1186年 (文治2年 丙午)
 
 

12月1日 甲戌
  千葉の介常胤下総の国より参上す。今日盃酒を献る。二品西侍の上に出御す。常胤・
  朝政・善信・義實・遠元・盛長已下宿老多く以てその座に候す。綺数巡に及び、瓜十
  分を尽くす。常胤座を起ち舞踏す。善信郢曲を尽くし、催馬楽を歌うと。
 

12月6日 己卯
  御台所鶴岡に御参り。神楽有り。巫女・職掌面々禄を給うと。
 

12月10日 癸未
  肥前の国鏡社宮司職の事、草野次郎大夫永平を以て定補せらる。これ且つは相伝に任
  せ、且つは奉公の労に優ぜらると。今日藤原の遠景を鎮西九国の奉行人に為す。また
  所々の地頭職を給うと。
 

12月11日 甲申
  去年行家・義顕等に同意するの凶臣の事、二品の御欝陶に依って、或いは見任を解却
  され、或いは配流の官符を下されをはんぬ。その中、前の廷尉知康殊に奇怪を現すの
  間、憤り申さるるの処、陳じ申すべしと称し、関東に参向する所なり。何様に沙汰せ
  らるべきや。勅定に随うべきの旨、京都に申さるるべきの由と。
 

12月15日 戊子
  当時比企の籐内朝宗已下の御家人、郎従等を南都に差し置き、聖弘得業坊を守る。こ
  れ義顕を尋ねんが為なり。而るに去る比、山階寺別当僧正参洛を企つ。この事すでに
  一寺滅亡の基たるべきか。早く尋ね索むべきの趣申請するの由、右武衛の申し送らる
  る所なり。
 

12月26日 [高野山文書]
**藤原能保下知状
     (能保花押)
  備後国大田庄は、院より高野山大塔領に寄進せしめ御いをはんぬと云々。而るに武士
  押領を致すの間、院宣に依って、鎌倉殿より早く停止せしむべきの由、重ねて御下文
  を成さしめ給いをはんぬ。而るに尚彼の御下文の状に背き、濫行を致すの由その聞こ
  え有り。事実ならば尤も穏便ならず。院宣・鎌倉殿御下文を用いず、自由の濫吹を致
  すの條、所行の旨甚だ不当なり。早く件等の状に任せ、彼の濫妨を停止せしむべして
  えり。右兵衛の督殿の仰せに依って、下知件の如し。
    文治二年十二月二十六日