1187年 (文治3年 丁未)
 
 

2月1日 癸酉
  二品没官領の内二箇所を以て、建禮門院に進せらるべきの由その沙汰有り。これ摂津
  の国眞井・島屋両庄なり。元は八條前の内府知行と。彼の御幽栖を訪い申さるるに依
  ってなり。

[玉葉]
  夜に入り、権の弁定長院の御使として来たり曰く、義顕の間の事、今一度議定有るべ
  し。申して云く、院の殿上に於いて候すべきなり。定長云く、院の僉議叶うべからず。
  明日以後十六日に至るまで次第指し合い、御所定まらず。一日休閑の隙無し。仍って
  御直廬に於いて議定有るべきの由仰せ下さるるなりと。
 

2月2日 甲戌 陰晴不定 [玉葉]
  今日右少弁親経来たり云く、院より参るべきの由仰せ有り。これ義顕の間の事、これ
  を尋ねるべし。余曰く、早く参院し子細を承るべしてえり。
 

2月4日 丙午 天晴 [玉葉]
  親経来たり院宣を伝えて云く、猶汝の直廬に於いて義顕の事を定むべし。人々に問わ
  るべきの趣、申す旨然るべし。早くその趣を以て尋ね問うべしてえり。
 

2月8日 庚辰 天陰雨下る [玉葉]
  この日、直廬に於いて義顕の間の事を議せらる。
    義顕を召し出さるべき間の條々の事
   一、御祈りの事
    諸宗諸山祈念すべき事。
    諸宗相続き日数を限り、秘法を修せらるべき事。
     (その他略)
   一、捜し求めらるべき事
    諸寺諸山諸国に催し仰せらるべき事。
    召し出さるるの輩究問せらるべき事。
    宇多郡自殺者の子細尋ねらるべき事。
    沙汰の子細を二位卿に仰せ合わすべき事(新大納言これを申す)。
    武士の沙汰の子細二位卿に仰せらるべき事。
  この條、先ず能保朝臣に仰せ合わさるるの後、左右を被るべきの所、方角在り。御卜
  を行わるべき事、藤宰相これを申す。兼光卿・右大将これに同ず。他人これを甘心せ
  ず。子細太だ多きと雖も、大概これを過ぎざるなり。
 

2月9日 辛巳
  大夫屬定康と云う者有り。関東の功士なり。彼の近江の国の領所、平家在世の時は、
  源家の方人と称し、収公され滅亡す。今また守護定綱兵粮米の為これを点定す。これ
  に依って参上を企つ。有労を募り申すの間、旁々の狼藉を停止し、元の如く領掌すべ
  きの趣、今日仰せ下さると。去る平治元年十二月合戦敗北の後、左典厩東国美濃の国
  に赴かしめ給う。時に寒嵐膚を破り、白雪路を埋め、進退行歩ならず。而るにこの定
  康、忽然としてその所に参向せしむの間、平氏の追捕を遁れんが為、先ず氏寺(大吉
  堂と号す)の天井の内に隠し奉る。院主阿願房以下住僧等を以て警固するの後、私宅
  に請じ申す。翌年の春に至るまで忠節を竭すと。
 

2月10日 壬午
  前の伊豫の守義顕、日来所々に隠住し、度々追捕使の害を遁れをはんぬ。遂に伊勢・
  美濃等の国を経て奥州に赴く。これ陸奥の守秀衡入道が権勢を恃むに依ってなり。妻
  室男女を相具す。皆姿を山臥並びに児童等に仮ると。
 

2月16日 戊子
  美濃権の守親能上洛の使節として進発す。貢馬十匹を相具す。これ来月上旬の比、法
  皇御熊野詣で有るべきに依ってなり。

[玉葉]
  また云く、義顕の間の事、官申す旨有りと。また御祈りの事、余家に於いて諸宗の長
  吏を召すべきの由、院宣有りと。余云く、猶院に於いて仰せ下さるべきの由、奏すべ
  してえり。
 

2月20日 壬辰
  鎮西宇佐宮神官並びに御家人等、多く以て二品の御恩に浴す。或いは新給、或いは本
  領と。仍ってその所々彼の輩に施行せしむべきの旨、遠景の許に遣わさるる所なり。
 

2月23日 乙未
  大姫公の御願に依って、相模国内の寺塔に於いて誦経を修せらる。籐判官代邦通・河
  匂の七郎政頼等これを奉行す。姫公岩殿観音堂に参り給うと。
 

2月25日 丁酉
  二品三浦の介義澄の亭に渡御す。御酒宴有り。折節信濃の国保科宿の遊女の長者、訴
  訟の事に依って参住す。その砌に召し出し、郢曲を聞こし食すと。
 

2月28日 庚子
  右近将監家景、昨日京都より参着す。文筆に携わる者なり。仍って北條殿慇懃にこれ
  を挙し申さる。在京するの時、試みに所々地頭の事を示し付くの処、始終誤り無しと。
  二品御許容の間、今日御前に召す。則ち月俸等を賜うべきの由、政所に仰せ下さる。
  その上指せる貴人に非ずと雖も、京都の輩に於いては、聊か恥じ思うべきの旨、昵近
  の士に仰せ含めらると。これ元は九條入道大納言光頼の侍なり。