1187年 (文治3年 丁未)
 
 

4月1日 壬申
  洛辺に御亭を建てらるべきの由、日来沙汰有り。而るに当時然るべき地無きの間、闕
  所を給うべきの旨、師中納言に申さる。山科沢殿領に便宜の地有り所望すと。

[玉葉]
  今日院の御祈り等、一日等身不動尊(余沙汰。家司光綱を以て使と為す。今暁沙汰し
  進せしむなり)、一日大般若転読(経房卿沙汰)、孔雀経御読経(仁和寺沙汰)、薬師
  経御読経・千手経御読経(主上御沙汰)。御修法等、今夕より始めらるべしと。
 

4月2日 癸酉
  百部の大般若経の転読を始行せらる。鶴岡・勝長寿院・箱根山・走湯山、並びに相模
  国中寺々の供僧等、数を尽くし勤行す。これ太上法皇御不予、玉躰安からず。仍って
  御使の上下向すでに数度に及ぶ。然れども御平癒の由未だ聞こえざるの間、この儀に
  及ぶと。
 

4月3日 甲戌 天晴 [玉葉]
  親経を以て、非常赦を行うべきの由奏聞す。また物を被るべきの輩の事同じくこれを
  奏す。神社の訴えに触れるの輩、並びに強盗、及び義顕党類等なり。未の刻、親経帰
  り来たり仰せて云く、赦令尤も行わるべし。物を被るべき輩の事、同じく聞こし食し
  をはんぬと
 

4月4日 乙亥
  豫州の在所未だ聞かず。今に於いては人力の覃ぶ所に非ず。須く神祇仏陀に祈らるべ
  きの由、人々これを計り申すに依って、鶴岡以下神社仏寺に於いて、日来御祈祷を修
  せらる。而るに若宮の別当法眼夢想を蒙られて曰く、上野の国金剛寺に於いて豫州に
  逢うべしと。仍って子細を申すの間、彼の寺の住侶等、各々御祈祷の丹誠を抽んずべ
  きの旨相触るべきの趣、籐九郎盛長に仰せらると。
 

4月13日 甲申 天晴 [玉葉]
  酉の刻人告げて云く、大略御平復か。頻りに御尋ね有りと。仍って宮参す(秉燭の程
  なり)。兼雅卿を以て仰せ下されて云く、只今の如きすでに平復なり。験者の賞を行
  わんと欲す。また馬を引くべし、禄を行うべし。また人々に相送るべしと。
 

4月14日 乙酉 雨降り雷鳴
  政所因幡の前司廣元の厩の上に霹靂落つ。馬三疋斃る。屋上並びに柱多く以て焼けを
  はんぬ。而るに一巻の心経を以て棟上に安ずるの処、聊か焦げると雖も、字形鮮やか
  なり。因州随喜の余り、彼の経を営中に持参す。仏法の未だ地に落ちざる事を申し、
  感涙を拭うと。
 

4月17日 戊子
  百部の大般若経転読の事、一昨日二七箇日を歴て結願す。仍って巻数を仙洞に奉らる。
  今日大和の守重弘これを帯し上洛すと。
 

4月18日 己丑
  御家人平九郎瀧口清綱、領所に就いて美濃の国に居住するの間、武威に募り国衙の下
  知に随わず。乃具を対捍し、召使に過言せしむの由、在廰の訴えに依って、早く尋ね
  沙汰せしめ給うべきの旨、院宣を下さるる所なり。仍って御下文を成し、請文を副え、
  師卿の許に遣わさると。平五盛時これを奉行す。
   誠に不善の物にてありけり。口の落合ぬさま猶奇怪也。家人にてありながら、いか
   でか君にあしきさまの見参に入れんとはするぞ。
   美濃国内清綱の地頭所、未済先として、国催を対捍するの由在廰の訴えに依って、
   重ねて院より仰せ下さるる所なり。就中口落ち合わず。放言を致すの旨聞こえ有り。
   返す々々不当の事か。自今以後、国衙の下知に随うべし。もし猶対捍せしめば、早
   く国中を離散すべし。仰せの旨此の如し。仍って以て執達件の如し。
     四月十八日          盛時(奉る)
   平九郎瀧口殿
 

4月19日 庚寅
  前の大蔵卿泰経出仕の事、勅許有るべきの趣、去る月六日の院宣到着せしむ所なり。
  而るにこの事度々仰せ下さるるの上、二品の御欝憤漸く休ましめんと欲するの間、帰
  京を免さるべきの由、内々これを申さるると雖も、また与儀有り。昵近奉公の事に於
  いては、暫く勅許有るべからざるの旨申さるる所なり。
 

4月23日 甲午
  周防の国は、去年四月五日、東大寺造営の為寄付せらるるの間、材木の事、彼の国に
  於いて杣取り等有り。而るに御家人少々武威を輝かし、妨げを成す事有るに依って、
  勧進聖人重源在廰等の状を取り、公家に訴え申すの間、その解状を関東に下さる。子
  細を尋ね仰せらるる所なり。
   重源申し上げ候。御材木の事、いそぎさた仕り候べきよしぞんじ候て、まかりくだ
   り候ところに、なほヽヽ武士のろうぜきとヾまり候はず。
      筑前の冠者家重  内藤の九郎盛経  三奈木の次郎守直
      久米の六郎国眞  江所高信
   これらがおのヽヽ、かまくらより地頭になり候て、所々におさめをきて候米百八十
   六石、そのゆへなくをしとり候をはんぬ。人夫食料にたのみてまかりくだり候あひ
   だ、かやうに狼藉いでき候て、よろづ相違つかまつり候をはんぬ。わたくしに制止
   をくはへ候に、さらにもちゐず候。かやうの事しずまり候はずば、この御大事なり
   がたく候者也。かねては国人をかりあつめて、城郭をかまへて、わたくしのそまつ
   くりをはじめて候あひだ、御材木引夫をめし候に、さらに承引せず候。あるひは山
   野の狩つかまつり候に、またく院宣にはヾかり候はず。此の如きの事により候て、
   諸事事ゆかず候へば、恐の為に急ぎ申し上げ候由、委しくは在廰解に申し上げ候よ
   し、重源恐々謹言。
     文治三年三月一日       在判

   周防の国在廰官人等
    言上の二箇條
  一、得善末武の地頭として、筑前の太郎(家重)、都乃一郡に横行せしめ、官庫を打
    ち開き所納米を押し取る。狩猟を宗として、土民を駈け寄せ、城郭を掘り、自由
    に任せ勧農を押妨する事
   右謹んで事情を案ずるに、当国本より狭少の上、庄々巨多の間、敢えて国衙に随う
   の地無し。而るに天下の騒動以後、いよいよ作田畠荒廃し、土民無きが如し。在廰
   官人已下夭亡の輩、勝計うべからず。然る間東大寺造寺料に寄進せらるるの後、跡
   に留む在廰窮民等、無二の忠を運らし、随分の奔走を励まし、未曾有の大物を引き
   営むの処、不輸の別納と云い、新立庄々の加納と云い、事を左右に寄せ、敢えて催
   促の役に随うの地無し。ややもすれば喧嘩を以て、訴訟の基と為す。一切結縁の思
   い無く、輙く国宣に随う者無し。就中、得善末武と謂うは、指せる庄号の地に非ず。
   また国免別納の御下文無し。ただ地頭職として沙汰を致すべきの由、鎌倉殿の御下
   文ばかりを賜うと。而るに事を武勇に寄せ、彼の両保押領せしむるの上、御柱引き
   の食料に割り置かしむるの乃米四十余石、官庫を打ち開き押取りしむるの上、農業
   の最中、人民を駈け集めて城郭を堀り営ましむ。以て鹿狩り鷹狩りを業として、更
   に院宣を恐れず、此の如き公物を押し取り食物に宛てて、濫悪を張行す。何ぞ況や
   居住の在廰・書生・国侍等の家中を服仕せしめて、公役に勤仕せしめず。造寺の営、
   永く以て忘れをはんぬ。誠に天魔の障りの至り、何事かこれに過ぎんや。仍って国
   中の庄々便補国免の地頭沙汰人等これを聞き習い、いよいよ梟悪を施す。真実の勇
   無きの間、大物を採り置くと雖も、引き出すもの少なく、未だ引き出さざるは巨多
   なり。何所を以て希代の御造寺を相励むべきや。斟酌の処、爭か御裁報無からんか。
   望み請う、且つは傍輩の向後の為、その身を召し禁められ、且つは別の御使を下さ
   れ、自由の濫吹を停止せられんと欲す。
  一、所衆高信、久賀・日前・由良等の地頭として、官庫を打ち開き所納米を押し取り、
    保司の如く雑事に張行し、国衙に随わざる事
     副え進す證文等
   右件の所々は、指せる庄号の地に非ず。有限の国保、勿論の公領なり。而るに天下
   の騒動以後、領主と云い地頭と云い牢籠せしむに依って、落居の程、改補せらるる
   所なり。而るに事を左右に寄せ、恣に地頭の威を施すの間、既に造寺の妨げを為す。
   何ぞ況や僅かに国庫の納米は、これ指せる運上料に非ず。私の相料に非ず。当国他
   国を勧進せしむるの上、適々当国狭少の所当米なり。而るに僅かに割り置く米、或
   いは国中の斗代高微を以て、或いは浮言の愚案を以て、法に背き押領せしむる所な
   り。而るに官庫納米の習い、納所使書生を以て検納せしめ、また検封せしむるの事、
   諸国一同の流例なり。而るに自由に任せ、恣に国衙に触れず押取りしむの條、未曾
   有の事なり。ただ一を以て万を察し、尤も推察を仰ぐべきなり。子細を本所に尋ね
   られ、傍輩の向後の為、且つは狼藉を停止せられ、且つは件の納米等を糺返せられ
   んと欲す。
  以前の二箇條、言上件の如し。以て解す。
     文治三年二月日        散位賀陽宿祢弘方
                    散位土師宿祢安利
                    散位土師宿祢弘安
                    散位管乃朝臣成房
                    散位土師宿祢助遠
                    散位土師宿祢国房
                    散位賀陽宿祢重俊
                    散位土師宿祢弘正
                    散位大原宿祢清廣
                    散位中原朝臣(在京)
                    散位日置宿祢高元
                    権の介大江朝臣
                    権の介多々良宿祢(在京)
 

4月24日 乙未 陰晴不定 [玉葉]
  晩頭権の弁定長来たり。語りて曰く、頼朝卿上洛料の地を申請す。親能を以て申す所
  なり。山科沢殿の辺を指し申すと。而るに許さず。事の次第、凡そ左右に能わずと。
  具旨記し尽くし難きなり。今夕左大臣の意見到来す。武士濫行の事、委しくこれを注
  し申す。万人憚りてこれを申さず。元老の臣、猶直に謂うべきものか。
 

4月29日 庚子
  三月の公卿勅使駅家の雑事、伊勢の国の地頭御家人等、多く以て対捍するの間、在廰
  等の注進状を召しこれを下さる。仍って今日二品彼の目録を覧る。不法の輩に仰せ、
  向後の懈緩を誡めらるべきの由、厳密の御沙汰に及ぶと。件の目録に云く、
     文治三年三月三十日
     公卿勅使、伊勢の国駅家の雑事勤否散状の事
     合
  一、勤仕する庄
    勧学院飯鹿庄(松本判官代盛澄知行)  多々利庄(四方田五郎弘綱知行)
    荻野庄(一方次官、一方中村蔵人)   常楽寺庄(山城の介久兼)
  一、勤仕せざる庄
    晝生庄(預所次官親能、代官民部大夫範重)
    富田庄(院御領、工藤左衛門の尉助経知行)
    豊田庄(地頭加藤太光員)       池田別府(同前)
    中跡庄(同前)            栗真庄(因幡の前司廣元)
    窪田庄(同前)            長田庄(光員)
    遍法寺領(廣元)           慈悲山領(同上)
    曽祢庄(刑部の丞経俊)        重安名田(高野の冠者)
    恵雲寺領(経俊)           東園(二品親能)
    西園村(同)             黒田庄(二位経俊)
    丹生山公田(四方田の五郎)      穂積庄(預所式部大夫維度)
    小倭田庄(預所廣元)         長田庄(光員)
    河口(兵衛の尉基清)         家城庄(地頭常陸の六郎)
    英多庄(経俊)            天花寺(二位久氣の次郎)
    新屋庄(二品近衛の局)        木造寮田(歌官寮頭)
    永平名(二品宇佐美の三郎)      三箇山(常陸の三郎)
    松永名(四方田の五郎)        弘清(佐野の太郎忠家)
    弘抜名(一河別当)          粥安富名(岡部の六野太)
    武久名(加藤太)           高垣名(親能)
    安清名(渋谷の五郎)         本得末名(長法寺の五郎)
    新得末名(曽井入道)         揚丸名(尾前の七郎)
    吉久名(筵間の三郎)         糸末名(中村蔵人)
    福武名(親能)            岩成庄(小次郎)
    吉光名(庄田の太郎家房)       光吉名(経俊)
    光吉得光渡吉清(同)                  堀殖永恒(地平次)
    高成名(次官)            近富安富(一河別当)
    末光安富(一河の五郎)        加納(光員)
    永富名(廣元)            得永名(同)
    永藤名(伊豆目代頼澄)        光藤名(同)
    久藤名(泉乃判官代)         加垣湊(光員)
    新光吉名(同)            安富名(一品房)
    山永垣名(伊豫の守)         堀殖加納(同)
    位田(光員)             辰吉(刑部の丞)
    近津延名(八田の太郎)        豊富安富(次官)
    曽祢庄返田(刑部の丞)        吉行名(常陸の太郎)
    福延別名(因幡の前司)        石丸名(同上)
    末松名(渋谷の四郎)         松高名(常陸の太郎)
    有光名(白山別当)
     この外一志駅家饗、三百前これを沙汰し進す。
    後院御庄の内(葉若村・井後村・平野村・上野村・久吉村・河曲村・安楽村已上)
     以上皆沙汰無し。
                     介大鹿俊光
                     散位大鹿兼重
                     惣大判官代散位大鹿国忠