1186年 (文治2年 丙午)
 
 

3月1日 己卯
  諸国に惣追捕使並びに地頭を補せらるる内、七箇国分は、北條殿拝領せられをはんぬ。
  而るに深く公平を存じ、去る比地頭職を上表す。その上重ねて書状を師中納言に付け
  らる。黄門また定長朝臣に付けこれを奏聞せらると。
   院進の御物の脚力罷り下るべく候の由、申し候所なり。去る二十八日三箇度の御返
   事を以て、統て進覧を遂ぐべきの由、御教書を給い候いをはんぬ。而るに件の脚力、
   御返事を賜うに能わず、罷り下り候。恐れ申す所なりてえり。抑も一日参拝の時、
   七箇国の地頭職の條、言上せしめ候と雖も、未だ分明の仰せを承わらず罷り出で候
   いをはんぬ。仍って時政に於いて七箇国の地頭職を給わば、各々勧農を遂げしめ候
   わんが為、辞止せしむべきの由存ぜしめ候所なり。惣追捕使に於いては、彼の凶党
   出来候の程、且つは成敗を承らんが為、守捕せしむべきの由存知しむ所なり。凡そ
   国々の百姓等、兵粮米の使等、事を左右に寄せ、所々の公物を押領するの由、訴訟
   絶えず候なり。且つは此の如き等の次第を糾明し、もし兵粮米過分に有らば、即ち
   件の過分を糺返し、また百姓等未済せしめば、田数を計り糺し、早く究済せしむべ
   きの由、尤も御下知を蒙るべく候。兼ねてまた没官の所々、院宣並びに二位家の仰
   せを蒙り候の間、見知せしむべきの由、同じく存ぜしむる所なり。この由を以て言
   上せしめ給うべく候。時政誠惶誠恐謹言。
     三月一日            平時政(申文)
   進上 大夫屬殿
  今日、豫州の妾静、召しに依って京都より鎌倉に参着す。北條殿送り進せらるる所な
  り。母磯の禅師これに伴う。則ち主計の允の沙汰として、安達の新三郎が宅に就いて
  これを招き入ると。

[玉葉]
  光長来たり云く、今日、九郎・行家追討の宣旨内大臣亭に持ち向かいこれを下知すと。
 

3月2日 庚辰
  今南・石負庄の兵粮米停止すべきの由、昨日師中納言使者を以て、院宣を北條殿に伝
  えらるるの間、今日下文を成し進せらるる所なり。北條殿言上の事奏聞するの由、左
  少弁師中納言に示し送らるる所の状、黄門北條殿に遣わすと。
   時政の申状奏聞し候いをはんぬ。七箇国の地頭辞退の事、尤も穏便に聞こし食す。
   惣追捕使の事、何様に候べきや。勧農を遂げんが為地頭職を停止し、人の愁い無く
   ば旁々神妙、定めてその儀を為すか。兵粮米未済の事、また以て同前たり。迎春の
   譴責は、窮民若くは歎きを為すか。その條また定め相計る旨に候か。没官の所々検
   知の事、二位卿の許より、上へは申す旨も候わず。次第何様に候や。委趣子細を尋
   ね聞き、且つは計り申せしめ給うべきの由、内々御気色候なり。恐惶謹言。
     三月二日            左少弁
      師中納言
  今日、故前の宰相光能卿の後室比丘尼阿光、去る月使者を関東に進し、相伝の家領丹
  波の国栗村庄、武士の為妨げを成さるるの由これを訴え申す。仍って早く濫吹を停止
  すべきの趣仰せらると。
   下す 丹波の国栗村庄
    武士の狼藉を停止せしめ、元の如く崇徳院御領として年貢を備進し、領家の進止
    に随うべき事
   右件の庄、崇徳院御領たるべきの由、院宣を下さるる所なり。而るに在京の武士、
   事を兵粮の催しに寄せ、暗に以て押領す。今に於いては、早く元の如く彼の御領と
   して、領家の進止に随い、年貢所当を備進せしむべきの状件の如し。以て下す。
     文治二年三月二日
  また南都の大仏師成朝、勝長寿院の御仏を造立し奉らんが為召し下さるるの処、傍輩
  仏師、この下向の隙を以て、当職を競い望むの由歎き申すの間、彼の状を取り挙し申
  せしめ給う。その状に云く、
   仏師成朝申す南都大仏師の事、申せしむるの旨、もし道理に候わば、申し沙汰せし
   め給うべく候うか。恐々謹言。
     三月二日            頼朝(在御判)
   進上 師中納言殿

   南京大仏師成朝言上す。
    興福寺御仏等、早く他の仏師を停止せられ、相伝の理に任せ、一向に成朝造営し
    奉るべき事
   件の大仏師職は、成朝先師相承連綿として絶えること無し。所謂定朝・覺助・頼助
   ・康助・康朝等なり。先祖五代の間、覺助・頼助等の時、御寺炎上の事有りと雖も、
   大仏師を置きながら、他人全く御仏等に勤仕せしむること無し。況や彼の覺助・頼
   助、凡そ僧の間御仏造営の事を奉り、御供養の時綱位に昇りをはんぬ。今成朝相伝
   の例に任せ造営を奉るべきの処、他の仏師等各々濫望を致し、面々に奉仕せしむ。
   愁歎の至り、喩えを取るに物無し。これ則ち故平家の時、その所縁に就いて申請す
   るが故なり。但しその中定朝弟子と号すの輩有りと雖も、更に比肩すべからず。茲
   に於いて成朝、重代と云い器量と云い、採用の処、誰か非拠と謂わん。その骨無く
   ば、当時御仏奉仕の輩を訴え申すべからず。勝劣を尋ぬれば、その隠れ無からんか。
   早く先師相伝の理に任せ、申請の如く他の仏師等を停止せられ、成朝一向に御仏を
   造営し奉るべきの由仰せ下されんと欲す。就中東金堂の御仏等、成朝宣下を守り勤
   仕するの処、鎌倉殿の御堂の御仏を造営し奉るに依って、成朝白地に関東に下向す
   るの間、院性所望致し勤仕せしむと。事もし実ならば、その恐れ少なからず。道理
   に任せ裁許せられば、いよいよ正理の不朽を知らんや。仍って大概在状に勒す。言
   上件の如し。
 

3月4日 壬午
  主水司供御所丹波の国神吉、地頭職を補せらるるに依って、事の煩い有るの由これを
  訴え申すに依って、免除せらるべきの旨、御消息を北條殿に遣わさる。因幡の前司こ
  れを沙汰す。
 

3月6日 甲申
  静女を召す。俊兼・盛時等を以て、豫州の事を尋ね問わる。先日吉野山に逗留するの
  由これを申す。太だ以て信用せられず。てえれば、静申して云く、山中には非ず、当
  山の僧坊なり。而るに大衆蜂起の事を聞くに依って、その所より山臥の姿を以て、大
  峯に入るべきの由を称し入山す。件の坊主僧これを送る。我また慕って一の鳥居の辺
  に至るの処、女人は大峯に入れざるの由、彼の僧相叱るの間、京方に赴くの時、共に
  在る雑色等、財宝を取り逐電するの以後、蔵王堂に迷い行くと。重ねて坊主僧の名を
  尋ねらる。忘却の由を申す。凡そ京都に於いて申す旨、今の白状と頗る違うに依って、
  乃ち法に任せ召し問うべきの旨仰せ出さると。また或いは大峯に入ると。或いは多武
  峯に至る後逐電するの由風聞す。彼是の間定めて虚事有るかと。
 

3月7日 乙酉
  北條殿七箇国の地頭上表の事を申さる。兵粮米の事、没官の所々の事、すでに奏聞を
  経をはんぬの由、左少弁奉書を師中納言に遣わす。彼の卿またその状を北條殿に送る
  と。
    時政の申状奏聞しをはんぬ。
   一、地頭辞退の事、人の愁いの為停止するの條、尤も穏便を為すか。
   一、惣追捕使の事、その名を替えると雖も、ただ同前か。但し義経・行家、出来せ
     ざる以前、二位卿に申し行わざるの外、一向に止めらるべきの由、計り仰せら
     れ難し。世間落居せざるの間、国毎に惣追捕使を置き、若くはまた広博の庄園
     ばかり計り補せば宜しかるべきか。最も狭少の所々、皆悉く補せられば、喧嘩
     絶えず。訴訟尽きざらんか。且つは万人の愁いを散ぜしめ、両人を尋ね出すの
     術たるべきか。
   一、兵粮米未済の事、道理に任せ尤も沙汰有るべきか。
   一、没官の所々の事、二位卿申す旨無し。仍って左右を仰せらるるに能わず。
    以前の條々、この趣を以て計り仰せらるべきか。此の如き事、子細を知らざる事
    なり。殊に斟酌せしめ給うべし。今春勧農せざれば、諸事若くは亡び有らんか。
    能々優恕し沙汰を致せば、定めて天意に叶うかの由、内々御気色候なり。仍って
    言上件の如し。
     三月七日            左少弁定長
    進上 師中納言殿
 

3月8日 丙戌
  源蔵人大夫頼兼愁い申す丹波の国五箇庄の事、二品京都に執り申せしめ給うべきの由
  御沙汰に及ぶ。これ入道源三位卿頼政が家領なり。治承四年有事の後、屋島前の内府
  これを知行す。今度没官領の内、頼兼に付けらる。而るに仙洞御領たるべきの由仰せ
  有るか。
 

3月9日 丁亥
  武田の太郎信義卒去す(年五十九)。元暦元年、子息忠頼の反逆に依って御気色を蒙
  る。未だその事を散ぜざるの処、此の如しと。
 

3月10日 戊子
  伊勢太神宮領地頭等の中、乃具已下の事、精勤を致すべきの由、日来その沙汰有り。
  今日これを施行せらる。御信仰他に異なるが故なり。
   下す 伊勢の国神宮御領・御園・御厨の地頭等
    早く先例に任せ、御上分の神役並びに給主禰宜の得分物を弁備すべき事
   右、当国神領神民の中、狼藉を停止せしめ、有限の御上分の雑事、並びに給主禰宜
   ・神主の得分物、対捍を致さず、先例に任せ弁備せしむべきなり。もし処の異損に
   依って、本法の弁えを泥まば、地頭得分と雖も、慥に正物に立用せしむべし。神役
   に於いては、敢えて闕乏すべからざるが故なりてえり。御園・御厨住人宜しく承知
   すべし。緩怠すべからざるの状件の如し。
     文治二年三月十日

[玉葉]
  伝聞、関東より摂録の事重ねて院に奏すと。
 

3月11日 己丑 天晴 [玉葉]
  早旦、定長光長の許に告げ送りて曰く、摂政氏の長者等の事、今日仰せ下さるべしと。
  (中略)頼朝の申す所、頗る不当の事等相交ると雖も、また理有る事に於いては、何
  ぞ御承引無からんや。凡そ万機を遁れ御う事、この大事に依るに非ず。年来の御畜懐
  なり。而るに前の摂政一切承諾無きの間、自然行う所なり。今に於いては、一向申し
  沙汰すべきの由なり。
 

3月12日 庚寅
  小中太光家使節として上洛す。これ左典厩の賢息(二品御外姪)首服を加えしめ給う
  べきに依って、御馬三疋・長持(砂金・絹等を納めらる)二棹を献ぜらるるが故なり。
  また関東御知行の国々の内、乃具未済の庄々、家司等の注文を召し下しこれを下さる。
  催促を加え給うべきの由と。今日到来す。
   注進三箇国庄々の事(下総・信濃・越後等の国々の注文)
     合
  下総の国
   三崎庄(殿下御領)        大戸神崎(同)
   千田庄              玉造庄(三井寺領)
   匝嵯南庄(熊野領)        印東庄(成就寺領)
   白井庄(延暦寺領)        千葉庄(八條院御領)
   船橋御厨(院御領)        相馬御厨(同前)
   下河邊庄(八條院御領)      豊田庄(松岡庄と号す。按察使家領)
   橘並びに木内庄(二位大納言)   八幡
  信濃の国
   伊賀良庄(尊勝寺領)       伴野庄(上西門院御領)
   郡戸庄(殿下)          江儀遠山庄
   大河原鹿塩            諏訪南宮上下社(八條院領)
   同上下社領(白川郷)       小俣郷・熊井郷
   落原庄(殿下)          大吉祖庄(宗像少輔領)
   黒河内藤澤(庄号の字無きの由、今度尋ね捜すの処、新たに諏訪上下社領と為す。
         仍って国衙の進止に随わず)
   棒中村庄             棒北條庄
   洗馬庄(蓮華王院御領)      相原庄(相)
   麻績御厨(大神宮御領)      住吉庄(院御領)
   野原庄(同前)          前見庄(雅楽頭濟盆領)
   大穴庄(元左大弁師能領、近年忠清法師領)
   仁科御厨(太神宮御領)      小谷庄(八幡宮御領)
   石河庄(御室御領)        四宮庄南北(同前)
   布施本庄             布施御厨
   富都御厨             善光寺(三井寺領)
   顕光寺(天台山末寺)       若月庄(證菩提院領)
   太田庄(殿下御領)        小河庄(上西門院御領)
   丸栗庄(御室御領)        弘瀬庄(院御領)
   小曽禰庄(八條院御領)      市村庄(院御領)
   芋河庄(殿下御領)        青瀧寺
   安永勅旨             月林寺(天台末寺)
   今溝庄(松尾社領)        善光寺領(阿居・馬島・村山・吉野)
   天台山領小市           東條庄(八條院御領)
   保科御厨             橡原御庄(九條城興寺領)
   同加納屋代四箇村         浦野庄(日吉社領)
   莢多庄(殿下御領)        倉科庄(九條城興寺領)
   塩田庄(最勝光院領)       小泉庄(一條大納言家領)
   常田庄(八條院御領)       海野庄(殿下御領)
   依田庄(前の齋院御領)      穀倉院領
   佐久伴野庄(院御領)       千国庄(六條院)
   桑原余田(前の堀河源大納言家領) 大井庄(八條院御領)
   平野社領(今八幡宮領。浅間社・岡田郷)
  左馬寮領
   笠原御牧  宮所   平井弖  岡屋   平野   小野牧  大塩牧
   塩原    南内   北内   大野牧  大室牧  常磐牧  萩金井
   高井野牧  吉田牧  笠原牧(南條)   同北條  望月牧  新張牧
   塩河牧   菱野   長倉庄  塩野   桂井庄  緒鹿牧  多々利牧
   金倉井
  越後の国
   大槻庄(院御領)         福雄庄(上西門院御領)
   青海庄(高松院御領)       大面庄(鳥羽十一面堂領)
   小泉庄(新釈迦堂領、預所中御門大納言)
   豊田庄(東大寺)         白河庄(殿下御領)
   佐橋庄(六條院領、一條院女房右衛門佐の局の沙汰)
   奥山庄(殿下御領)        比角庄(穀倉院領)
   宇河庄(前の齋院御領、預所前の治部卿)
   大島庄(殿下御領)        白鳥庄(八條院御領)
   吉河庄(高松院御領)       石河庄(賀茂社領)
   加地庄(金剛院領、堀河大納言家の沙汰)
   於田庄(院御領、預所備中前司信忠)
   佐味庄(鳥羽十一面堂領、預所大宮大納言入道家)
   菅名庄(六條院領、預所讃岐判官代惟繁)
   波多岐庄             紙屋庄(殿下御領、預所播磨の局)
   弥彦庄(二位大納言家領)     志度野岐庄(二位大納言家領)
   天神庄(前の齋院御領)      中宮(上西門院御領、預所木工の頭殿)
  右注進件の如し
    文治二年二月日
 

3月13日 辛卯
  関東御分の国々の乃具、日者朝敵征伐の事に依って頗る懈緩す。然れば以前の分を免
  ぜられ、今年より以後合期の沙汰を致すべきの由、京都に申さるる所なり。
   諸国済物の事、治承四年の乱以後、文治元年に至るまで、世間落去せず。先ず朝敵
   追討の沙汰の外、暫く他事に及ばず候の間、諸国の土民、各々官兵の陣を結び、空
   しく農業の勤めを忘る。就中、関東の武士敵人を討たんが為、数度合戦し、都鄙の
   往反、今にその隙無く候。頼朝知行の国々、相模・武蔵・伊豆・駿河・上総・下総
   ・信濃・越後・豊後等なり。去年以往の未済物を優免せられ、今年より、国々の堪
   否に随い励済せしむべきの由、沙汰候所なり。凡そこの九箇国に限らず、諸国一同
   に為すべき事か。惣て去年以往の未済物を優免せられ、窮民を安堵せしむ。今年よ
   り有限の済物、先例に任せ沙汰を致せしむべきの旨、宣旨を下さるべく候なり。仍
   って言上件の如し。頼朝恐々謹言。
     三月十三日           頼朝
   進上 師中納言殿
 

3月14日 壬辰
  行家・義経を捜し求むべき事、宣旨関東に到来す。その詞に云く、
    文治二年二月三十日    宣旨
   前の備前の守源行家・前の伊豫の守源義経等、奸心日に積もり、謀逆露顕す。遂に
   都城に於いて亡命せず、山沢に隠居するの所、ほぼその聞こえ有り。宜しく熊野・
   金峯山、及び大和・河内・伊賀・伊勢・紀伊・阿波等の国司に仰せ、慥に在所を捜
   し求め、その身を搦め進せしむべし。
                    蔵人頭左中弁藤原光長(奉る)
 

3月15日 癸巳
  伊豫の前司義経所々に横行す。今日太神宮に参り、所願成就の為と称し、金作の劔を
  奉る。この太刀は、度々合戦の間これを帯せしむる所なりと。
 

3月16日 甲午
  山城の介久兼使節として上洛す。伊勢の国神領顛倒の奉行等の事を仰せらる。また諸
  国兵粮米催しの事、漸く止めらるべきの由北條殿に仰せらる。これ狼藉に及ぶの旨、
  預所訴え有るが故なり。これに依ってこの趣を奏達せらるべきの旨、師中納言の許に
  申せらると。
   諸国並びに庄園の事、狼藉を制止せしめ候わんが為、下文を成し遣わし候。触れ廻
   らし候所なり。武士の中、群を抽んで不当の輩候らば、早く召し下せしむべく候な
   り。刑に処せらるべき輩の事、欝し存じ候子細は、先度次第申せしめ候いをはんぬ。
   その許否は、所詮御計に随うべく候。御意より起こらず、近習の者御勘気有るべき
   の由は、欝し申すに能わず候。その恐れ候が故なり。但し君は知ろし食し候わざる
   事たりと雖も、すでに御定と称し、宣旨を下せしめ候の條、謂われ無き所行に候か。
   この旨を以て披露せしめ給うべく候。恐々謹言。
     三月十六日           頼朝
   進上 師中納言殿

[玉葉]
  この日、摂政の詔(去る十二日宣下せらるるの氏の長者の宣旨、同じく下さる)・兵
  仗の勅を下さる。已後拝賀を所々に申す。
 

3月18日 丙申
  加賀の守俊隆と云う者有り。前駆已下の事、当時その仁幾ばくならざるに依って、去
  年秋の比より参候す。而るに豫州反逆の後、これを糺行せんが為、御家人等を発遣せ
  らるるの処、俊隆領一所尾張の国中島郡に於いて、不慮の狼藉等有りと。仍って愁い
  申すに就いて、在国の輩に准うべからざるの由沙汰有り。安堵せしむべきの旨、厳密
  に仰せ下さると。

[玉葉]
  院より光長朝臣を以て仰せられて云く、泰経・頼経等配流を免さるべきの由、関東に
  仰せ遣わさる。然るべきの由を申す(消息二通を相副えらる)。

[根来要書中]
**北條時政下知状案
  下 高野山太傳法院御領庄官住人等の所
   早く長承官符の旨に任せ、寺役の外兵士の兵粮供給の雑事並びに他所役を停止すべ
   き事
  右件の御庄々は、建立の当初より、天下一同の役と雖も、勤仕せずと云々。随ってま
  た神社・仏寺に於いては、兵士の兵粮米を停止すべきの由、鎌倉殿の御下知顕然なり。
  早く彼の官符の旨に任せ、停止せしむべきの状件の如し。
    文治二年三月十八日        平(御判)
 

3月21日 己亥
  諸国兵粮米催しの事、今に於いては停止すべきの由宣下せらると。これ神社・仏寺・
  権門・勢家凡そ人庶の愁歎に依って、所々訴えに及ぶの間、度々御沙汰を経られ、停
  止せしむべきの旨、京都に申されすでにをはんぬと。また法皇御灌頂用途の事、沙汰
  せらるべきの由、これを仰せ下さるか。仍って今日、俊兼の奉行として御領を宛てら
  るる所なり。現米千石(駿河・上総両国分)・白布千反・国絹百疋(散在の御領分)。
 

3月22日 庚子
  静女の事、子細を尋ね問わるると雖も、豫州の在所を知らざるの由申し切りをはんぬ。
  当時彼の子息を懐妊する所なり。産生の後返し遣わさるべきの由沙汰有りと。
 

3月23日 辛丑
  北條殿関東に帰るべきの由奏聞しをはんぬ。在京頻りに叡慮に叶うの間、拘留せしめ
  御うと雖も、二品の御旨を含みすでに帰国せんと欲す。仍って洛中の事、何人に示し
  付くべきやの由勅問有り。師中納言に付き御返事を奏せらると。
   鎌倉の御返事、謹んで預かり給い候いをはんぬ。早く進せしむべく候なり。時政下
   向の事、鎌倉殿より度々仰せ下され候の間、二十五日一定の由、存ぜしめ候所なり。
   天王寺御幸と云い、京中の守護と云い、武士等を差し留むべく候事、左馬の頭殿御
   在京に候。御不審有るべからず候。且つはこの両條、申し含めしめ給うべく候か。
   この趣を以て申し上げしめ給うべく候。時政恐惶謹言。
     三月二十三日         平時政(請文)
 

3月24日 壬寅
  前の摂政殿の家領、当摂録の御方に付けらるべきかの由、二品内々御存案有り。前の
  摂政家この事を聞き、状を以て愁奏せらる。仍って今日、師中納言その子細を北條殿
  に仰せ聞かさる。早く関東に申し達すべきの由御返事を申さると。また播磨の国守護
  人等の事、在廰の注文二通並びに景時代官の注文等、同人の奉行としてこれを下さる。
  施行すべきの由と。北條殿、近日関東に帰参せらるべきに依って、公家殊に惜しみ思
  し食さるるの由、師中納言勅旨を伝えらる。これ則ち公平を思い私を忘れるが故なり。
  且つはその身下向せしむと雖も、穏便の代官を差し置き、地頭等の雑事を執り沙汰せ
  しむべきの旨、度々仰せ下さるるの処、敢えてその仁無し。一旦の勅定を重んじ、非
  器の代官等を差し置き、もし不当を現すの事有らば、還ってその恐れ有るべきかの由、
  固辞再三に及ぶ。但し洛中警衛の事は、平六時定に示し付く。内々二品の仰せなりと。

[玉葉]
  北條時政(頼朝妻の父、近日の珍物か)来たり、明暁関東に下向すと。季長朝臣を以
  て條々の事を仰せ聞く。件の男また進籍し季長朝臣に與う。その次第咲うべしと。田
  舎の者尤も然るべし。物の体太だ尋常なりと。また馬二疋を進す。能保また一疋を進
  す。光長・親雅・親経等條々の事を申す。
 

3月26日 甲辰
  紀伊権の守有経を以て御使と為し、丹波の国篠村庄を松尾の延朗上人に宛て申さる。
  本これ三位中将重衡卿の所領なり。後義経の勧賞地たるなり。而るに豫州上人に寄付
  し奉ると。上人固辞すと雖も、等閑ならざるに依って、領納の後民戸を富慰せしめん
  が為、乃具を止め百姓に勧め、彌陀の宝号を唱えしめ、その数反に随い返抄を出し所
  済に用ゆと。豫州逐電以後、返上すべき由申せらるるの処、本より豫州は伝領の主な
  り。本主の為寄奉の志有るの由、仰せ遣わされをはんぬ。この上人は、多田新発満中
  八代の苗裔、対馬の太郎義信(対馬の守義親男)の男なり。累葉弓馬の家より出て、
  一實圓乗の門に入る。凡そ顕密兼備、内外相応の碩得なりと。
 

3月27日 乙巳
  北條殿すでに関東に進発せんと欲す。仍って洛中を警衛せんが為、勇士を撰定しこれ
  を差し置かる。その交名折紙に注し載せ、師中納言に付け進す所なり。
   注進京留の人々
    合
   平六兼仗時定   あつさの新大夫 の太の平三   やしはらの十郎
   くはヽらの次郎  ひせんの江三  さかを四郎   同八郎
   ないとう四郎   彌源次     ひたちほう   へいこの二郎
   ちうはち     ちうた     うへはらの九郎 たしりの太郎
   いはなの太郎   同次郎     同平三     やわたの六郎
   のいらの五郎六郎 同三郎     同五郎     しむらの平三
   とのおかの八郎  ひろさわの次郎 同彌四郎    同五郎
   同六郎      かうない    大方の十郎   平一の三郎
   いかの平三    同四郎     同五郎
       以上三十五人
     三月二十七日          平(判)

[玉葉]
  この夜、左馬の頭能保来たり、簾前に召しこれに謁す。関東の子細等を談る。
 

3月29日 丁未
  去年関東の訴えに依って罪科に処せらるる人々の事、刑を宥めらるべきの由、京都頻
  りに秘計の沙汰有り。就中、前の大蔵卿泰経殊に歎息す。専使を以て内々因幡の前司
  廣元の許に示し送る。仍って廣元芳情を廻らし、遠流を申し止めをはんぬ。且つは二
  品の厳命を取り返報を投ずと。
   人々の御事、御所より再三仰せ下され候の間、御欝の者候共叡慮に起候はざらむに
   とりては、近習の人々をば、爭か御勘当候へとは申せしめ候はむとて、御計有るべ
   きの由、去る比申せしめ御い候いをはんぬ。いかさまにも御遠行の條をば先ず止め
   られ候なり。悦びを為すこと少なからず候。御領などの事、今詳ならず候めりと、
   院に申し候て御沙汰候はん、宜しかるべく候か。子細御使に申し含め候いをはんぬ。
   この旨を以て申し上げしめ給うべく候。恐々謹言。
     三月二十九日          前の因幡の守廣元