12月1日 戊辰 雪降る、雷一声。
雪興を催せらる。二品山岳の辺を歴覧せんと欲し給うの処、雷鳴に驚き給うに依って
留めしめ給うと。今日小山の七郎朝光の母(下野大掾政光入道後家)下野の国寒河郡
並びに綱戸郷を給う。これ女性たりと雖も大功有るに依ってなり。
[皆川文書]
**源頼朝下文
(花押)
下 下野の国寒河郡並びに阿志土郷
早く小山七郎朝光母堂を以て地頭職たるべき事、
右、件の所は、早く朝光の母を以て、地頭職に執行せしむべし。住人宜しく承知し、
違失する勿れ。以て下す。
文治三年十二月一日
12月2日 己巳
飛脚を京都に進せらる。行程七箇日に定めらる。これ来十一日、法皇熊野御参詣の間、
砂金を進せらるるに依ってなり。その上、御分三箇国の内の武士等、所々を押領する
由仰せ下されをはんぬ。注文を賜い下知を加うべきの旨言上せしめ給うと。
12月7日 甲戌
梶原平三景時霊鴨を献ず。背と腹白く雪に似たり。美濃の国より出来すと。景時は彼
の国の守護なり。二品殊に賞翫し給う。これ吉瑞と謂うべきか。爰に善信申して云く、
天武天皇の御宇二年八月、帝野上宮に遷座し給うの時、鎮西より三足赤色の雀を献ず。
仍って改元朱雀元年と為す。明年三月、備後の国より白雉を献ず。また朱雀二年を改
め白雉元年と為す。同十五年、大和の国より赤雉を進すの間、年号を改め朱鳥元年と
為す。彼の御宇、大友皇子の逆悪を平らぐの後、天下静謐して、奸邪寝謀の節なり。
佳例たるを以て、随って瑞物多く西国献ずる所なりと。
12月10日 丁丑
橘次為茂免許を蒙る。北條殿の計として、富士郡の田所職を賜う。これ父遠茂は平家
の方人として、治承四年二品を射奉る。仍って日来囚人たりと。
12月11日 戊寅 天晴 [玉葉]
この晩、法皇御進発なり。
12月16日 癸未
上総の介義兼の北の方頓病、頗る危急なり。これを訪わしめ給わんが為、御台所彼の
宿所に渡御す。これ御姉妹たるが故なり。これに依って諸人群集す。晩に及び少減を
得る。邪気と。
12月18日 乙酉
大夫の尉公朝京都より参向す。自訴有るに依って下向せしむと。尋ね成敗せしめ給う
べきかの旨、師中納言の奉りとして五日の御教書を下さるる所なり。また今年進す所
の貢馬頗る異様、後年殊に勤厚有るべきか。次いで貢金未進有り。路次不通の間は別
事なり。当時の凌遅、尤も御不審の由これを載せらると。
12月24日 辛卯
二品並びに若公鶴岡に御参り。
12月27日 甲午
明春正月、二所御参詣有るべきの間、今日供奉人を差し定められ、各々潔斎すべきの
由仰せ下さる。筑後権の守俊兼・平五盛時等奉行すと。