1186年 (文治2年 丙午)
 
 

11月5日 戊申
  豫州の事、猶師中納言に付けらる。その趣、義行今に出来せず。これ且つは公卿の侍
  臣皆悉く鎌倉を悪み、且つは京中の諸人同意結構の故に候。就中範季朝臣同意の事、
  憤り存じ候所なり。兼ねてまた仁和寺宮御同意の由承り及び候。子細何様の事やと。
  これ大夫の尉友實豫州の使いとして、京都を出て摂津の国に行き向かいをはんぬ。而
  るに彼の友實の居所屋、北條殿点定せられをはんぬ。これ御室の御近隣なり。則ち子
  細を触れ申せらるの処、反逆者の家に非ざるの由、一旦謝し仰せらるると雖も、この
  屋は御室より友實に借し給うの條露顕するの間、頗る御同心の疑い無きに非ず。仍っ
  てこの儀に及ぶと。また大夫屬入道申して云く、義行はその訓能く行くなり。能く隠
  れるの儀なり。故に今にこれを獲ざるか。此の如き事尤も字訓を思うべし。同音を憚
  るべしと。これに依って猶義経たるべき由、摂政家に申せらると。
 

11月8日 辛亥
  藤澤の余一盛景、諏訪大祝の訴えに依って、去る比御気色を蒙る。今日厚免に預かる
  所なり。これ盛景、御寄進地黒河内藤沢に於いて御狩りを抑留し、拝殿の営作を妨げ
  るの間、愁い申すに就いてこの儀に及びをはんぬ。而るに祝申して云く、傍輩を懲粛
  せられんが為、自由の張行を止むべきの由、恩裁を蒙らんが為言上するの処、忽ち罪
  科を被るの條、還って神慮に違うべきの由と。仍って件の両條、尤も先規を守り急速
  の沙汰を致すべきの由仰せ含めらると。
   下す 信濃の国黒河内藤澤
    早く先日の御下文の旨に任せ、専ら大祝の下知に随い神事等に勤仕せしむべき事
   右件の両郷は、諏訪大明神に御寄進の外、全く他の勤め無し。而るに余一盛景すで
   に本跡を忘れ、恒例の御狩りを抑留し、拝殿造営を忽緒するの由の事、彼の対捍の
   時を以て、左右無くこれを改めしむべきと雖も、早く先例に任せ、且つは御狩りに
   勤仕せしめ、且つは拝殿を修造せしむべきの状に、敢えて遅々に及ぶべからず。大
   明神は、神主大祝の下知を以て御宣を為す事なり。仍ってその下知に背かんや。返
   す々々不当なり。
     元暦三年十一月八日
 

11月12日 乙卯
  若公鶴岡八幡宮に御参り。御輿を用いらる。小山の五郎宗政・同七郎朝光・千葉の平
  次常秀・三浦の平六義村・梶原の三郎景茂・同兵衛の尉景定等供奉す。還御、馬場の
  本仮屋於いて、大庭の平太景義駄餉を献ずと。
 

11月16日 己未 雨降る [玉葉]
  左少弁定長、院の御使として来たり。定長仰せて云く、頼朝卿申す旨此の如し(書札
  を下さるるなり)。朝の大事たり、宜様に計り沙汰すべしてえり。(略)頼朝申状に
  云く、義行の事、南北二京・在々所々、多く彼の男に與力す。尤も不便なり。今に於
  いては、二三万騎の武士を差し進し、山々寺々、今に捜し求むべきなり。但し事定め
  て大事に及ぶか。仍って先ず公家の沙汰として、召し取らるべきなり。重ねての仰せ
  に随い武士を差し上すべきなり。兼ねてまた仁和寺宮(後高野御室道法)、始終御芳
  心有るの由承る所なりと。この状に依って定長彼の宮に参る。
 

11月17日 庚申
  雑色鶴次郎、並びに貢馬の御使生澤・御厩舎人宗重等京都より帰参す。北條兵衛の尉
  の書状到来す。貢馬去る二日御覧を経をはんぬ。同日木工の頭兼皇后宮の亮範季見任
  を解却すと。
 

11月18日 辛酉 天晴 [玉葉]
  義行召し出さるべきの間の事、細々相計り、人々に問うべしてえり。(略)親経を召
  し仰せに云く、人々議定の趣、具に以て奏聞すべし。この上愚案旨、同じく奏達すべ
  し。
    義行召し取らるべきの間の事
   諸社諸寺・京中畿外、宣旨を給うべき事、同じく載せらるべきの趣等、人々定め申
   す如く、殊に以て仰せ下さるべし。兼ねてまた猶召し出す所の縁者等に究問せられ、
   もし称し申す旨有らば、その状に随い、在所と云い境界と云い、尋ね沙汰せらるべ
   きか。兼ねてまたこの事、もし怠慢を致し遂に殊功を存ぜざれば、忽ち武士を遣わ
   すべきの由、各々仰せ含めらるべし。人々の驚恐、この深に過ぐべからざるか。
    御祈りの事
   先ず尤も五壇法を行わるべきなり。これに就いて二議有るべし。一は諸宗知法の輩
   を召し、禁裏若くは仙洞の塗連壇に於いて行わるるべきか。将又台嶺の如きの結界
   の地に於いて、一向その所に仰せられ、丁寧に始修せらるべきか。(後略)
 

11月19日 壬戌 天晴 [玉葉]
  大事たるに依って、能保朝臣を召し、人を以て伝え仰す。去る夜議定の間の事、各々
  武士等に召し仰すべきの由を申す。参院すべきの由を仰す。則ち参上す。
 

11月24日 丁卯
  去る月八日の宣旨、同九日の院宣、去る比到来す。今日御請文を奉らる。大夫屬入道
  ・筑後権の守等所談を加うと。これ平氏追捕の跡の地頭等、指せる謀反の跡に非ずを
  以て、課役を宛て行い、公官等を煩わすの旨、国司領家訴え申す所なり。現在謀叛人
  の跡の外は、停止せしむべきの由と。
   太政官符 諸国
    早く国衙庄園の地頭の非法濫妨を停止せしむべき事
   右内大臣宣べ、勅を奉りて称く、平氏を追伐せしむるに依って、その跡に補せらる
   るの地頭等、勲功の賞と称し、指せる謀叛の跡に非ざるの処、加微の課役を宛て行
   い、検断を張行し、惣領の地本を妨げ、在廰官人・郡司公文以下の公官等を責め煩
   わすの間、国司領家訴え申す所なり。然れば武家に仰せ、現在謀反人の跡の外は、
   地頭等の綺を停止せしむべきの状件の如し。宣に依ってこれを行へ。符到奉行。
     文治二年十月八日       正六位上行左少史大江朝臣
     修理佐宮城使従四位上左中弁兼中宮権大進藤原朝臣

   諸国庄公、平氏追伐の跡に補せらるるの地頭等、勲功の賞と称し、指せる謀反の跡
   に非ざるの処、加微の課役を宛て行い、検断を張行し、惣領の地本を妨げ、在廰官
   人・郡司公文以下の公官を責め煩わすの間、国司領家の訴訟に依って、官符を成す
   所なり。然れば現在謀叛人の外は、早く地頭等の綺を停止せらるべきの由、院宣候
   なり。仍って執啓件の如し。
     文治二年十月九日       左少弁定長
   進上 源二位殿

  御請文に云く、
    跪請 院宣の事
   右仰せ下さるる所、諸国庄公平氏追伐の跡に補せらるるの地頭等、勲功の賞と称し、
   加微の課役を宛て行い、検断を張行し、惣領の地本を妨げる由の事、官符宣謹んで
   拝見仕り候いをはんぬ。現在謀叛人の跡の外は、地頭の綺を停止せしむべきの旨、
   面々に下知を加え候ものなり。早く国司領家に仰せ、御禁断有るべく候か。この上
   張行を致すの輩候わば、交名を注し給い、炳誡を加うべく候。この旨を以て言上せ
   しめ給うべく候。院宣請ける所件の如し。頼朝頓首恐惶謹言。
     文治二年十一月二十四日    源頼朝(請文)

[玉葉]
  今日、義行改名の間の事、余案ずる所の名、義顕尤も宜しきの由、兼光申すなり。
 

11月25日 戊辰 [玉葉]
  僧正圓長を以て使と為し、義行の間の事を示さる。今日義顕追討の事を下さる。上卿
  左大臣。

[多田院文書]
**大江廣元奉書案
     在(右大将家)御判
  かたきのなきにとりてこそ、らうせきをハかへりみめ、さうそんしヽかそんするとて
  も、かはかりのかたきハ、いかてかたつねさるへき、いんせんにてありとても、かた
  きをはいかてかたつねさるへき、はんくわん十郎蔵人もとめいたさヽらんほとハ、な
  にかハくたるへき、よくよくたつねもとむへし、人にまちはからるヽことあるへから
  す、又いかのくにのそうつふくしハせさせ給てさたあるへし、あなかしこ、
    十一月二十五日         廣元
  相模守(大内惟義)殿
 

11月29日 壬申
  義行(義顕に改む)を捜し求むべき事、去る十八日、院の殿上に於いて公卿僉議有り。
  先度の如く、猶宣旨を畿内・北陸道に下さるべし。京中に於いては、使の廰に仰せ、
  保々に相分ち、これを尋ね求むべし。また奉幣の如き諸社仁王会御修法の御祈り、始
  行せらるべきの旨、群議一同の由、右武衛これを申し送らると。