1月1日 丁酉 去る夜より雨零る
鶴岡に御参り例の如し。日中以後霽に属く。大風。佐野の太郎基綱の窟堂下の宅焼亡
す。焔飛ぶが如し。人屋数十宇災す。鶴岡の近所たるに依って、二品宮中に参り給う。
諸人競集すと。
1月6日 壬寅
上総の介義兼椀飯を献ず。馬五疋を相副ゆ。二品南面に出御す。総州自ら銀作の劔を
持参す。御酒宴の最中に御的始め有り。
射手
一番 榛谷の四郎重朝 和田の太郎義盛
二番 愛甲の三郎季隆 橘次公成
1月8日 甲辰
心経会なり。導師は若宮の供僧義慶房、請僧五口。二品出御す。事訖わり御布施を賜
う。導師分は被物二重・馬一疋、請僧口別に裹物一つ。主計の允行政これを奉行す。
1月9日 乙巳 [玉葉]
或る人云く、去年九十月の比、義顕奥州に在り。秀衡隠してこれを置く。即ち十月二
十九日秀衡死去の刻、兄弟(兄他腹の嫡男なり。弟当腹の太郎)和融を為し、他腹の
嫡男を以て当時の妻を娶らしむ。各々異心有るべからざるの由、祭文を書かしめをは
んぬ。また義顕同じく祭文を書かしむ。義顕を以て主君と為し、両人給仕すべきの由
遺言有り。仍って三人一味し、頼朝を襲うべきの籌策を廻らすと。
1月16日 壬子
二品鶴岡宮に御参り。還御の後、二所御精進を始めらる。
1月18日 甲寅
二所御進発近々の間、甲斐・伊豆・駿河等の国の御家人等、山路を警衛すべきの由、
兼日に仰せ付けらるると雖も、今日重ねて触れ仰せらる。これ與州の在所未だ聞かざ
るの間、殊に用意を廻らしめ給うに依ってなり。
1月20日 丙辰
二品鎌倉を立ち、伊豆・箱根・三島社等に参詣せしめ給う。武州・三州・駿州・源蔵
人大夫・上総の介・新田蔵人・奈胡蔵人・里見の冠者・徳河の次郎等扈従す。伊澤の
五郎・加々美の次郎・小山の七郎以下随兵三百騎に及ぶ。三浦の介義澄の沙汰として、
浮橋を相模河に構うと。
1月22日 戊午
比企の籐内朝宗の妻(御台所官女、越後の局と号す)今暁男子平産すと。
1月26日 壬戌
早旦、御台所並びに若公鶴岡宮に御参り。御神楽有り。その後若公御迎えの為、固瀬
河の辺に参り給う。二所より還御有るべきに依ってなり。酉の刻帰着せしめ給う。