1186年 (文治2年 丙午)
 
 

2月1日 己酉
  左典厩能保並びに室家、男女御子息、鶴岡八幡宮に参られ、神楽を行わる。別当・供
  僧及び職掌各々賜物有り。これ近日帰洛有るべきに依って、今この儀有りと。今日北
  條殿、六条河原に於いて群党十八人の首を刎ねる。凡そ此の如き犯人は、使の廰に渡
  すべからず。直に刎刑に処すべきの由と。
 

2月2日 庚戌
  二位家諸国宰史の事に就いて、條々京都に申せしめ給う事有りと。
  一、前の対馬の守親光を以て、還任せらるべき由の事
   これ啻に関東に於いて忠有るのみならず、また朝家の功臣なり。その故は、任中の
   間、厳重の神事成功の宣旨を帯するの上、御祈祷の為、或いは八幡宮以下の鎮守・
   諸大明神六十余社の御宝殿を修造せしめ、或いは同宮放生会の御輿装束、並びに錦
   の御帳及び神殿の御戸帳、舞装束等を餝り奉る。すでに三万余疋経営す。小国の乃
   具、満足に殆ど余剰を顧みざるものか。皆院進の御物の由を存じ、京都に運上せし
   めんと欲するの処、平家下向するの間、路次不通の故、有限の御物たるに依って、
   御祈祷の為、神要に帰せしめをはんぬと。件の神役の目録、款状を副え付け進すの
   間、これを執り進せしめ給うなり。
  一、散位源邦業国司の事
   これ御一族の功士たり。下総の国は同じく御分国たるの間、これを挙し申さると。
  一、毛呂の太郎藤原季光国司の事。
   これ太宰権の師季仲卿の孫なり。心操せ尤も穏便、賢慮に相叶うか。旁々理運の間、
   御分国たるに就いて、豊後の国を挙し申せしめ給うと。
  一、御家人官途の事
   各々遠国に住せしめ、久しく顕要の官を帯すべからざるの由、慎み存ぜしめ給うに
   依って、辞書八通これを献覧せらる。
    以上経房卿に付けらると。
 

2月3日 辛亥
  武蔵の国眞慈悲寺は御祈祷の霊場なり。然れども未だ庄園を寄付すること無きに依っ
  て、仏は供具の備え無く、僧は衣鉢の貯えを失う。爰に僧有尋、今日参上す。一切経
  を当寺に安置し、破壊を修理すべきの由申請するの間、則ち院主職に補せらるる所な
  り。
 

2月4日 壬子
  営北の山本に、狐子を生む。その子御丁台に入る。卜筮の推す所不快。凡そ去年以来
  頻りに怪異有り。また去る比御夢想有り。貴僧一人御枕上に参り、射山の事、尤も重
  んじ奉るべし。然らずんば慎み有るべきの由これを申すと。仍って若宮の法眼参仕し、
  荒神供を修すと。
 

2月5日 癸丑 雨下る [玉葉]
  巳の刻ばかり、鎌倉の飛脚到来す。先日の返報ニ、幼主の時内覧例無きの趣、具に以
  て注し遣わしをはんぬ。而るにその返事無し。ただ摂政長者の事、置文を以て御社に
  於いて決すべきの由院に申しをはんぬと。奇代の珍事、凡そ是非に能わず。
 

2月6日 甲寅
  左典厩能保帰洛す。室家・姫君二人等を相伴う。去る夜、二品御馬十疋以下餞物を遣
  わさる。御台所長絹三百疋を室家並びに姫君に進せしめ給う。また左典厩昇進の事、
  及び同室家禁裏の御乳母たるべきかの事、二品執り申せしめ給う所なり。次いで御共
  として、当参の在国御家人等を差し進せらる。所謂岩原の平三・中村の次郎・比企の
  籐次、土肥の彌太郎、小楊士の籐三、横地の太郎、勝田の三郎等なり。この外宿次兵
  士の事、兼日に定め下さると。典厩鎌倉に御在せば、諸事申し合わさるるの間、至要
  たりと雖も、当時京都に於いて、巨細媒介の人等無し。仍って急がしめ給う。また神
  仏の事並びに禁裏・仙洞等の事、節会・除目及び豫州の事、議卿に触れ申さるべき事
  等、條々を注し具に示し付け給うと。

[玉葉]
  定経父卿の使いとして伏見に参り、鎌倉の申状を奏聞すと。
 

2月7日 乙卯
  北條殿の使者関東に到来す。去る月二十三日、前の中将時實朝臣配流の官符を下さる。
  周防の国を改め、上総の国に配流せらるべきの由と。
   源二位の書状これを返し献る。時實上総の国に配せられをはんぬ。この御意を得し
   め給うべきの状件の如し。
     正月二十五日         右中弁兼忠
  今日、廣元肥後の国山本庄を賜う。これ義経・行家謀逆の間計り申す事等、始終符合
  す。殊に感じ思し食さるるに就いて、その賞に加えらるるの随一なりと。
 

2月9日 丁巳
  北條殿の飛脚京都より到来す。院宣を持参す。御熊野詣での事、定長の奉書此の如し。
  今春中遂げしめ御わんと欲す。御山の供米等沙汰し進せらるべきの由と。則ち左少弁
  の奉書を副え進せらるる所なり。これ去る三日戌の刻、師中納言の許より、北條殿に
  到来す。今月中御請文を執り進すべきの旨、厳密に相触れらるるの間、日時を経ず献
  上せしむの由、彼の状に載せらると。
   御熊野詣で、この六七年すでに絶え、連々思し食し立つと雖も、自然遂げられず候。
   返す々々遺恨。天下の不落居も只事に非ず。朝暮歎き思し食す所なり。然るべくば、
   今春遂げはやと思し食すの由、源二品に仰せ遣わすべきなり。今月の中、左右を聞
   こし食さんと欲し、飛脚を差し遣わすべきの由、時政に仰せらるべきなり。兼ねて
   また御山物無しと。少々米なと運進てんやと仰せ遣わさるべきなり。二十八度の御
   参り、三十度に満まほしく、心願他に無きの趣、能々計り仰せらるべきの由候なり。
   また時政にも、この子細仰せ含めらるべきの旨、内々御気色候なり。恐惶謹言。
     二月三日            左少弁定長
      師中納言殿
   院宣此の如し。この意を得て沙汰し進せしめ給うべし。仍って執達件の如し。
     二月三日            太宰の師

[千家文書]
**土肥實平下文(?)
  下 出雲国杵築大社神官等の所
   定補 神主職の事
    出雲孝房
  右、鎌倉殿御下文の旨に任せ、彼の職に補任せしむ所なり。てえれば、神官等宜しく
  承知すべし。件の用に依って、故に以て下す。
    文治二年正月 日        平朝臣(花押)

**北條時政下文
  下 杵築社神官等の所
   定補 神主職の事
    出雲孝房
  右、鎌倉殿御下文並びに土肥殿下文の旨に任せ、彼の職に補せしむ所なり。てえれば、
  神官等宜しく承知すべし。敢えて違失すべからず。故に以て下す。
    文治二年二月九日        平朝臣(花押)
  

2月10日 戊午 天晴 [玉葉]
  今夕鎌倉の返札を遣わす。頭の弁光長の奉書なり。その趣君臣合体し、天下を正しく
  為すべしてえり。内覧の宣旨無しと雖も、何ぞ臣忠を竭くさざるや。上下の乖誤、国
  の理叶い難してえり。例無きの所職、公私詮無きの由なり。生涯の運報、ただ春日大
  明神に任せ奉るなり。
 

2月12日 庚申 天晴 [玉葉]
  伝聞、頼朝法皇に別進す(上絹三百疋・国絹五百疋・幔三十帖と)。越前の介兼能を
  以て使いと為す。その次いでに種々の事等を奏聞すと。
 

2月13日 辛酉
  当番の雑色京都より参着す。北條殿の状等を進す。静女を相催し送り進すべし。また
  正月二十三日、同二十八日、洛中に群盗蜂起す。則ちこれを搦め獲て、去る一日十八
  人梟首しをはんぬ。数日を経れば刑寛に似たるの間、使の廰に召し渡すに及ばず。直
  に沙汰を致すと。

[玉葉]
  定長を以て條々奏聞す。頼朝の書札三通有り。摂政の事状毎に申せしむ。皆置文有る
  べきの由なり。(中略)院仰せて云く、置文の條然るべからず。その事その益有るべ
  からず。故無く改易に及ばず。今に於いては本の如く文書の内覧・叙位・除目毎時右
  大臣に示し合わせ行わるべきの由、即ち定長朝臣を以て摂政に仰せをはんぬ。
 

2月18日 丙寅
  豫州多武峯に隠住する事風聞す。これに依って彼の師壇鞍馬の東光坊阿闍梨・南都の
  周防得業等、同意の疑い有り。これを召し下さるべしと。
 

2月19日 丁卯
  供御の甘苔、伊豆の国より鎌倉に到来す。彼の国の土産なり。仍って例に任せ、専使
  を差し京都にこれを進せらると。
 

2月21日 己巳
  弓削庄兵粮米の事、停止すべきの由、師中納言の奉りとして北條殿に仰せ下さる。沙
  汰者に召し問い、言上せしむべきの由、今日請文を進せらる。而るに左右無く免許を
  成せず、頗る以て御不審なるべしと称す。黄門斟酌を加え、暫く御返事を奏せざるの
  由と。
 

2月22日 庚午
  神崎御庄兵粮米の事、停止すべきの旨、師中納言を以て北條殿に仰せらるるの間、今
  日且つは府宣に任せ、且つは子細を相尋ね、沙汰を致すべきの由、天野の籐内遠景に
  示し遣わさる。その上関東に申せらると。
 

2月23日 辛未
  前の大史隆職宿祢不忠の逆臣として、所職改替の身なり。猶官知行の保を押領し、公
  要の重書等を抑留せしむ由の事、その沙汰有り。京都に申さるるべしと。大夫史廣房
  内々二品に訴え申す故なりと。
 

2月24日 壬申 晴 [玉葉]
  申の刻、頭の左中弁光長来たり條々の事を申す。その中左馬の頭能保衛府の督に任ぜ
  らるべきの由、関東より師卿に付き院に奏す。而るに当時闕無し。何様行わるべきや
  の由院宣有りと。(略)ただ御定有るべし。また対馬の守親光還任すべきの由、同じ
  く関東より申せしむと。件の事は、治承三年成功に依って当国守に任ず。即ち任国に
  赴くの間、平家の乱に逢う。仍って彼の乱行を恐れ、高麗国に越え渡り、平氏滅亡の
  由を聞き、帰朝在国の間、史大夫清業巡年に依って当国に拝せられをはんぬ。而るに
  親光関東に挙向しこの子細を触れをはんぬ。仍って頼朝卿平氏に従わざるの意趣に感
  じ、この旨を奏すと。余云く、これまた勅定在るべし。また云く、行家・義経等猶尋
  ね捜すべきの由同じく奏聞す。仍って下知すべきの由院宣有り。宣旨を賜うべきか。
  御教書を以て下知すべきかと。余云く、大事なり。宣旨を賜うべきかてえり。

[高野山文書]
**大江廣元消息案
  鳥羽宮よりおほせくたされたる紀伊国あて川の御庄を、かうやの三ほうはう、ならひ
  に、おとヽ助光といふなる男、おし領したむなる、院宣をもかまくら殿の御下文をも、
  もちゐぬよし、申させたまひたるなり、事実者、あひたつねて、さたしまいらすへし、
  返々不便なり、
    二月二十四日          廣元
  北條殿
 

2月25日 癸酉
  北條殿去年より在京す。武家の事を執行するの間、事に於いて賢直、貴賤の美談とす
  る所なり。而るに或いは不善の者、北條殿の下知と称し、七條細工の鐙を押し取らん
  と欲す。訴え申すに就いて、職事これを尋ね下さる。仍って北條殿殊に驚騒し、今日
  則ちこれを陳謝すと。
   仰せ下され候入道鍛冶訴え申す鐙の事、全く以て下知仕らず候。もし下人の中、自
   ら申し懸ける事候わば、子細を時政に相尋ねるべく候の処、これ程の少事を以て訴
   訟を経ること、最も覚えに当らず候の條、極めて恐れ思い候。この旨を以て申し上
   げしめ給うべく候。誠恐謹言。
     二月二十五日          平の時政(請文)


2月26日 甲戌
  二品の若公誕生す。御母は常陸の介籐時長の女なり。御産所は長門の江七景遠が浜の
  宅なり。件の女房殿中に祇候するの間、日来御密通有り。縡露顕するに依って、御台
  所御厭の思い甚だし。仍って御産の間の儀、毎事省略すと。

[玉葉]
  今日、関東より書札到来す。除目の事偏に下官の最たるべしと。また経房卿の許より
  密々頼朝の申状を注し送る。その趣、下官猶摂政たるべきの趣と。実に洛中の有様を
  知らざるか。所謂下官の不詳なり。左右に能わずと。
 

2月27日 乙亥
  安達の新三郎飛脚として上洛す。申さるる條々、摂政の詔を右府に下さるべきの事、
  その内有るか。右府は法性寺殿の三男なり。和漢の才智頗る人に越えしめ給うと。当
  摂政殿本より平氏の縁人たり。関東に御隔心有るの処、去年義経逆心を顕わすの時、
  追討の宣旨、偏に彼の御議奏に依るの由風聞す。仍って挙し申さるべきの趣、内々右
  府に啓せらる。而るに時宣に叶うべからざるの旨、右府御猶予有りと雖も、遂にこれ
  を申せらるるかと。また北條殿早く帰参せらるべきの由仰せ遣わさる。関東の事に於
  いて御談合有るべき事数有り。洛中守護は、すでに左典厩に仰せらるべきが故なり。
 

2月28日 丙子
  京都に申さるる条々、その沙汰有り、治定すと。
  一、五畿七道諸国の庄園に仰せ、兵粮米の進を免除し、土民を安堵せしむべき事
   この米催の事に依って民戸殊に費ゆ。今に於いては殆ど乃貢運上の計無きの由、頻
   りに領家の訴え有るの間、この儀に及ぶ。然れば使者を賦り遣わし、触れ廻らすべ
   きの由、北條殿に仰せらるべしてえり。
  一、肥前の国神崎御庄、武士の濫行を停止すべき事
   天野の籐内遠景の許に仰せらるべしてえり。
  一、上皇御灌頂の用途、早く沙汰し進上すべき事
  一、筑後の介兼能使節の間、無実を称すこと有り。すでに叡慮に背くの由ほぼこれを
    承るに就いて、永く召し仕うべからざる事
   以上の両條、師中納言に申さるべしてえり。
 

2月29日 丁丑
  所衆中原信房は、造酒の正宗房が孫子たるに依って、殊に優賞せらる。今日近江の国
  善積庄を賜う。これ圓勝寺領たりと雖も、信房所望を致すの上、宗房の旧労に酬いら
  れんが為此の如しと。