1186年 (文治2年 丙午)
 
 

4月1日 戊申
  北條の四郎主出京の後、今日尾張の国萱津の宿に着く。而るを関東の御使この所に来
  会す。去る月二十六日の御書を帯す。仍って状を相副え、師中納言殿の許に送り進せ
  らる。
   畏みて申し上げ候。今月一日萱津の宿に到着するの処、二位殿の御文一封候。仍っ
   て進覧件の如し。
   抑も大蔵卿殿・刑部卿殿、並びに北面の人々の事は、霜刑に処すべきの族、思い知
   らざる者なり。後毒の眷なり。然れば顕に就き冥に就き、深く叡慮を恐れるに依っ
   て、その旨ばかりを申せしむなり。この條は君の御心より発せらず候事にて候へば、
   今に於いてはただ君の御意たるべきの由、仰せ下され候所なり。てえれば、且つは
   この由を以て申し上げしめ給うべく候。時政誠恐謹言。
     四月一日           平判
   進上 大夫屬殿

[玉葉]
  この日、山階寺の所司等、別当僧正の使いとして来たり。弁の別当光長に付き條々の
  事を申す。神事に依って家中に参らず。近辺に候す。申す所の事等、皆悉く頼朝卿の
  許に仰せ遣わすべき事なり。仍って解状を進すべきの由を仰す。また御寺末寺大學寺
  (嵯峨の辺に在り)、仁和寺の宮の為押領せられをはんぬ。彼の濫妨を止めらるべし
  と。件の事これより彼の宮に触れ遣わさんが為、隆遍阿闍梨を召し遣わしをはんぬ。
 

4月2日 己酉
  前の刑部卿頼経・前の大蔵卿泰経等、流刑の官符を下さる間の事、誤らざるの由、両
  人頻りに陳謝す。泰経朝臣の事、帰京を免さるべきの旨、京都に申さるべきの由と。
  また北面の輩、朝恩に誇り驕逸の思い有り。殊に御誡を加え召し仕うべきの由と。
 

4月3日 庚戌
  安楽寺の別当安能僧都平家の祈祷を致しをはんぬの由の事、今に於いてその聞こえ有
  るに依って、糾明せらるべきの旨京都に申さるべしと。宇佐大宮司公通の書状等を相
  副えらると。
 

4月4日 辛亥
  右兵衛長谷部信連は三條宮の侍なり。宮平家の讒に依って、配流の官符を蒙り御うの
  時、廷尉等御所中に乱入するの処、この信連防戦の大功有るの間、宮三井寺に遁れし
  め御いをはんぬ。而るに今奉公を抽んぜんが為参向す。仍って先日の武功に感じ、態
  と御家人として召し仕うの由、土肥の二郎實平(時に西海に在り)の許に仰せ遣わさ
  る。信連国司より安藝の国検非違所並びに庄公を給いをはんぬ。見放すべからざるの
  由と。
 

4月5日 壬子
  師中納言去る月十七日の私書状鎌倉に到来す。盛時これを披露す。その詞に云く、兼
  能の事、返す々々不便に候。別に奇怪に思し食す事候わず。傍輩沙汰するの間、仰せ
  出さるる事ばかりにて候か。召し仕われ宜しかるべく候か。当時の如きは不善見えず
  候。世事務むべし。ほぼ子細を知るの間、院中召次訴訟の如きなどにても、随分忠を
  抽んで、人の為悪まれざる事等候。また漸く見馴れて候に、聖人若荒武者なりと、使
  者に用いるも由無く候か。大事の御使おわせて候なん廃て置くに及び、返す々々不便
  に候。君の奉為またその詮無き事に候か。彼が終身の歎きと為り候うかと。
 

4月7日 甲寅
  法皇御灌頂用途等の事、京進の為解文を出さる。俊兼・善信等の奉行として、御使の
  雑色を差し進す。駿河・上総両国の御米に於いては、先日すでに出国の由言上する所
  なり。この外絹布等、陸路より相具すべしと。


4月8日 乙卯
  二品並びに御台所鶴岡宮に御参り。次いでを以て静女を廻廊に召し出さる。これ舞曲
  を施せしむべきに依ってなり。この事去る比仰せらるるの処、病痾の由を申し参らず。
  身の不肖に於いては、左右に能わずと雖も、豫州の妾として、忽ち掲焉の砌に出るの
  條、頗る恥辱の由、日来内々これを渋り申すと雖も、彼はすでに天下の名仁なり。適
  々参向し、帰洛近くに在り。その芸を見ざれば無念の由、御台所頻りに以て勧め申せ
  しめ給うの間これを召さる。偏に大菩薩の冥感に備うべきの旨仰せらると。近日ただ
  別緒の愁い有り。更に舞曲の業無きの由、座に臨み猶固辞す。然れども貴命再三に及
  ぶの間、なまじいに白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を発す。左衛門の尉祐経鼓たり。こ
  れ数代勇士の家に生まれ、楯戟の基を継ぐと雖も、一臈上日の職を歴て、自ら歌吹曲
  に携わるが故なり。この役に候すか。畠山の次郎重忠銅拍子たり。
  静先ず歌を吟じ出して云く、
    よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき
  次いで別物曲を歌うの後、また和歌を吟じて云く、
    しつやしつしつのをたまきくり返しむかしをいまになすよしもかな
  誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。二品仰せて云く、八幡
  宮の宝前に於いて芸を施すの時、尤も関東万歳を祝うべきの処、聞こし食す所を憚ら
  ず、反逆の義経を慕い、別曲を歌うこと奇怪と。御台所報じ申されて云く、君流人と
  して豆州に坐し給うの比、吾に於いて芳契有りと雖も、北條殿時宣を怖れ、潜かにこ
  れを引き籠めらる。而るに猶君に和順し、暗夜に迷い深雨を凌ぎ君の所に到る。また
  石橋の戦場に出で給うの時、独り伊豆山に残留す。君の存亡を知らず、日夜消魂す。
  その愁いを論ずれば、今の静の心の如し、豫州多年の好を忘れ恋慕せざれば、貞女の
  姿に非ず。形に外の風情を寄せ、動きに中の露膽を謝す。尤も幽玄と謂うべし。枉げ
  て賞翫し給うべしと。時に御憤りを休むと。小時御衣(卯花重)を簾外に押し出す。
  これを纏頭せらると。
 

4月13日 庚申
  北條殿京都より参着す。京畿沙汰の間の事、條々御問有り。また子細を申さる。就中、
  謀反の輩知行の所々を注し、その地を検知すべきの由言上すと雖も、これを聴されず。
  次いで前の摂政殿の家領等を仰せらる。当執柄の方に付け渡され難き由の事、潤色の
  詞を加え計り申さる。次いで播磨の国守護人国領を妨げる由の事、在廰の注文・景時
  代官の状これを下さると雖も、未だ是非を申し切らず。次いで今南・石負両庄並びに
  弓削杣兵粮の事、度々院宣を下さるるの間、早く停止すべきの由、請文を捧げ下向し
  をはんぬ。凡そ條々、去る月二十四日伝奏を蒙るの由、毎事二品の御命に違わずと。
 

4月15日 壬戌
  小中太光家京都より帰参す。左典厩御返報を献らると。去る月二十五日賢息首服。理
  髪は右中将實教朝臣、加冠は内府と。
 

4月20日 丁卯
  摂録の御家領等の事、二品京都に申せしめ給う。その趣、前の摂政殿白河殿領と称し、
  氏寺の社領等を除く外は、皆御押領と。尤も以て不便の次第に候。摂政家爭か御家領
  無く候や。平家在世の時、中摂政殿後室と号し白河殿悉く領掌し候所なり。松殿纔に
  氏寺領ばかり知行し給う。その時の事極めて無道邪政に候や。代々の家領、新摂政家
  領掌せしめ給うべく候。ただ知足院殿御附属の高陽院の御庄五十余所と。それを以て
  前の摂政家御領掌有るべく候か。最も道理に任せ仰せ下さるべく候かてえり。また今
  日行家・義経猶洛中に在り、叡岳の悪僧等同意結構するの由、その聞こえ有るの間、
  殊に申し沙汰せらるべきか。然らずんば、勇士を彼の山に差し登せ、件の悪僧等を捜
  し求むべきの由、師中納言の許に仰せ下さる。これに依って源刑部の丞為頼(元は新
  中納言知盛卿の侍。故為長親者なり)使節として上洛すと。
 

4月21日 戊辰
  遠江の守義定朝臣彼の国より参上す。日来当国湖岩室已下山寺に於いて豫州を捜し求
  むと雖も、獲ざるの由これを申さる。則ち御前に遠州を召し、三献に備えらる。この
  間頗る御雑談に及ぶ。二品仰せて云く、遠江の国何事か有らんや。義定朝臣申して云
  く、勝田の三郎成長、去る六日玄蕃の助に任ず。これ一の勝事なり。次いで狩猟を見
  んが為二俣山に向かうの処、鹿九頭一列に義定の弓手を走り通る。仍って義定並びに
  義資冠者・浅羽の三郎等駕を馳せ、悉く以てこれを射取りをはんぬ。件の皮持参せし
  むる所なり。てえれば、入興し給う。五枚は二品に献る。三枚は若公に進す。一枚は
  小山の七郎朝光に志せらる。只今御酌に候すが故なり。成長任官の事、兼日言上無き
  の旨、雅意に任すの條尤も奇怪なり。早く糺行せらるべきの由仰せらる。遠州聊か赭
  面す。思慮無く申し出る事後悔の気有るかと。
 

4月24日 辛未
  陸奥の守秀衡入道の請文参着す。貢馬・貢金等、先ず鎌倉に沙汰し進すべし。京都に
  伝進せしむべき由これに載すと。これ去る比御書を下さる。御館は奥六郡の主、予は
  東海道の惣官なり。尤も魚水の思いを成すべきなり。但し行程を隔て、通信せんと欲
  するに所無し。また貢馬・貢金の如きは国土の貢たり。予爭か管領せざらんや。当年
  より、早く予伝進すべし。且つは勅定の趣を守る所なりてえり。上所奥の御館と。
 

4月25日 壬申 天晴 [玉葉]
  今日、基親・親経等来たり條々の事を申す。義経・行家の徒党京中に在るの由風聞有
  り。但し信用を為せざるものか。
 

4月30日 丁丑
  当時京中嗷々更に相鎮まらず。御消息を内府已下議奏の公卿等に献ぜらる。これ競戦
  の誠を抽んで、善政を興行せしめ給うべき由なり。その状に云く、
   天下の政道は、群卿の議奏に依って澄清せらるべきの由、殊に計り言上せしむ所な
   り。具に君臣の議を存じ給わば、各々私無く諂わず、賢慮を廻らしめ給い申し沙汰
   せしめ給うべきなり。頼朝適々武器の家に稟け、軍旅の功を運すと雖も、久しく遠
   国に住し、未だ公務の子細を知らず候。縦えまた子細を知ると雖も、全くその仁に
   非ず候。旁々申し沙汰に能わず候なり。但し人の愁いを散ぜんが為、一旦執り申せ
   しむる事は、頼朝の申状たりと雖も、理不尽の裁許有るべからず候。諸事正道に行
   わるべきの由相存じ候所なり。兼ねてまた縦え勅宣・院宣を下さるる事候と雖も、
   朝の為世の為、違乱の端に及ぶべきの事は、再三覆奏せしめ給うべく候なり。恐れ
   て申せしめ給わずば、これ忠臣の礼に非ず候か。仍って御用意の為、恐れながら上
   啓件の如し。
     四月三十日           頼朝(判)
   進上 左大弁宰相殿
  礼紙状に云く、
   追啓
   此の如きの次第、摂政家より触れ申せしめ給うか。朝の要枢なり。必ず忠節を竭し
   給うべく候なり。