1187年 (文治3年 丁未)
 
 

8月1日 己巳
  今日より来十五日に至るまで、放生会を専らすべきの旨、兼日関東の庄園等に触れ仰
  せらる。而るを鎌倉中並びに近々の海浜河溝の事、重ねて雑色等を廻さる。行政・俊
  兼これを奉行す。
 

8月3日 辛未
  筑前の国筥崎宮宮司親重賞に行わる。当国那河西郷・糟屋西郷等これを拝領すと。平
  氏在世の時、彼の祈祷を抽んずるに依って、日来聊か御気色有りと雖も、所詮神官等
  の事に於いては、一向に優恕せらるべきの由、思し食し定めらると。
 

8月4日 壬申
  今年鶴岡に於いて放生会を始行せらるべきに依って、流鏑馬の射手並びに的立等の役
  を宛て催さる。その人数に、熊谷の二郎直實を以て上手の的を立つべきの由仰せらる
  るの処、直實鬱憤を含み申して云く、御家人は皆傍輩なり。而るに射手は騎馬、的立
  役人は歩行なり。すでに勝劣を分けるに似たり。此の如き事に於いては、直實厳命に
  従い難してえり。重ねて仰せに云く、此の如き所役は、その身の器を守り仰せ付けら
  るる事なり。全く勝劣を分たず。就中、的立役は下職に非ず。且つは新日吉社祭御幸
  の時、本所の衆を召し流鏑馬の的を立てられをはんぬ。その濫觴の説を思うに猶射手
  の所役に越えるなり。早く勤仕すべしてえり。直實遂に以て進奉するに能わざるの間、
  その科に依って所領を召し分けらるべきの旨仰せ下さると。
 

8月8日 丙子
  梶原平三景時・原の宗四郎行能、最勝・尊勝等の寺領を押領するの由寺家の訴え有る
  の旨、仰せ下さるるの間、両人に尋ねらるるに就いて、各々陳状を献る。これを以て
  職事に付けらるべしと。
   平の景時謹んで陳べ申す
    尊勝寺御領美作の国林野英多保の事
   右下し給い候の折紙、謹んで以て拝見せしめ候いをはんぬ。先度仰せ下さるるの刻、
   子細言上しをはんぬ。御年貢以下の雑事、先例に任せ弁勤せしめ候なり。代官改補
   の條に於いては、寺家の訴えに及ぶべからず。その故は、先例限り候御年貢雑事、
   懈怠を致さずんば、訴えを為すべからざるか。ただ景時の沙汰を停止せしめんが為
   此の如く候か。子細度々言上しをはんぬ。仍って委細の陳状に能わず。謹んで陳べ
   申す。
     文治三年八月五日       平の景時

   惟宗行能謹んで解す
    最勝寺訴え申す若狭の国今重保、院宣並びに鎌倉殿の御下文の旨に背き、押領を
    企てる由の事
   右九郎判官逆乱の時、東国より武士上洛の日、行能北條時政の手に相具し上洛しを
   はんぬ。而るに兵粮米充給所として、代官を置き沙汰を致すべからざるの由、鎌倉
   殿より仰せ下さるるに依って、代官を置かず、本国に罷り下りをはんぬ。況や今重
   保に於いては、知行すべきの由緒無し。また鎌倉殿より恩給の所に非ず。何を以て
   押領を致せしめんか。但し行能代官と号し、去文無くんば、用いべからざるの由を
   称し、度々院宣並びに鎌倉殿の御下文に背くの間、院宣に依って御勘発に預かる。
   これに因って且つは不当の名を取り、その恐れ少なからず。然れば行能代官と号す
   の輩に於いては、早く搦め取られ、罪科に処せらるべきなり。全く行能が結構に非
   ず。仍って謹んで解す。
     文治三年八月八日       惟宗(判)
 

8月9日 丁丑
  鶴岡宮中殊に以て掃除す。今日馬場を造り埒を結う。仍って二品監臨し給う。若宮の
  別当法眼参会せらる。常胤・朝政・重忠・義澄以下御家人群参すと。
 

8月12日 庚辰
  右武衛能保の消息到来す。当時京中強盗所処に乱入し、尊卑これが為に魂を消さずと
  云うこと無し。就中、去年十二月三日、強盗太皇太后宮に推参し、大夫の進仲賢以下
  の男女を殺害以来、太略隔夜この事有り。勇士等を差し殊に警衛し給うべきの由、天
  気有りと。
 

8月15日 癸未
  鶴岡の放生会なり。二品御出で。参河の守範頼・武蔵の守義信・信濃の守遠光・遠江
  の守義定・駿河の守廣綱・小山兵衛の尉朝政・千葉の介常胤・三浦の介義澄・八田右
  衛門の尉知家・足立右馬の允遠元等扈従す。流鏑馬有り。射手五騎、各々先ず馬場に
  渡り、次いで各々射をはんぬ。皆的に中たらずと云うこと無し。その後珍事有り。諏
  方大夫盛澄と云う者、流鏑馬の芸を窮む。秀郷朝臣の秘決を慣らい伝うに依ってなり。
  爰に平家に属き多年在京し、連々城南寺流鏑馬以下の射芸に交りをはんぬ。仍って関
  東に参向する事頗る延引するの間、二品御気色有りて、日来囚人と為すなり。而るに
  断罪せられば、流鏑馬一流永く凌廃すべきの間、賢慮思し食し煩い、旬月を渉るの処、
  今日俄にこれを召し出され、流鏑馬を射るべきの由仰せらる。盛澄領状を申し、御厩
  第一の悪馬を召し賜う。盛澄騎せしめんと欲するの刻、御厩舎人密々盛澄に告げて云
  く、この御馬、的の前に於いて必ず右方に馳すなりと。則ち一の的の前に出て、右方
  に寄る。盛澄生得の達者たれば、押し直してこれを射る。始終相違無し。次いで小土
  器を以て五寸の串に挟み、三つこれを立てらる。盛澄また悉く射をはんぬ。次いで件
  の三箇の串を射るべきの由、重ねて仰せ出さる。盛澄これを承り、すでに生涯の運を
  思い切ると雖も、心中諏方大明神を祈念し奉り、瑞籬の砌を拝送し、霊神に仕うべく
  んば、只今擁護を垂れ給へてえり。然る後鏃を平に捻り廻してこれを射る。五寸の串
  皆これを射切る。観る者感ぜずと云うこと無し。二品の御気色また快然たり。忽ち厚
  免を仰せらると。
  今日の流鏑馬
    一番 射手 長江の太郎義景   的立 野三刑部の丞盛綱
    二番 射手 伊澤の五郎信光   的立 河匂の七郎政頼
    三番 射手 下河邊庄司行平   的立 勅使河原の三郎有直
    四番 射手 小山の千法師丸   的立 浅羽の小三郎行光
    五番 射手 三浦の平六義村   的立 横地の太郎長重
 

8月19日 丁亥
  洛中狼藉の事、連々院宣を下さるるの間、且つは子細を尋ね問い、且つはこれを相鎮
  めんが為、千葉の介常胤・下河邊庄司行平、上洛すべきの旨仰せ付けられをはんぬ。
  各々領状を申すの間、今日御前に召され御餞別の儀有り。また御馬を賜い、條々の仰
  せを承る。御消息に云く、
   洛中群盗蜂起並びに散在の武士狼藉の事、度々仰せ下され候の趣、殊に驚き歎き思
   い給い候。時政下向の時、東国の武士少々差し置き候いをはんぬ。その外も、或い
   は兵粮米の沙汰として、或いは大番勤仕として、武士等在京する事多く候か。彼の
   輩狼藉を鎮めず、還って計略に疲れ、若くは此の如き事をもや企て候わんか。人口
   塞ぎ難く候。然かれば偏に頼朝の恥辱たるべく候。当時親能・廣元在京し候と雖も、
   元より武の器に非ず候。ただ閑院殿修造の事、沙汰を致し候ばかりなり。此の如き
   の事、全く彼等の不覚たるべからず候か。仍って常胤・行平を差し進し候。東国に
   於いて有勢の者に候の上、相憑む勇士に候なり。自余の事は知り候はず。武士等の
   中の狼藉は、この両人輙く相鎮むべく候。器量を見計り進し候。能々仰せ付けらる
   べく候。條々猶別紙を以て言上し候。且つはこの趣洩れ披露せしめ給うべく候。頼
   朝恐々謹言。
     八月十九日          頼朝
   進上 師中納言殿
 

8月20日 戊子
  民部大夫行景の使者土佐の国より参着す。弓百張並びに魚鳥の干物以下を以て、一艘
  の船に積みこれを進上す。また故土佐の冠者希義の追福を励むに依って、琳猷上人を
  愍れむべきの由、先日仰せらるる事、殊にその旨を存ずべきの趣、請文を捧ぐと。件
  の弓二十張は、堀の籐次に仰せこれを納め置かる。八十張は、祇候の壮士等に分け給
  う。その中弓場御的に勤仕するの輩は、各々三張を賜う。所謂下河邊庄司行平・和田
  の小太郎義盛・佐野の太郎基綱・三浦の十郎義連・稲毛の三郎重成・榛谷の四郎重朝
  ・藤澤の次郎近清以下なり。
 

8月22日 庚寅 天晴 [玉葉]
  この日宇治より天王寺に参る。太上法皇灌頂を権僧正公顕に受け給うに依ってなり。
  早旦小浴。舎利を礼し奉るべきが故なり。
 

8月25日 癸巳
  因幡の前司廣元の使者京都より参着す。去る十五日、六條若宮に於いて放生会を始行
  するの処、見物雑人中に闘乱出来し、疵を被るの者等有りと。
 

8月26日 甲午
  遠江の守義定に稲荷社を修造せしむべきの由、権黄門経房の奉りとして仰せ下さる。
  重任の功に募らるる所なり。稲荷・祇園両社破壊するの間、皆成功に付け、修治の功
  を終えらるべし。
 

8月27日 乙未
  下河邊庄司行平使節として上洛す。また重ねて京都に申さるる條々、
  一、群盗の事
   洛中案内者の所為か。若くは又畿内・近国の武士か。両篇能々御尋ね有るべきかの
   事。
  一、江大夫判官下部等狼藉の事
   河内の国に於いて、関東御家人と号し寄せ取り狼藉に及ぶの由、風聞せしむ所なり。
   全く頼朝申し付ける旨無し。御尋ね有るべき事。
  一、北面の人々廷尉に任ずる事
   この事近年諸人の望みなり。先々輙からざる事か。能々その仁を撰び、抽補せらる
   べき事。
  一、壱岐判官下向の事
   義経・行家等に同意する者なり。随って別の仰せ無し。この上進上すべきかの事。
  一、奉公の人々子孫の事
   先々功有るの人の子孫沈淪せば君の御不覚なり。殊に公庭に進せらるべき事。
  一、西八條地の事
   没官領としてこれを宛て賜うと雖も、公用有るべきの由、内々承りをはんぬ。早く
   御定在るべき事。
  一、所々地頭の輩の事
   以前、すでに面々に子細を含めをはんぬ。もし頼朝の成敗に拘わらざる輩の事に於
   いては、仰せ下さるるに随い、治罰を加うべき事。
  右條々、公平を存じ言上せしむ所なり。
    文治三年八月二十七日
 

8月28日 丙申
  閑院遷幸料・楽屋の幄覆並びに御誦経の幄覆以下、十月中仙洞に染め進すべきの由、
  美濃権の守親能の許に仰せらると。
 

8月30日 丁酉
  千葉の介常胤使節として上洛す。これ洛中狼藉の事、関東御家人等の所為たるかの由
  疑胎有るの旨、風聞するの間、尋ね沙汰せしめんが為なり。御使として行平先に以て
  進発せしめをはんぬ。同道すべきの処、常胤違例の間、延びて今日に及ぶと。