1187年 (文治3年 丁未)
 
 

5月4日 乙巳 雨降る [玉葉]
  伝聞、義顕、美作の国山寺に於いて斬られをはんぬ。その次第、南都を逃げ去り美州
  の山寺に移住す。而るに近辺の寺僧、関東に告げ達す(頼朝卿専一の郎従加藤太光員
  ・弟加藤次景廉、件の山の寺僧と知音たり。仍って告を遣わすと)。件の加藤次丸猶
  疑貽を成し自身上洛せず、郎従五人(その中一人義顕を見知るの者有るなり)を差し
  遣わす。件の案内者を以て示承と為し件の山寺に入る。即ち義顕の頭を梟しをはんぬ。
  この事去る月の晦日と。即ち四ヶ日上洛、昨日(三日)入京、今日関東に馳せ下向し
  をはんぬと。事もし実ならば、天下の悦びなり。
 

5月5日 丙午
  鶴岡の神事なり。御台所御参りと。
 

5月8日 己酉
  土佐の冠者希義主追善の為、彼の墳墓に於いて一箇の梵宇を建てらる。介良庄・垣光
  名並びに津崎在家を以て、御寄付先にをはんぬ。而るに今日また沙汰有り。供料米六
  十八石、毎年役としてこれを施さる。もし不足せしめば、庄内の乃具を引き募り、琳
  猷上人に沙汰し渡すべし。事に於いて芳志を施すべきの由、源内民部大夫行景(時に
  介良庄の地頭兼預所なり)に仰せ遣わさる。
 

5月13日 甲寅
  閑院皇居、去々年七月大地震動の時破壊す。修造を加えらるべきの由その沙汰有り。
  而るに彼の時顛倒の殿舎、同冬の比引き直さるるの処、清涼殿東西六箇間の役、参河
  の守範頼に宛てらるると雖も沙汰無し。而るに関東に参向するの由、二品に伝え申す
  の者有り。仍って朝恩に浴しながら国役を懈緩す。太だ謂われ無し。罪科有るべきの
  由、この次いでを以て参州に仰せらる。殊に恐れ申し、今度造営の時、微力を励ます
  べしと。
 

5月14日 [島津家文書]
**源頼朝御教書案
     在御判
  近衛殿より仰せ下さるる嶋津庄官訴え申す、宰府として先例に背き、今年始め以て唐
  船着岸の物を押し取る事、解状これを遣わす。早く新儀を停止し、元の如く庄家に付
  けしむべきなり。適々仰せ下さるる事たるの上、状の如きは、道理限り有る事なり。
  仰せの旨此の如し。仍って以て執達件の如し。
    五月十四日           盛時(奉る)
  伊豆籐内殿
 

5月15日 丙辰
  大和の守重弘京都より参着す。上皇御悩の事、すでに復本せしめ御う。この御事に依
  って、去る月三日非常赦を行わる。但し伊豫の守義顕並びに縁坐の衆は、除かるるの
  由これを申す。

[玉葉]
  齋宮群行の間の事條々、親雅来たりこれを申す。用途の事関東に仰せ遣わすべきの由、
  先日院宣有るなり。
 

5月20日 辛酉
  藤原行政使節として常陸の国に下向す。これ鹿島社領名主貞家御寄進の地を押領する
  の旨、御物忌これを訴え申すに依って、廣元の奉行として日来その沙汰有り。これを
  沙汰し付けんが為差し遣わさるる所なり。
 

5月26日 丁卯
  宇治蔵人三郎義定の代官、伊勢の国齋宮寮田櫛田郷内の所処を押領すと。糺明せらる
  べきの旨、仙洞よりこれを仰せ下さる。即ち義定に尋ね問わるるの処、在鎌倉すでに
  多年に及ぶの間、彼の国の子細を知らず。眼代を召し進すべきの由これを謝し申す。
  而るを理訴を懐かば、追って言上すべきか。今群行の期に臨み、武家の輩、件の式田
  を押領するの旨、勅定を含みながらその科に行われずんば、御旨を軽んずるに似たり。
  仍って義定の恩地を収公せらると。