ仰せられて称く、九郎すでに京を
落ちをはんぬ。仍って御上洛の事、当時は延引せしむ所なり。但し各々懈緩の儀無く
用意を致し、重ねての仰せに順うべきなりてえり。また駿河の国岡邊権の守泰綱、こ
の間病脳に依って、御堂供養並びに黄瀬河に御坐すの時参向せず。近日適々平癒し、
御上洛の事有るべきを聞き、悴衰の身を扶け、先ず鎌倉に参り、御共に候すべき由こ
れを申す。而るに今御京上の儀無し。参向すべからず。将又肥満の泰綱、騎用の馬定
めてこれ無きか。須く用意を廻らし御旨に随うべきの由報じ仰せらると。
今日、河越重頼の所領等収公せらる。これ義経の縁者たるに依ってなり。その内伊勢
の国香取五箇郷、大井の兵三次郎實春これを賜う。その外の所は、重頼が老母これを
預かる。また下河邊の四郎政義同じく所領等を召し放たる。重頼の聟たるが故なり。
凡そ今度の次第、関東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、太だ思し食し煩うの処、
因幡の前司廣元申して云く、世すでに澆季に属く。梟悪の者尤も秋を得るなり。天下
反逆の輩有るの條、更に断絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所たる
に依って静謐せしむと雖も、奸濫定めて地方に起こるか。これを相鎮めんが為、毎度
東士を発遣せられば、人の煩いなり。国の費えなり。この次いでを以て、諸国の御沙
汰に交わり、国衙・庄園毎に守護・地頭を補せられば、強ち怖れる所有るべからず。
早く申請せしめ給うべしと。二品殊に甘心し、この儀を以て治定す。本末の相応、忠
言の然らしむる所なり。
[玉葉]
義経・行家等召し奉るべきの由、院宣を下さると。(院宣11月11日条に同じ)
件の札、諸国に下さる。件の両将昨日ハ頼朝を討つべきの宣旨を蒙り、今日ハまたこ
の宣旨に預かる。世間の転変・朝務の軽忽、これを以て察すべし。
11月13日 壬辰 天晴 [玉葉]
関東の武士、多く以て入洛すと。参河の守範頼大将軍として上洛すべしと。或いは云
く、奥の疑いの為坂東に留め置くと。実説未だ聞かず。
11月14日 癸巳 天晴 [玉葉]
頼朝一定京上すべきの由風聞す。すでに足柄関を超えるの由、路頭に於いて承る所な
り。先々の如くに非ず。決定上洛すべきの由、郎従等に下知すと。若宮の別当美乃の
国に逢うと。今旦、範季来たり語る、入洛の武士等の気色大いに恐れ有りと。大略天
下大いに乱るべし。法皇御辺の事、極めて以て不吉と。梶原代官播磨の国に下向す。
少目代の男を追い出し、倉々ニ封を付けをはんぬと。件の国、院の分国なり。
11月15日 甲午
大蔵卿泰経朝臣の使者参着す。刑を怖れるに依ってか。直に営中に参らず。先ず左典
厩の御亭に到り、状を鎌倉殿に献らるの由を告ぐ。又一通典厩に献ず。義経等の事、
全く微臣の結構に非ず。ただ武威を怖れ伝送するばかりなり。何様の遠聞に及ぶや。
世上の浮説に就いて、左右無く鑽れざるの様、宥め申さるべしと。典厩使者を相具し、
子細を達し給う。府卿の状を披覧す。俊兼これを読み申す。その趣、行家・義経謀叛
の事、偏に天魔の所為たるか。宣下無くば、宮中に参り自殺すべきの由言上するの間、
当時の難を避けんが為、一旦勅許有るに似たりと雖も、曽て叡慮の與する所に非ずと。
これ偏に天気を伝うか。二品返報を投ぜられて云く、行家・義経謀叛の事、天魔の所
為たるの由仰せ下さる。甚だ謂われ無き事に候。天魔は仏法の為妨げを成し、人倫に
於いて煩いを致すものなり。頼朝数多の朝敵を降伏し、世務を任せ奉る。君の忠に於
いて、何ぞ忽ち反逆に変ぜん。指せる叡慮に非ざるの院宣を下さるるや。行家と云い
義経と云い、召し取らざるの間、諸国衰弊し、人民滅亡せんか。仍って日本国第一の
大天狗は、更に他者に非ざり候か。[仍って言上件の如しと。]
11月16日 乙未 天晴 [玉葉]
頼朝追討の宣旨を下さるの間の事、余の申し状、関東に達し帰依有るの由世間謳歌す。
この事還って以て恐れ有り。伝聞、近日、白川の辺顛倒の堂舎等、往還の輩偏に薪に
用ゆ。この事猶以て罪業たるの処、今に於いては、仏像を破り取ると。金色と云い、
彩色と云い、散々に仏体を打ち破り薪に為すと。武士の郎従、並びに京中誰人等の所
為と。或る人云く、頼朝決定上洛すべしと。
11月17日 丙申
豫州大和の国吉野山に籠もるの由風聞するの間、執行悪僧等を相催し、日来山林を索
むと雖も、その実無きの処、今夜亥の刻、豫州の妾静、当山藤尾坂より降り蔵王堂に
到る。その躰尤も奇怪。衆徒等これを見咎め、相具し執行坊に向かう。具に子細を問
うに、静云く、吾はこれ九郎大夫判官(今伊豫の守)の妾なり。大物浜より豫州この
山に来たり。五箇日逗留するの処、衆徒蜂起の由風聞するに依って、伊豫の守は山臥
の姿を仮て逐電しをはんぬ。時に数多の金銀類を我に與え、雑色男等を付け京に送ら
んと欲す。而るに彼の男共財宝を取り、深き峯雪の中に棄て置くの間、此の如く迷い
来たると。
11月18日 丁酉
静の説に就いて、豫州を捜し求めんが為、吉野の大衆等また山谷を蹈む。静は、執行
頗る憐愍せしめ、相労るの後、鎌倉に進すべきの由を称すと。
[玉葉]
伝聞、頼朝卿決定国を出て、当時駿河の国に就く。彼の国より先立つ上洛の武士の説
と。その後、参河・遠江の辺に於いて、一両日逗留すべしと。入洛の行程を計り、今
月二十五六日に及ぶべしと。或る説に、また九郎・十郎退散の由を聞き、路より帰国
すべしと。然れども多分上洛の由、謳歌する所なり。
11月19日 戊戌
土肥の次郎實平一族等を相具し、関東より上洛す。今度支配の国々を被る精兵の中、
尤も専一たりと。
[久我家文書]
**頼朝書状案(平頼盛宛)
御ふみこまかにうけたまはり候ひぬ。御あとのこと、いつれのきうたちにも、さたし
つけまいらせさせ給たらん。なにかおほつかなく候へき、たれヽヽもさまたけ申候は
むは、ひかことにこそ候はめ。あなかしく。
十一月十九日 在御判
11月20日 己亥
伊豫の守義経・前の備前の守行家等京都を出て、去る六日、大物浜に於いて乗船纜を
解くの時、悪風に遭い漂没するの由風聞に及ぶの処、八島の冠者時清同八日帰京しを
はんぬ。両人未だ死せざるの旨言上すと。次いで讃岐中将時實朝臣、流人の身たりな
がら、潛かに在洛して、今度義経に相具し西海に赴く。縡成らず、伴党離散するの刻、
帰京するの間、村上右馬の助経業の舎弟禅師経伊これを生虜ると。両條叡聴に達しを
はんぬの由その聞こえ有りと。
11月21日 庚子 天晴 [玉葉]
頼朝の上洛決定留まりをはんぬ。
11月22日 辛丑
豫州吉野山の深雪を凌ぎ、潛かに多武峰に向かう。これ大職冠の御影に祈請せんが為
と。到着の所は南院内藤室。その坊主十字坊と号すの悪僧なり。豫州を賞翫すと。
11月23日 壬寅 天晴 [玉葉]
伝聞、頼朝義経・行家等退散の由を聞き、早く以て帰国すと。(中略)この日隆職来
たり、頼朝宣下の間の事、頻りに忿怒の気有るの由、上洛の武士申す所なりと。伝聞、
頼朝妻の父、北條四郎時政今日入洛す。その勢千騎と。近国等件の武士の進止たるべ
きの由、閭巷謳歌す。
11月24日 癸卯
二品国土泰平の為、御願書を諸社に奉らる。先ず太神宮分は生倫神主に付けらる。そ
の外近国一宮と。相模の国中に於いては、仏寺十五箇所・神社十一箇所、悉く以てこ
れを奉納せらると。
11月25日 甲辰
今日北條殿入洛すと。行家・義経叛逆の事、二品欝陶の趣、師中納言具に以て奏達す。
仍って今日條々の沙汰有り。慥に尋ね索むべきの由宣下せらる。その状に云く、
文治元年十一月二十五日 宣旨
前の備前の守源行家・前の伊豫の守同義経、恣に野心を挟み、遂に西海に赴きをは
んぬ。而るに摂津の国に於いて纜を解くの間、忽ち逆風の難に逢う。誠にこれ一天
の譴なり。漂没するの間、その説有りと雖も、命を殞すの実猶疑い無きに非ず。早
く従二位源朝臣に仰せ、不日に在所を尋ね捜し、宜しくその身を捉え搦めしむべし。
蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅(奉る)
11月26日 乙巳
大蔵卿泰経朝臣籠居す。これ義経に追討の宣旨を申し下す事、彼の朝臣の伝奏たるに
依って、源二位卿殊に欝し申すの趣叡聞に達するの間、勅定此の如しと。泰経行家・
義経の謀叛に同意する事、書状に載せ竹枝に挟み、昨日師中納言の庭に立つ。黄門驚
きながらこれを披見し、定長朝臣に付け奏覧に備うと。
[玉葉]
昨日、或る武士語り示して云く、頼朝追討の宣旨奉行の人々、損亡すべしと。この事
還って信受せられず。議奏の人猶以て重科に非ず。況や奉行の弁史をや。但し近代の
事、聊かの事に依って追捕に及ぶ。この條極めて以てその恐れ有りと。去る夜鎌倉よ
り泰経卿の許に書札有り。院の御所に於いて相尋ねるの処、当時祇候せざるの由、人
々これを答う。時に大怒し文筥を中門廊に投げ逐電しをはんぬ。(中略)頼朝の書札
を披見するの処、先立文表書に云く、大蔵卿殿御返事、(文面11月15日条に同じ)
11月28日 丁未
諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て
課すべきの由、今夜北條殿籐中納言経房卿に謁し申すと。
[玉葉]
伝聞、頼朝代官北條丸、今夜経房に謁すべしと。定めて重事等を示すか。又聞く、件
の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜ
ず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻に兵粮の催しに非ず。惣て以て田地を知行
すべしと。凡そ言語の及ぶ所に非ず。
11月29日 戊申
北條殿申さるる所の諸国守護・地頭・兵粮米の事、早く申請に任せ御沙汰有るべきの
由仰せ下さるの間、師中納言勅を北條殿に伝えらると。また多武峯の十字坊豫州に相
談して云く、寺院広きに非ず。住侶また幾ばくならず。遁隠始終叶うべからず。これ
より遠津河の辺に送り奉らんと欲す。彼の所は、人馬不通の深山なりてえり。豫州こ
れを諾し、大いに欽悦するの間、悪僧八人を差しこれを送る。悪僧と謂うは、道徳・
行徳・拾悟・拾禅・楽達・楽圓・文妙・文實等なりと。今日、二品駅路の法を定めら
る。この間の重事に依って、上洛御使の雑色等、伊豆・駿河以西近江の国に到り、権
門庄々を論ぜず、伝馬を取りこれを騎用すべし。且つは到来の所に於いて、その粮を
沙汰すべきの由と。
11月30日 己酉 陰晴不定 [玉葉]
今夜光長来たり、聊か告示の事有り。関東所知を仰せ付く青侍(光景と)上洛す。頼
朝の辺に於いて聞き及ぶ事有り(当時頼朝駿河の国に在りと)。泰経卿殊に意趣を結
ぶ。また射山天下を知ろし食すべからざる事の様存ぜしむと。この事尤も不便の事か。
前車の覆誡を顧みるべきなり。