1187年 (文治3年 丁未)
 
 

1月1日 癸卯
  二品鶴岡宮に御参り、その儀例の如し。御台所並びに若公同じく参り給う。御経供養
  有り。導師は別当法眼なり。
 

1月8日 庚戌
  営中の心経会なり。導師は行慈法橋と。
 

1月12日 甲寅
  二品並びに若公御行始めなり。八田右衛門の尉知家が南御門の宅に入御す。千葉の小
  太郎御劔を役す。知家御馬・御劔等を献ると。
 

1月15日 丁巳
  左女牛の御地、六條若宮に奉寄せしめ給う。早く奉行せしむべきの旨、阿闍梨季厳に
  仰せらるる所なり。これ六條以南・西洞院以東壹町なり。
 

1月18日 庚申
  新田の四郎忠常病脳太だ辛苦す。すでに死門に及ばんと欲す。仍って二品彼の宅に渡
  御しこれを訪わしめ給うと。
 

1月19日 辛酉
  文治元年希義主の墳墓に寄付せらるる所の土佐の国津崎在家等、甲乙人の為濫妨狼藉
  を致すの間、琳猷上人右武衛(能保)に参訴す。仍って濫吹を停止すべきの由下知を
  加えられをはんぬ。彼の上人関東に参訴すべきと雖も、行程遠路を隔てるの上、武衛
  二品の御耳目として在京するの間、此の如しと。
 

1月20日 壬戌
  合鹿大夫光望御使として、太神宮に奉幣せんが為、伊勢の国に進発す。神馬八匹(内
  外宮分各々二匹。風宮・荒祭・伊雑・瀧原宮各々一疋)・砂金二十両・御劔二腰、送
  り奉らる所なり。これ伊豫の守義経反逆の御祈祷に依ってなり。
 

1月21日 癸亥
  江廷尉公朝(日来鎌倉に在り)帰洛するの間、院宣の條々御返事を申せらると。
 

1月23日 乙丑
  前の廷尉知康、行家・義顕の叛逆に同意し、事露顕するの後、一旦の難を遁れんが為、
  関東に参向しをはんぬ。断罪の篇、二品頗る賢慮を決せられ難きの間、度々伺い奏せ
  らるると雖も、今に左右無きに依って、言上の事等、分明の勅裁に預からざるの條、
  恐欝有るの由、黄門経房の許に仰せ遣わさるる所なり。