1186年 (文治2年 丙午)
 
 

7月1日 丙子
  平六兼仗時定を以て左右兵衛の尉に任ぜらるべきの由、京都に申さる。これ度々の勲
  功有るに依ってなり。また伊勢の国林崎御厨、地頭職を止められをはんぬるの由の事、
  今日左中弁光長の許に仰せ遣わさる。奏聞の為なり。
   太神宮御領林崎御厨の事、武士の知行を停止せしむべきの旨下文を成す。謹んで以
   てこれを進上し候。恐々謹言。
     七月二日           御判
   謹上 頭左中弁殿

7月3日 戊寅 晴 [玉葉]
  去る比検非違使公朝(院近臣、下北面に候す)、御使として関東に下向す。この両三
  日に帰参す。頼朝卿の申状を奏して云く、万事君の御最たるべきの由と。その次いで
  に摂録の事等有り。その状に云く、この事全く彼の懇望に非ず。また引級の思い有る
  に非ず。身の為その益無し。ただ衆口の寄る所、その仁彼の人(余を指すなり)に在
  り。前の摂政一切万機を知られざるの由、世上謳歌す。仍って偏に天下の事及び君の
  御事を思うが故、この事を申し出る所なり。随ってまた天許有り。而るに今仰せ下さ
  るる旨(その趣知らざるなり)、左右に能わず。是非ただ叡念に在りと。また私に公
  朝に示して云く、一所の家領数有りと。(略)然れば高陽院方を以て前の摂政領と為
  し、京極殿方を以て当時の殿下領と為す。尤も宜しかるべきか如何と。この状を以て
  同じく叡聞に達すと。終日評定。明暁飛脚を遣わさるべし。その状に於いては人知ら
  ず。而るに大略所領の事、一向前の長者に付くべきの由かと。
 

7月7日 壬午
  諸国地頭職の事、平家没官領並びに梟徒隠住の所処の外、権門家領等に於いては、停
  止せしむべきの由京都に申さるる所なり。

[高野山文書]
**後白河法皇院宣案
  備後国大田庄は高野に寄付し、不断両界供養法用途料に宛られをはんぬ。これ鄭重な
  る御願に依ってなり。而るに實平押領するの由、聞こし食し及ぶに依って、尋ね仰せ
  らるるの処、申状此の如し。件の庄は本より没官の注文に入らず。濫望致せしむの状、
  唯に綸旨を忽緒するに非ず。すでにこれ罪業の因縁なり。早く彼の妨げを停止すべき
  の由、下知を加え給うべしてえり。院宣に依って執達件の如し。
    七月七日            太宰権の師(経房在判)
  謹上 源二位殿
  遂啓
   官符並びに院宣・廰の御下文案・實平請文・遠平折紙等、遣わせられ候所なり。
 

7月8日 癸未
  院の北面左衛門の尉能盛入道並びに院の廰官定康の所知武士濫望の事、早く停止すべ
  きの由仰せ下さるるの旨、左馬の頭の消息到来す。
 

7月10日 [富田仙助氏所蔵文書]
**源頼朝書状
  いつのとうないとをかけハ、ほうこうたにことなるあひた、とをかけ十たいよりとも
  十たい、いかなるふしきありといふとも、とかにおこなハるへからす、これハふひん
  ニおほしめすゆえ也
    ふんち二年七月十日
 

7月11日 丙戌
  故前の備前の守行家(去る五月十三日誅戮)の没後を訪わる。明日仏事を修せらるべ
  きに依って、今夕俊兼の沙汰として、施物僧食等を行慈法橋の許に送り遣わさると。
 

7月12日 丁亥 午上天晴、未刻以後天陰、雨時々降る [玉葉]
  この日、前の因幡の守廣元、頼朝卿の使いとして上洛す。経房卿の亭に向かい條々の
  事を示すと。
 

7月13日 戊子 晴 [玉葉]
  基親朝臣来たり下向の間の雑事を申す。早旦経房卿関東の書札を送り見る。條々申す
  旨有り。皆これ天下の至要なり。随喜すべし。
 

7月14日 己丑 晴 [玉葉]
  この日光長朝臣来たり條々の事を申す。今朝廣元来臨し、條々の事等を示すと。その
  内に去る比公朝関東に来たり、余の為様々の悪言等を吐く。偏に射山を蔑爾し己が威
  を振るい、院の御領を停廃し、院の近習者を解官する等、凡そ左右に能わず。茲に因
  って法皇頭を剃らず、手足の爪を切らず、寝食通わず、持仏堂の中に閉じ籠もり、修
  行する所の業を以て悪道に廻向すべきの由、肝胆を催し悪心を任じ、偏に他事を忘れ
  御念願有り。積もる所尊下(頼朝を指すなり)の為太だ要無きの由、弁説を構えこれ
  を称す。頼朝頗る驚奇すと雖も、示す所法に過ぐ。仍って還ってまた信用せざるの気
  色有り。仍ってこの真偽を糺さんが為、俄に廣元を差し上す所なりと。
 

7月15日 庚寅
  盂蘭盆を迎え、勝長寿院に於いて万燈会を行わる。仍って二品並びに御台所渡御す。
  これ二親以下尊霊得脱の奉為なりと。

[玉葉]
  夜に入り経房卿経泰を以て告示の事有り。関東より家領分けらるべきの子細を申す。
  この事に依って法皇逆鱗の趣なり。
 

7月18日 癸巳
  出雲の国園山庄の前司師兼は任憲大徳の親昵たり。この間朝夕祇候す。日来の功無き
  と雖も、殊に御芳志を蒙る。而るに出雲の国園山庄下司職を望み申すの間、件の本職
  に還補せらるべきの由、今日御消息を師兼に賜う。都督に付すべきの由と。
 

7月19日 甲午
  駿河の国富士領上政所福地社に新田を奉寄す。江間の四郎これを沙汰す。
 

*[平家物語]
  盛久帰洛して、先清水寺に参詣して、本尊を拝し奉て、御利生の忝につけて、泪かき
  あへず。(中略)去六月二十八日午の刻に、御辺の安置し奉り給たりし本尊、俄に倒
  れおはしまして御手二つに折れぬ。一寺奇徳の思ひをなしつるに、さては遼遠の道を
  分て、信敬の人を資給つる御志、誠に上代にも越たり。
 

7月22日 [重要文化財指定文書]
**源頼朝御教書
   私ニ沙汰せしめたらハ、早く沙汰し直せしむべきなり。院宣にて沙汰したらハ、尤
   も下知申すべく候、国平の過怠ニハあらす、
  文覺房知り給う院より給わるる所の所知を、国平が沙汰として使者を遣わし、或いは
  武士押妨の由、高雄より申せしむるなり。もし私の結構たらば、不当の所行なり。院
  宣を奉り下知せしむに於いては、左右に能わざる事なり。凡ては、久経・国平一塵院
  宣を奉らざるの外、輙く自由の下知を致すべからざるの由、殊に仰せ含めをはんぬ。
  然らば、實平・景時武士の輩、僻事に於いては、院宣に任せ成敗せしむべきの由、仰
  せ含めしめをはんぬ。定めて自由の沙汰無きかの旨、思し食すの処、今この訴え有り。
  何様の事や。早く沙汰し直せしむべきなり。仍って執達件の如し。
    七月二十二日          廣元(奉る)
  近藤七殿
 

7月24日 己亥
  仙洞の御願として、平家の怨霊を宥められんが為、高野山に於いて大塔を建立せらる。
  去る五月一日より、厳密の御仏事を行わる。而るを供料所備後の国大田庄を以て、御
  手印を加え、今日奉寄せらるる所なり。但し土肥の彌太郎妨げを成すの由、その訴え
  出来するに依って、殊に仰せ下さるるの間、早く庄家を退出すべきの旨、今日二品下
  知せしめ給うと。

[玉葉]
  密々、廣元を招きこれに謁す。ほぼ鎌倉の子細を陳ぶ。また思う所を仰せをはんぬ。
 

7月25日 庚子
  大夫の尉(伊勢の守)平盛国入道去年召し下され、岡崎の平四郎義實(三浦の介義明
  舎弟)に預けらるるの処、日夜無言、常に法華経に向かう。而るにこの間断食、今日
  遂に以て帰泉す。二品これを聞こしめ給い、心中尤も恥ずべきの由仰せらると。これ
  下総の守季衡七男、平家の氏族なり。去る承安二年十月十九日出家を遂ぐ。今年七十
  四と。

[玉葉]
  能保示し送りて云く、九郎義行の郎従、伊勢の三郎丸梟首しをはんぬと。
 

7月27日 壬寅
  因幡の前司廣元、去る十九日没官の京地目六を注進す。今日二品御覧を経る所なり。
    注進
     没官の家地成敗の事
   左馬の頭三箇所内
    信兼家地  一所 楊梅
    友實家地  一所 仁和寺
    平家領   一所 正親町重衡卿領
    烏丸御局  一所 左女牛南・東洞院西
    親能    一所 信兼一家地なり。楊梅南・朱雀西
    時政    一所 綾小路北・河原東、景高領
    實平    一所 楊梅、信兼領
    實基    一所
    近衛局   一所 二条南・室町東、経盛卿領
    南無阿房  一所 堂敷地、高倉東・八條北、故平内尉領
      以上十箇所         在判(廣元)
 

7月28日 癸卯
  師中納言の奉書到来す。新日吉領武蔵の国河肥庄の地頭対捍する去々年乃具の事、並
  びに同領長門の国向津奥庄武士狼藉の事、庄家の解状を取りこれを下さる。早く尋ね
  成敗せしめ給うべきの由、これを載せらる。去る六月一日の御教書なり。向津奥の事
  は、相尋ぬべきの趣、当座に於いて直に下河邊庄司行平に仰せ含めらるる所なり。河
  肥の事は請所なり。但し領主幼少の間、請料の如き事、殊に不法の事有るか。別の奉
  行人を差し、厳密の弁えを致せしむべきの旨、御書を武蔵の守の許に遣わさると。俊
  兼奉行たりと。
 

7月30日 乙巳 晴 [玉葉]
  亥の刻、法印慶俊律師を以て、使いとして示されて云く、今朝能保朝臣彼の法印の許
  に参り、義行山の悪僧の許に在るの由風聞有り。その間の事能く沙汰を致さるべしと。
  廣元昨日下向しをはんぬと。法皇数十枚の御書、遅々の間懈怠すと。