7月1日 庚子 天晴 [玉葉]
内裏に於いて、基親初斎宮の事等を申す(伊勢国司の申状、並びに前使判官等の事な
り)。
7月2日 辛丑
始齋宮、来九月群行有るべきに依って、その用途を進せらる。日来諸家人に宛てらる
る所なり。善信奉行すと。
7月3日 壬寅
山城の守橘維康京都より参向す。官仕を致さんが為なり。池亜相禅門これを挙し申さ
ると。前駆の如き事勤役すべきの人御尋ね有るに依ってなり。則ち俊兼の沙汰として、
旅宿を点じ給うと。
7月4日 癸卯
雑色里長御使として上洛す。これ右武衛能保の姫公、御乳母として参内有るべきに依
って、長絹百疋を遣わさるるが故なり。御家人等面々これを沙汰し進すと。
7月11日 [大和春日神社文書]
**興福寺南大門葺工交名
注進 葺工交名の事
御寺大工散位藤井国次
友久 守国 由末 貞元 国里 貞国 国元 国行 国沢 僧相暁
国貞 久遠 行貞 常貞
右、南大門葺工等交名、食堂の例に依って、注進件の如し。
文治三年七月十一日
7月13日 壬子 風雨甚だ烈し [玉葉]
この日、興福寺南大門棟上げなり。夜に入り親経来たり申して云く、八幡の神人訴え
の事を申す。関東に仰すべきの由仰せ有りと。余云く、宗長の事、能保殊に申す旨有
り。先ず彼の朝臣に仰せられ、彼の朝臣左右有るべきかの由奏すべしてえり。
7月14日 癸丑 今日猶雨下る [玉葉]
今夜次官親能来たり申す。明日関東に下向するの由、余條々の事を仰せをはんぬ。去
る夜廣元入洛すと。
7月18日 丁巳
新田の四郎忠常の妻豆州三嶋社に参る。而るに洪水の間扁舟に棹さし、江尻の渡戸に
浮かぶの処、逆浪船を覆す。同船の男女皆以て水底に入る。然れども各々希有にして
存命す。忠常の妻一人没しをはんぬと。これ信力強盛の者なり。幼稚の昔より長大の
今に至るまで、毎月闕さず当社に詣でるの処、去る正月の比、夫重病危急の時、この
女願書を彼の社壇に捧げて云く、妻の命を縮め、忠常を救わしめ給へと。若しくは明
神その誓願を納受して転ぜしむるか。志の所、貞女たるの由、時の口遊在るか。
7月19日 戊午
右武衛の消息到来す。院宣を副え進す所なり。これ前の大蔵卿泰経、去年義顕與同の
過に処せられをはんぬ。帰洛を免さるべきの由、申せしめ給うに就いてこれを免さる。
而るを本より近臣たるに依って、今に於いては昵近を聴さるべきの趣、仰せ下さるる
が故なり。
泰経卿の事、度々二位卿に仰せられをはんぬ。而るに御返事の趣分明ならざるの間、
御猶予候なり。然れども近日殊に歎き申し、然るべきの様計り仰せ遣わすべきの由、
内々御気色候なり。仍って執啓件の如し。
七月一日 左中弁
謹上 右兵衛の督殿
7月23日 壬戌
二品海浜を逍遙し給う。故一條の次郎忠頼の侍甲斐の中四郎秋家これを召し具せらる。
歌舞を以て業と為すの者なり。由比浦に於いて小笠懸の後、岡崎の四郎の宅に入御す。
御酒宴の間、秋家舞曲を尽くすと。
7月27日 丙寅
信濃の国善光寺、去る治承三年廻禄の後、再興の沙汰有るの間、殊に合力を加うべき
の由、諸人に仰せ付けらると。その状に云く、
下す 信濃の国庄園・公領沙汰人等の所
早く善光寺造営を助成するの間、土木人夫を結縁すべき事
右件の寺は、霊験殊勝の伽藍なり。草創年旧りて、堂宇破壊す。しかのみならず、
ややもすれば火災の難有りて、礎石の外更に残り無し。有情の輩、何ぞこの事を歎
かざらん。早く国中、庄園・公領と云わず、一味同心與力し、勧進上人土木の間に
於いては、人夫を励み出し、その功を終えしめよ。もしこの功に奉加せざるの者は、
所知領掌の儀有るべからざるの状件の如し。以て下す。
文治三年七月二十七日
7月28日 丁卯
善光寺造営の間の事、信濃の国御家人に下知せしめ給うの上、当国目代に仰せらると。
その奉書に云く、
善光寺造営の間、国中さうざうをいはず、人夫をいだして力をくわふべきよし、御
くたしぶみたび候ぬ。もとの所知などしらせ給候はヽ、輿力せさせ給へそうろう。
このたび奉加せざるの人は、所知をしらざりけりとおぼしめさむずるに候、あなか
しこ、あなかしこ。
七月二十八日 僧
信濃御目代殿