1186年 (文治2年 丙午)
 
 

8月3日 丁丑
  去る月二十日の比、豫州に同意する悪僧仲教及び承意の母女を生虜るの由、台嶺言上
  するの間、左典厩に触れらると。これに就いて、猶義行の在所を尋ねらるべきの旨仰
  せ遣わさると。
 

8月4日 戊寅
  比企の籐内使節として上洛す。これ上皇御熊野詣での御物等を進上するに依ってなり。
  日来諸庄園に宛て召さると。
 

8月5日 己卯
  師中納言の奉書に就いて、御請文を進せらる。これ新日吉領武蔵の国河越庄年貢の事、
  並びに長門の国向津奥庄狼藉の事等なり。平五盛時筆を染むと。
   六月一日の御教書、七月二十八日到来す。謹んで以て拝見せしめ候いをはんぬ。新
   日吉社御領武蔵の国河肥庄の事、本より請所として、御年貢を進せしめ候の所なり。
   而るに去年領家逝去せしむの由承り候に依って、年貢を進すべきの所を知らず候。
   仍って領家を相待たしめ候の間、彼の年貢自然罷り過ぎ候いをはんぬ。地頭恣に抑
   留するの儀に非ず候か。而るに今前の領家の孫、禅師君を以て領家と為すべく候わ
   ば、早くその旨を存知しめ、年貢を沙汰し進せしむべく候の由、地頭に下知せしむ
   べく候なり。且つは社役を先として、今年より懈怠無く沙汰を致せしむべきの由、
   下知せしめべく候。同じく御領長門の国向津奥庄の地頭は、謀叛人豊西郡司弘元の
   所帯に候。仍って景国を以て地頭に補せしめ候の処、種々の悪行を致し候の條、事
   実に候わば、左右を申すに能わず候。早く参洛を企てるの上、且つは子細を陳じ申
   せしめ、且つは天裁を仰ぐべし。兼ねて濫行を停止し、社家使の進止に随うべきの
   由、下知せしめ候う所なり。件の状一通、謹んで以てこれを進上し候。この旨を以
   て便宜の時洩れ達せしめ給うべく候。頼朝恐惶謹言。
     八月五日           頼朝(裏御判)
 

8月6日 庚辰
  草野大夫永平所望の事、挙し申せしめ給うの処、勅答有り。師中納言(経房卿)の奉
  書到来す。
   平家朝威に背き零落するの時、鎮西の輩大略相従うと雖も、永平彼の凶賊に與せず。
   遂に忠功を致すの由天廰に及ぶ。仍って筑後の国在国司・押領使の両職、相違有る
   べからざるの由、天気に依って執達件の如し。
     閏七月二十六日        太宰師
 

8月7日 辛巳
  鎮西の住人草野次郎大夫永平、殊に御感の仰せを蒙り、本所帯違失有るべからざるの
  上、別の勧賞有るべきの由と。これ平家に従わず、偏に朝威を仰ぎ、源家に與し奉る
  が故なり。
 

8月9日 癸未
  勝長寿院の惣門風に依って破損す。今日修理を加う。仍って二品監臨し給う。


8月15日 己丑
  二品鶴岡宮に御参詣。而るに老僧一人鳥居の辺に徘徊す。これを怪しみ、景季を以て
  名字を問わしめ給うの処、佐藤兵衛の尉憲清法師なり。今西行と号すと。仍って奉幣
  以後、心静かに謁見を遂げ、和歌の事を談るべきの由仰せ遣わさる。西行承るの由を
  申せしめ、宮寺を廻り法施を奉る。二品彼の人を召さんが為早速還御す。則ち営中に
  招引し御芳談に及ぶ。この間歌道並びに弓馬の事に就いて、條々尋ね仰せらるる事有
  り。西行申して云く、弓馬の事は、在俗の当初、なまじいに家風を伝うと雖も、保延
  三年八月遁世の時、秀郷朝臣以来九代の嫡家相承の兵法を焼失す。罪業の因たるに依
  って、その事曽て以て心底に残り留めず。皆忘却しをはんぬ。詠歌は、花月に対し動
  感の折節、僅かに三十一字ばかりを作るなり。全く奥旨を知らず。然らば是彼報じ申
  さんと欲する所無しと。然れども恩問等閑ならざるの間、弓馬の事に於いては具に以
  てこれを申す。即ち俊兼をしてその詞を記し置かしめ給う。縡終夜に専らせらると。
 

8月16日 庚寅
  午の刻西行上人退出す。頻りに抑留すと雖も、敢えてこれに拘らず。二品銀作の猫を
  以て贈物に宛てらる。上人これを拝領しながら、門外に於いて放遊の嬰児に與うと。
  これ重源上人の約諾を請け、東大寺料の砂金を勧進せんが為奥州に赴く。この便路を
  以て鶴岡に巡礼すと。陸奥の守秀衡入道は、上人の一族なり。
 

8月18日 壬辰
  鎮西の安楽寺別当安能罪科有るに依って、二品頻りに憤り申せしめ給うの処、去る六
  月二十六日入滅するの間、大法師全珍を以て彼の替わりに補せらるべきの由、これを
  執り申さると。
 

8月19日 癸巳 晴 [玉葉]
  申の刻、蔵人次官定経院の御使として来たり。鎌倉の書札等持ち来たる所なり。申状
  條々の中、諸国に功を付けらるるの中、諸寺及び大内等の修造は、頼朝の知行国に充
  てらるべき事、記録所を置かるべき事、光雅朝臣昇進の事等、申し上げる所なり。院
  宣に云く、件の事等摂政殿に申し、急ぎ計り沙汰有るべしと。
 

8月20日 甲午
  小御所の東、この程修理を加えらる。今日御移徙の儀有り。籐九郎盛長上野の国役と
  してこの事を沙汰すと。

[玉葉]
  経房卿示し送りて曰く、頼朝卿進済の両社行幸の召物、検納すべきの由、官に仰すべ
  し。御気色有りてえり。余仰せて云く、早く官に下知すべしてえり。
 

8月26日 庚子
  蓮花王院領紀伊の国由良庄に於いて、七條細工字紀太謀計を構え濫妨を致すの由、領
  家範季朝臣の折紙並びに院宣到来するの間、今日下知せしめ給うと。
   下す 蓮花王院御領紀伊の国由良庄官
    早く銅細工字七條の紀太が妨げを停止すべき事
   右件の御庄、彼の細工の謀計を停止し、院宣に任せ、領家庄務を知行せしむべきの
   状件の如し。以て下す。
     文治二年八月二十六日

   廣由良庄濫妨の事、折紙これを進上す。奏し下せしめ給うべく候。七條の紀太丸の
   謀計殊に勝れ候。尤も重科に処せらるべく候なり。領家と称すは基親朝臣と。子細
   を知らざる田舎人、猶以て此の如きの狼藉を結構し候か。以ての外の事に候。就中、
   南山に臨幸の由その聞こえ候。彼の庄相違候わば、桧物具等叶うべからず候。年来
   垰田郷件の役に勤仕す。而るに高雄寺庄を建立せられ候いをはんぬ。片時と雖も急
   ぎ仰せ下さるべく候か。恐々謹言。
     閏七月二十四日        木工の頭範季(上)

   蓮花王院領廣由良庄妨げの事、領家範季朝臣進す所の折紙・證文案等此の如し。子
   細を尋ねらるべきの由、内々御気色候なり。仍って執啓件の如し。
     後七月二十九日        太宰権の師経房(奉る)

[玉葉]
  定経来たり申して云く、頼朝卿進す所の両社行幸の召物、五千五百余匹なり。今申請
  する所三千匹なりと。
 

8月27日 辛丑
  土佐の守国基は二品の御一族なり。殊に断金の契約有り。仍って伊勢の国玉垣御厨の
  領主職已下、多くこれを示し付けしめ給う。また彼の家人刑部の丞景重、関東に候す
  べきの由仰せ付けらる。これ渡部党なり。