1186年 (文治2年 丙午)
 
 

6月1日 丁未
  今年国力凋弊し、人民殆ど東作の業に泥む。二品憐愍せしめ給うの余り、三浦の介・
  中村庄司等に仰せ、相模国中の宗たる百姓等にショウ牙(人別一斗と)を給う。且つ
  はこれ怪異に依って、攘災の上計なりと。夜に入り、豊後の守季光盃酒を献ず。昨日
  武蔵の国より参上すと。

[玉葉]
  或る人云く、九郎鞍馬に在ると。先日関東に遣わす所の書札の返報到来す。子細使者
  を以て追って申すべしと。去る月二十日の状なり。
 

6月2日 戊申
  刑部卿典侍領の事、二品御下文を遣わさると。
   下す 美濃の国大野郡内石太郷の住人
    早く美濃の籐次安平の濫妨を停止し、刑部卿典侍の御沙汰たるべき事
   右件の所、安平無道を致し、押領せしむの由その聞こえ有り。事実ならば、尤も以
   て不当なり。自今以後停止せしむべきの状件の如し。以て下す。
     文治二年六月日

[玉葉]
  申の刻、蔵人弁親経人を以て伝え申して云く、九郎義行鞍馬に在るの由、能保朝臣申
  す所なり。彼の山の寺僧圓豪、西塔院主法印實詮の許(一昨日の事と)に告げ送る。
  實詮能保に告ぐ。能保院に申す。而るに左右無く武士を遣わさば、一寺の摩滅なり。
  彼の寺の別当(入道関白息の禅師)に仰せ搦め進せしむべきか。
 

6月4日 庚戌 雨下る [玉葉]
  能保朝臣申して云く、鞍馬寺別当告げに依って、官兵入るべきの由、本寺に於いて義
  行跡を留むべからず。この上の事、今に於いては宣旨を諸国に下さるべし。兼ねてま
  た土左君と云う僧(彼の寺の住侶)義行の知音なり。本寺に付き彼の僧を召し出さる
  べしと。
 

6月6日 壬子 天晴 [玉葉]
  未の刻定経来たり。義行を討つべきの宣旨の事、院に申すの処、早く宣下すべきの由
  仰せ有りと。その宣旨の状これを見せしむ。
    文治二年六月六日       宣旨
   謀反の首前の備前の守源行家、前の伊豫の守同義行等、敗奔の後、帰降の思いを成
   さず。殆どギョウ語の聞こえ有り。広く都鄙に仰せ尋ね捜すの間、行家すでに誅に
   伏す。義行独り逃げ脱る。戮竇を歓ぶと雖も、猶檎充せんと欲す。重ねて五畿七道
   の国の国司等に仰す。慥に義行が身を搦め進せしめよ。もし殊なる功有らば、賞は
   不次に以てす。
                    蔵人の頭左中弁藤原光長(奉る)
  人伝えて云く、義行を搦めんが為武士東西に馳走すと。能保に尋ね遣わすの処、申し
  て云く、大内惟能の在所を聞き得るの由申すと。然れども未だ実説を知らず。伝聞、
  先ず母並びに妹等を搦め取り、在所を問うの処、石蔵に在るの由を称す。武士を遣わ
  すの処、義行逐電しをはんぬ。房主僧を捕り得をはんぬと。その後の事未だ聞かず。
  入道関白申されて云く、昨日仰せを蒙る鞍馬寺住僧の事すでに召し取りをはんぬ。何
  処に遣わすべきやと。能保の許に遣わすべきの由仰せをはんぬ。
 

6月7日 癸丑
  神祇権の大副公宣書状を献る。申し送りて云く、豫州去る比伊勢の国に経廻す。神宮
  に参詣し、当時また南都の辺に在るの由風聞す。而るに祭主能隆朝臣内通の事有り。
  祈祷を致すかと。
 

6月9日 乙卯
  去る四月の比、政道の事殊に興行を致すべきの趣、議卿に付き奏聞せしめ給いをはん
  ぬ。勅答の條々、職事の目録を執り、師中納言これを進せらる。今日到来する所なり。
    條々
  一、諸社諸寺修造の事
   神社に於いては、大概国に付けられをはんぬ。諸寺尤も大切なり。東寺以下、殆ど
   その跡無きが如し。此の如く申せしむ旨然るべき事なり。早く計り仰すべきの由、
   摂政に申されをはんぬ。
  一、記録所の事
   先日計り申せらるるの時、摂政に仰せられをはんぬ。諸方の訴訟、尤も決断せらる
   べきか。重ねて急ぎ沙汰有るべきの由申されをはんぬ。
  一、光雅朝臣の事
   聞こし食しをはんぬ。
  一、所々庄々子細の事
   追って左右を仰せらるべし。
  一、播磨の国武士押領の所々の事
   委細成敗の條、返す々々感じ思し食す所なり。人々の愁いすでに散ずるか。但しウ
   セキ保・桑原・五箇庄・上蝙・東這田庄等、猶去文を召し進せしめ給う。或いは国
   領の眼を以てなり。或いは去り難く思し食す。凡そ景時の申状、一旦その謂われ有
   るに似たりと雖も、国中に張行するの時、一日の命を免がれんが為寄付の所有り。
   或いは自由に押領の地有り。これを以て相伝と称すか。安田庄、領家若狭の局より、
   預かり給うと称すと雖も、全く然るべからず。これを以て察するに、彼の男の一類
   偏に国務を蔑如すべし。早く誡め仰せらるべきなり。この国一国に於いては、然る
   べくんば去り進すべき由、今仰せらるるなり。度々仰せに随うべきの由言上しをは
   んぬ。仍って能保朝臣に仰せ仰せ遣わされをはんぬ。一旦逃れ去ると雖も、猶傍庄
   に隠居し、当国の輩を催し、隙を伺いまた濫妨を致す。能々誡め仰せらるべきなり。
   桑原の事、殊に仰せらるるの旨有り候。
  一、備前の国の事
   下文等施行の後、左右を仰せらるべし。但し一所も武士事を懸けるの所、一切国衙
   の下知に叶わず。彼の国を以て、一向に法勝寺御塔用途に宛てられをはんぬ。全く
   他事に非ず。明年は伊勢太神宮山口祭なり。件の祭行わるるの後、仏寺の沙汰に及
   ぶべからず。仍って早速思し食し、能々計り下知せらるべきなり。
  一、美濃の国の事
   在廰の申状等、御沙汰先にをはんぬ。子細追って仰せらるべく候なり。
  一、所々下文の事
   各々給いをはんぬ。但し為保猶歎き申す旨有り。阿波の国久千田庄は、父為清法師
   相伝の領なり。何ぞ他の地頭有らんや。子細折紙に見をはんぬ。山田庄の事、猶申
   す旨有りと雖も、追って仰せらるべきなり。業忠の事、返す々々驚き聞こし食すて
   えり。何様に下知せられんや。その辺に不快に思たらん物をば、爭か勘当せられざ
   らんや。證跡たに候わば、早く申し上げらるべし。もしまた高橋庄押領の武士、口
   に任せ申すをば人の為不便。子細を注し申せしむべきなり。
  一、高連島、相尋ね左右を仰せらるべし
   更に仰せ下さるる事等
  一、春近並びに郡戸庄年貢の事
   早く懈怠無く進済すべきの由、下知せらるべきなり。先々彼の年貢を以て、御服に
   用いらる。早々沙汰有るべし。
  一、富士領の事
   件の年貢早く進済すべし。御領たるべきの由先々これを仰せらる。定めて存知るか。
  以前の條々、この趣を以て委しく仰せ遣わさるべきなり。細々の成敗、猶感じ思し食
  し候なり。人の愁いを休めるは、世上安堵の計なり。謀反の輩尚諸国に帰住するの條
  申さるる旨尤も然るべし。早く停止せらるべきなり。
 

6月10日 丙辰 晩頭甚雨雷鳴
  今日、丹後内侍甘縄の家に於いて病脳す。二品その躰を訪わしめ給わんが為、潛かに
  彼の所に渡御す。朝光・胤頼の外御共に候すの者無しと。
 

6月11日 丁巳
  親光朝臣書状を以て申し送りて云く、去る月二十八日対馬の守に還任しをはんぬ。こ
  れ則ち御挙状に依って、遂に朝恩に加う所なりと。また熊野別当上総の国畔蒜庄を知
  行するなり。而るに地頭職は、二品彼の人に避け付けしめ給いをはんぬ。その地下に
  於いては、上総の介・和田の太郎義盛引き募るの処、各々本所使の下知に背き、年貢
  等を弁ぜざるの間、訴え申すの上、すでに京都に言上せしめんと欲するの旨、二品の
  御聴に達す。殊に聞こし食し驚き、今日主計の允行政の奉行として、一事以上、使の
  下知に随い沙汰せらるべきの趣、件の両人に触れ仰せらると。
 

6月12日 戊午 雨下る [玉葉]
  光長朝臣云く、義行の在所聞き得るの由、旁々よりその告げ有り。北條時政代官時貞
  (平六兼仗と称すと)同じくこれを聞き、竊に搦め遣わさんと欲すと。大和の国宇多
  郡の辺に在ると。
 

6月13日 己未
  当番雑色宗廉京都より参着す。去る六日、一條河崎観音堂の辺に於いて、與州の母並
  びに妹等を尋ね出し生虜る。関東に召し進すべきかの由と。

[玉葉]
  今日時貞丸光長の許に来たり、義行の事重ねて申す事(在所一定宇多郡と)有り。
 

6月14日 庚申
  丹後内侍の違例平癒す。日来病脳の間、二品御立願に及ぶの処、今日聊か御安堵と。
 

6月15日 辛酉
  安楽寺別当安能僧都、平家に同意するの聞こえ有るに依って、改替せられんと欲す。
  二品憤り申せしめ給う所なり。全珍これを望み申す。京都に於いて当時その沙汰有り。
  而るに安能潛かに使を進し、籐判官代邦通に属き子細を陳じ申す。寺務の間、興隆の
  事並びに当寺務の事、権門に付き濫妨すべからざるの由、證文有りと称し、永久の起
  請・保延の宣旨状等を進す。今日関東に参着するなり。
    安能寺務の後、始めて置く仏神事
   一、建立瓦葺き二階・一間四面の経蔵一宇
   一、毎日調味御供の事
    古来この事無し。
   一、建立六間四面の御供所屋一宇(次々屋並びに六宇)
   一、宝前に於いて長日尊勝護摩を勤修の事
   一、同じく寳前に於いて、十口の僧侶を屈請し、毎日一万巻の観音経転読の事、
     同じく像一万体摺供養の事
    毎日一千躰宛、毎月十八日を以てこれを供養す。
   一、同じく宝前に於いて、持経者を屈請し、毎日法華経一部を転読せしむ事
   一、同じく宝前に於いて、寺僧三口を以て、長日大般若経を転読せしむ事
    以上三箇事は上皇の御願を祈り奉る。
   一、同じく宝前に於いて、毎月二十五日天神の御月忌に、碩学八口を屈し、八講を
     勤修の事
    件の御月忌、元は阿弥陀経ばかりを転読するなり。
   一、毎月十口の僧侶を屈し、一字三礼し、如法経を書写せしめ、銅筒に納め宝殿に
     籠め奉る事
   一、寺内諸社御燈奉供の事
   一、北野宮寺社等夜燈を供す事
    已上、拝任の後、新たに信心を以て勤行する所なり。住古より始め置かるる恒例
    ・臨時の大小仏神事・法会祭礼・連月連日の勤め・日夜の燈油・仏聖供・神供・
    人供・衣食供・料田、一々退転無し。注進するに及ばず。この三箇年、武士等の
    為打ち止められテ一々断絶す。寺僧・神人・上下数百人の輩、悲涙を拭い山野に
    迷うと。
   安楽寺別当濫妨人儀絶状
    安楽寺別当の濫望、氏挙に背き大衆を起こすに依って儀絶たるの事
   右、父命に背くは子道に非ず。氏挙に背くは氏人に非ず。然らば在殷(在良子)子
   たるべからざるなり。厳実(是綱子)氏人たるべからず。天神の御起請限り有り。
   氏挙の次第に任せ補任する所なり。今氏挙に背き大衆を起こすの輩、公家禁制すべ
   し。氏人儀絶すべきの状件の如し。
     永久六年正月十二日      氏の長者式部大輔菅原在良

   右弁官下す 太宰府
    起請文に任せ氏人の進止に背き、事を権勢に仮り安楽寺別当に濫望する輩を停止
    すべき事
   右、彼の寺在京の氏人等、去る二月十九日の解状を得て称く、去る大治年中、北野
   聖廟に進納する起請文に称く、氏僧と称し氏人に背き、貴所の威を以て安楽寺別当
   職を濫望する事を停止すべし。右件の寺は、天満天神御終焉の地なり。桑梓松柏、
   尚以て崇むべし。氏挙寺官誰か以て相妨げん。別当職に至りては、氏僧中その器量
   を推しその性を撰び、六年を以て一任と為し、次第に挙し補す。その来尚し。而る
   に世澆末に及び、人多く貪婪す。在々の禅侶面々に濫望す。貪りて望むは、性情悪
   逆・行能共闕の輩なり。卑を以て自ら衒うが故なり。直にて侍するは、法器相備・
   年臈老大の人なり。寺次不営の故のみ。彼と謂い此と謂い、旧の如く前の如く、偏
   に氏の挙奏に随わば、宜しく神の素意に叶うべきなり。何ぞ啻一旦の名利を貪り、
   忝なくも累祖の廟謀を黷すべきや。所謂師子中の虫師子を食むが如きか。就中、去
   る大治年中僧定祐恣に謀計を巧み、横しまに濫望を致す。権貴の命に背き難く、な
   まじいに薦挙の状、固辞に能わず。偏に廟栄を仰ぐ処、二離未だ墜ちず。吾が氏絶
   えること無し。定祐忽ち以て入滅す。信永猶寺務に在り。彼の時に当たるなり。皆
   事に触れ境に触れ、凶多く怪多し。これ則ち縡意表に出ると雖も、せめて独り身上
   に蒙るか。亭屋忽ち灰燼と為す。身体久しく病痾に沈む。倩々この事を思うに、偏
   に彼の咎に感ず。伏して願わば、霊廟明らかに冥察を垂れん。自今以後、氏人の許
   否に蔑爾有らば、暗に豪貴の権威を以て涯分を測らず。もし濫望を致すの輩は、高
   く霊威を振るい、立ちどころに冥罰を與へん。内には則ち天神必ず呵責の誡めを加
   え、外にはまた氏人永く親族の義を断たん。然からば則ち大業を遂げるの人、宜し
   くこの状を守るべし。濫望を企てるの輩、その挙を致す莫れ。縦え末族に受くと雖
   も、縦え崇班に登るとも、自ら儒者に非ず、家事を知るべからず。明誡炳焉、今に
   朽ちず。請う一言の呈信を以て、将に万代の炳誡と為さん。仍って起請件の如して
   えり。天裁を望み請う。件の起請文に任せ、早く宣旨を下され、将に敬神の政令を
   仰ぎ、非拠の濫望を断たしめんてえり。権中納言藤原朝臣成通宣べ、勅を奉る。請
   いに依るてえり。府宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行え。
     保延七年六月二十日      大史小槻宿祢(在判)
   右中弁源朝臣(在判)
 

6月16日 壬戌
  二品並びに御台所比企の尼の家に渡御す。この所樹陰納涼の地たり。その上花園有興
  の由申せしむるに依ってなり。御遊宴終日と。
 

6月17日 癸亥
  梶原刑部の丞朝景京都より使者を進し、内大臣家の訴事を執り申す。これ家領等、武
  士の為押妨せらるる事なり。所謂越前の国は北條殿眼代越後の介高成国務を妨ぐ。般
  若野庄は籐内朝宗、瀬高庄は籐内遠景、大島庄は土肥の次郎實平、三上庄は佐々木の
  三郎秀能、各々或いは三年、或いは一両年、所務を煩わし乃具を抑えると。二品殊に
  驚かしめ給う。速やかに妨げを止むべきの由、面々に仰せ含めらるべきの由と。
 

6月18日 甲子
  水尾谷の籐七使節として上洛す。これ去る二日、入道前の池大納言頼盛薨卒の間、彼
  の旧跡を訪わしめんが為なりと。

[玉葉]
  多武峯の悪僧龍蹄房を召し出すの間、能保の許に仰せ遣わす処、左右を申さずと。仍
  って相尋ねるべきの由仰せをはんぬ。件の法師義行を隠し置くの由指し申す者有り。
  仍って日来尋ねらるるの処、この両三日の間召し出す所なり。
 

6月21日 丁卯
  行家・義経の隠居所を捜し尋ね求めんが為、畿内近国に於いて守護・地頭を補せらる
  るの処、その輩事を兵粮に寄せ、譴責累日す。万民これが為に愁訴を含み、諸国この
  事に依って凋弊せしむと。仍って義経の左右を待たるべきと雖も、人の愁い有らんか。
  諸国守護の武士並びに地頭等、早く停止すべし。但し近国没官の跡に於いては然るべ
  からざるの由、二品京都に申せらる。師中納言を以て奏聞すべきの旨、御書を廷尉公
  朝帰洛の便宣に付けらる。また因幡の前司廣元使節として上洛する所なり。天下澄清
  の為院宣を下さる。
   非道を糺断し、また武士の濫行を停止すべき国々の事
    山城国 大和国 和泉国 河内国 摂津国 伊賀国 伊勢国 尾張国 近江国
    美濃国 飛騨国 丹波国 丹後国 但馬国 因幡国 伯耆国 出雲国 岩見国
    播磨国 美作国 備前国 備後国 備中国 安藝国 周防国 長門国 紀伊国
    若狭国 越前国 加賀国 能登国 越中国 淡路国 伊豫国 讃岐国 阿波国
    土佐国
   右件の三十七箇の国々、院宣を下さる。武士の濫行、方々の僻事を糺し定め、非道
   を正理に直さるべきなり。但し鎮西九箇国は、師中納言殿の御沙汰なり。然れば件
   の御進止の為、濫行を鎮められ僻事を直さるべきなり。また伊勢の国に於いては、
   住人梟悪の心を挟み、すでに謀反を発しをはんぬ。而るに件の余党、尚以て逆心不
   直に候なり。仍ってその輩を警衛せんが為、その替わりの地頭を補せしめ候なり。
   抑もまた国々守護の武士、神社仏寺以下諸人領、頼朝の下文を帯せず、由緒無く自
   由に任せ押領するの由、尤も驚き思い給い候所なり。今に於いては、院宣を彼の国
   々に下され、武士の濫行・方々の僻事を停止せられ、天下を澄清せらるべく候なり。
   凡そ伊勢の国に限らず、謀叛人居住の国々、凶徒の所帯跡には、地頭を補せしめ候
   所なり。然からば庄園は本家・領家の所役、国衙は国役の雑事、先例に任せ勤仕せ
   しむべきの由、下知せしめ候所なり。各々この状を悉くせ。公事を先とし、その職
   を執行せしめ候はんは、何事かこれに如かず候や。もしその中、本家の事を用いず、
   国衙の役を勤めず、偏に以て不当を致せしめ候はん輩をば、仰せ下され候に随い、
   その誡めを仰せ加えしむべく候なり。就中、武士等の中には、頼朝も給わず候へば、
   知り及ばず候の所を、或いは人の寄付と号し、或いは由緒無きの事を以て、押領せ
   しむ所々、その数多く候の由承り候。尤も院宣を下され、先ず此の如きの僻事を直
   せらるべく候なり。また縦え謀反人の所帯の為、地頭を補せしむるの條、由緒有り
   と雖も、停止すべきの由仰せ下され候所々に於いては、仰せに随い停止すべく候な
   り。院宣爭か違背すべく候や。この趣を以て奏達せしめ給うべきの由、師中納言殿
   に申せしむべきなり。
     文治二年六月二十一日     御判
 

6月22日 戊辰
  左馬の頭の飛脚京都より到来す。豫州仁和寺石倉の辺に隠居するの由その告げ有るに
  依って、刑部の丞朝景・兵衛の尉基清已下勇士を遣わすと雖も、その実無し。而るに
  当時叡山に在り。悪僧等扶持するの由風聞すと。

[玉葉]
  時貞勧賞の事、頼朝卿の申状を給いをはんぬ。奏すべきの由を仰す。
 

6月23日 己巳 雷雨 [玉葉]
  時貞の事尤も然るべし。且つは尋ね問い申せしむべしと。仍って能保朝臣の許に遣わ
  し尋ねをはんぬ。
 

6月25日 辛未
  歓喜光院領播磨矢野別府の事、海老名の四郎能季地頭と称し、寺家の所堪に随わざる
  るの由、院宣を下さるるに依って、向後非分の押妨を止むべきの旨、二品下知を加え
  しめ給うと。
 

6月28日 甲戌
  左馬の頭能保の飛脚参着す。去る十六日、平六兼仗時定、大和の国宇多郡に於いて、
  伊豆右衛門の尉源有綱(義経聟)と合戦す。然れども有綱敗北し、深山に入り自殺す。
  郎従三人傷死しをはんぬ。残党五人を搦め取り、右金吾の首を相具し、同二十日京師
  に伝うと。これ伊豆の守仲綱が男なり。

[平家物語]
  平家重代相伝の家人(主馬八郎左衛門盛久)、はやく斬刑に従うべしとて、土屋三郎
  宗遠に仰て、首を刎らるべしとて、由井が浜に引すへて、盛久西に向て念仏十遍計申
  けるが、いかが思ひけん。みなみに向て、又念仏二三十遍計申けるを、宗遠太刀をぬ
  き頸をうつ。その太刀中より打をりぬ。又打太刀も、目ぬきよりをれにけり。(後略)
 

6月29日 乙亥
  伊勢の国林崎御厨の事、平家與党人家資の跡として、没官領の注文に加うと雖も、太
  神宮これを訴え申すに就いて、地頭有るべからざるの旨院宣を下さるるの間、今日沙
  汰有り。宇佐美の平次實正が知行を停止する所なり。また成勝寺興行の事、京都に申
  せらる。凡そ神社仏寺の事、興行最中なり。
   下す 伊勢の国林崎御厨の住人
    早く宇佐美の平次實正が地頭職を停止し、神官の課役に勤仕せしむべき事
   右件の御厨は、謀反人家資が知行の所なり。仍って前蹤に任せ沙汰を致せしめんが
   為、彼の實正を以て地頭職に補任しをはんぬ。然れども神官の訴え有るに依って、
   實正の沙汰を停止せしむ所なり。但し今その職を改易せしむと雖も、神宮より本人
   を還補せしめば、甚だ以て不便の沙汰たるべきなり。早く神宮の沙汰として、有限
   の御上分已下雑事の沙汰を致すべきの状件の如し。以て下す。
     文治二年六月二十九日

   成勝寺修造の事、急ぎ遂げらるべく候なり。もし遅怠に及び候わば、いよいよ以て
   破損し大営候わんか。就中、当寺を修復せられば、定めて天下静謐の御祈りたらん
   か。然れば国ニも宛て課せられ候て、急ぎ御沙汰候べきなり。この旨を以て申し沙
   汰せしめ給うべく候。頼朝恐々謹言。
     六月二十九日         頼朝(裏御判)
   進上 師中納言殿