1187年 (文治3年 丁未)
 
 

9月4日 壬寅
  秀衡入道前の伊豫の守を扶持し、反逆を発すの由、二品訴え申せしめ給うの間、去る
  比廰の御下文を陸奥の国に下されをはんぬ。その時、関東同じく雑色を遣わさるるの
  処、今日帰参す。秀衡に於いては異心無きの由謝し申す。而るに雑色申す如きは、す
  でに用意の事有るかと。仍って彼の雑色重ねて京都に差し進せらる。奥州の形勢を言
  上せしめんが為なり。
 

9月8日 [賜廬文庫文書]
**源頼朝書状案
  御消息の旨承りをはんぬ。東大寺の御事、爭か疎略に存ぜしむるや。心に懸け奉るに
  依って、□御□急ぎ修復せらるべし。且つは叡慮の御沙汰候は、仏像も堂舎も、早速
  出来せしめ給い候か。□諸事沙汰有るべきの由を、院へも奏達候いをはんぬ。事更に
  等閑に致すべからず候なり。佐々木左衛門の尉高綱は当寺ニ志を運すの様ニ見候者な
  り。但し然る如きの家人を以て、国々の行事として、催促せしめ候はヽ、諸人の訴え
  出来するか。この條顧みるべからずと雖も、同ハ院に申せしめ給いて、仰せ下さるる
  事なと候はヽ宜しく候。先日院より材木引の間の事、仰せ合わされて候ひし時、公領
  ハ国司に付け、庄園ハ領家に付けて、御沙汰有るべきの由申せしめて候なり。兼ねて
  また海道・北陸道方へも、風雨をも厭わず、物腹立なともせす候らむ御弟子一人を下
  し遣わされて勧進せられハ、縦え野叟の輩と雖も、何ぞ助成の心無からんや。また陸
  奥・出羽両州へも然るべきの上人を差し遣わし、勧進せらるべく候なり。是非大廈の
  至要を省かば、また結縁の因縁たるべきものか。仍って執達件の如し。
    (文治三年か)九月八日     (花押影)
 

9月9日 丁未
  比企の尼の家の南庭に白菊開敷す。外に於いて未だこの事有らず。仍って今日重陽を
  迎え、二品並びに御台所彼の所に渡御す。義澄・遠元以下宿老の類御共に候す。御酒
  宴終日に及び、剰え御贈物を献ると。

[島津家文書]
**源頼朝下文
     (花押)
  下 嶋津庄
   早く籐内遠景の使の入部を停止し、庄目代忠久を以て押領使として、沙汰を致すべ
   き事、
  右、惣追捕使遠景の下知と号し、使者を放ち入れ、庄家を寃凌するの由、その聞こえ
  有り。事実ならば、甚だ以て無道なり。自今以後、遠景の使の入部を停止し、彼の忠
  久を以て押領使と為し、その沙汰を致せしむべきの状件の如し。以て下す。
    文治三年九月九日
 

9月13日 辛亥
  摂津の国在廰以下並びに御室御領の間の事、その法を定めらる。今日北條殿の奉りと
  してその意を得るべきの由、三條左衛門の尉の許に仰せ遣わさるる所なり。その状に
  云く、
   摂津の国は平家追討の跡として、安堵の輩無しと。惣て諸国在廰・庄園下司、惣横
   領使の御進退たるべきの由、宣旨を下されをはんぬ。てえれば、縦え領主権門たる
   と雖も、庄公の下職等国の在廰に於いては、一向御進退たるべく候なり。速やかに
   在廰官人に就いて、国中の庄公下司押領使の注文に召され、内裏の守護以下関東の
   御役に宛て催さるべし。但し在廰は、公家奉公の憚り無しと。文書調進外の役を止
   めらるべく候。兼ねてまた河邊の船人を以て御家人と名づけ、時定面々に下知状を
   成し給うと。事もし実ならば然るべからず。速やかに停止せらるべし。抑も御室の
   御領所、数輩の寺官を称し、御家人役に宛て催すの由御訴訟有り。所詮三人の寺官
   の外、他人の妨げを止むべきの由、御返事を申さる。その旨を相存ずべし。仰せに
   依って執達件の如し。
     文治三年九月十三日      平
 

9月18日 丙辰 天晴 [玉葉]
  この日潔子内親王(高倉院皇女、当今の御姉妹なり。御年九歳)。葛野河に禊ぎ。即
  ち太神宮に参るの日なり。官廰に於いてこの儀を行わる。
 

9月19日 丁巳 天晴 [玉葉]
  晩に及び、権右中弁定長院の御使として来たり。余これに謁す。頼朝卿申し上げる所
  の群盗の間の事、計り沙汰すべきと。この事院より仰せ遣わさるるの御返事なり。
 

9月20日 戊午
  熊野の別当法印湛増の使者(永禅)関東に参着す。法印に叙すの後未だ子細を啓さず。
  恐れ思うの由なり。この次いでを以て、巻数に相副え、綾三十端を献る。これ太だ御
  意に背くと。仰せに曰く、神社仏寺に於いて庄園を寄進する事、皆仏神に奉る所なり。
  全く別当・神主等の恩顧に宛てず。然る如き物は件の輩に施し与うの條、中心の志す
  所なり。然れば何事に酬いんが為、還って進物に及ぶべきか。更に領納の儀有るべか
  らずてえり。則ち使者に返し下さると。
 

9月22日 庚申
  所衆信房(宇都宮所と号す)御使として鎮西に下向す。これ天野の籐内遠景相共に、
  貴海島を追討すべきの旨、厳命を含むに依ってなり。件の島は、古来船帆を飛ばすの
  者無し。而るに平家在世の時、薩摩の国の住人阿多平権の守忠景、勅勘を蒙るに依っ
  て、彼の島に逐電するの間、これを追討せんが為筑後の守家貞を遣わす。家貞軍船を
  粧い数度に及ぶと雖も、終に風波を凌がず、空しく以て帰洛せしむと。今度豫州に同
  意するの輩隠居するかの由、御疑胎有るに依ってこの儀有り。また去年河邊の平太通
  綱件の島に到るの由聞こし食すの間、殊に思し召し企て給う所なりと。遠景は元来鎮
  西に在りと。
 

9月27日 乙丑
  畠山の次郎重忠囚人として千葉の新介胤正に召し預けらる。これ代官眞正が奸曲に依
  って、太神宮神人長家綱訴え申す故なり。代官の所行子細を知らざるの由、これを謝
  し申すと雖も、所領四箇所を収公せらるべしと。
 

9月29日 丁卯 天晴 [玉葉]
  定長仰せて云く、頼朝卿申す旨此の如し。何様に沙汰有るべきや。計り奏すべしてえ
  り。件の申状、御使を奥州に遣わし、東大寺大仏滅金料の砂金を秀衡法師に召すべき
  の由なり。この事去る四月頼朝卿申して云く、前の山城の守基兼(元法皇近臣、北面
  下臈、凶悪の人なり)秀衡の許に在り(先年平相国入道、院の近臣等を誡むの内、基
  兼その随一として奥州に配流せられをはんぬ。その後秀衡に属き、今に彼の国を経廻
  すと)。而るに上洛の旨有りと雖も、秀衡召し禁しむの間、素意を遂げざるの由、歎
  き申す所なり。(略)兼ねてまた陸奥の貢金、年を追って減少す。大仏の滅金巨多罷
  り入るか。三万両ばかり進せしむべきの由、召し仰せらるべきなり。件の両條別の御
  教書を賜い、秀衡の許に仰せ遣わさんと欲すてえり。仍って経房卿申請に任せ、御教
  書を書き(基兼の事・砂金の事、並びに度々の追討等の間殊功無き事等なり)、彼の
  卿の許に遣わす。件の御教書を以て、頼朝書状を書き副え、使者雑色澤方を以て、秀
  衡の許に遣わす。即ち請文(頼朝返事なり)を進す。件の請文を以て、件の使者澤方
  処を相具し、経房卿に付すなり。昨日到来すと。頼朝申状の趣、秀衡院宣を重んぜず。
  殊に恐れる色無し。また仰せ下さる両條共に以て承諾無し。頗る奇怪在るか。今に於
  いては別の御使を遣わし、貢金等を召さるべきかと。秀衡申状の趣、基兼の事に於い
  ては、殊に憐愍を加え、全く召し誡め無し。京上すべきの由を申さざるに依って、忽
  ち上洛せしめず。更に拘留の儀に非ず(召し進すべきの由を申さずなり)と。貢金の
  事、三万両の召し太だ過分たり。先例広く定めて千金を過ぎず。就中、近年商人多く
  境内に入り砂金を売買す。仍って大略堀り尽くしをはんぬ。仍って旁々叶うべからず
  と雖も、求め得るに随い進上すべしと。余申して云く、御使を遣わさるるの條、異儀
  有るべからず。頼朝御返事の趣、申す所尤もその謂われ有り。尤も御使を遣わさるべ
  し。