1188年 (文治4年 戊申)
 
 

3月2日 戊戌
  三州瘧病平癒の間、今日始めて出仕す。専光房効験を施すの由申さるるに依って、二
  品御感有り。剰え御馬を彼の坊に遣わさると。
 

3月5日 辛丑
  所衆信房、去る月の比鎮西より書状を進す。貴賀井島へ渡る事、條々言上す。去年件
  の形勢を窺い得るに依って、海路の次第これを画図せしめ献覧す。これ難儀たるの由、
  諸人諷詞を奉るに依って、頗る思し食し止むと雖も、彼の絵図を御覧の後、強ち人力
  を疲れさすべからざるかの由、更に思し食し立つと。この間の事、信房殊に大功を竭
  すの間、今日賞を加えらるる所なり。
 

3月6日 壬寅
  梶原平三景時年来の宿願に依って、日来持戒の浄侶をして大般若経一部を書写せしめ
  をはんぬ。これ関東御定運の奉為なり。仍って鶴岡に奉納せんと欲するの間、彼の宮
  に於いて供養を遂ぐべし。御旨と称し導師並びに舞童等を屈請すべきの由言上するの
  間、公私の祈祷を果たさんが為、若宮の宝前に於いて大般若経を供養すべし。導師・
  垂髪等、景時の招請に従うべきの旨、御書を景時に賜うと。
 

3月10日 丙午
  東大寺重源上人の書状到着す。当寺修造の事、諸檀那の合力を恃まずんば曽て成り難
  し。尤も御奉加を仰ぐ所なり。早く諸国に勧進せしめ給うべし。衆庶縦え結縁の志無
  しと雖も、定めて奉加は御権威の重さに順わんか。且つはこの事奏聞先にをはんぬて
  えり。この事未だ仰せ下されず。所詮東国の分に於いては、地頭等に仰せ沙汰を致せ
  しむべきの由仰せ遣わさる。
 

3月14日 庚戌
  前の廷尉康頼入道款状を捧ぐ。これ去年阿波の国麻殖保々司職を拝領す。仍って使者
  を遣わすと雖も、地頭野三刑部の丞成綱許容に能わざるの間、乃具空手の由これを載
  す。当保は、内蔵寮の済物運上の地なり。成綱固く抑留するの間、度々院宣を下され
  をはんぬ。然れば件の所済を除いて、康頼中分すべきの旨御書を下さると。
 

3月15日 辛亥
  鶴岡宮の道場に於いて大法会を遂行す。景時宿願の大般若経供養なり。二品御結縁の
  為御出で。供奉の人々威儀を刷う。而るに御出の期に臨み、武田兵衛の尉有義を召し、
  路次の御劔を役すべきの由仰せらるるの処、頗る渋り申すの間、殊に御気色有り。先
  年小松内府の劔を持つ事、すでに洛中に謳歌す。これ源家の恥辱に非ざるや。彼は他
  門なり。これは一門の棟梁なり。対揚如何てえり。則ち朝光を召し御劔を賜う。有義
  供奉に能わず、逐電すと。
  御出の行列、
   先陣の随兵八人
    小山兵衛の尉朝政        葛西の三郎清重
    河内の五郎義長         里見の冠者義成
    千葉の小次郎師胤        秩父の三郎重清
    下河邊庄司行平         工藤左衛門の尉祐経
   御後二十二人(各々布衣)
    参河の守            信濃の守
    越後の守            上総の介
    駿河の守            伊豆の守
    豊後の守            関瀬修理の亮
    村上判官代           安房判官代
    籐判官代            新田蔵人
    大舎人の助           千葉の介
    三浦の介            畠山の次郎
    足立右馬の允          八田右衛門の尉
    籐九郎             比企の四郎
    梶原刑部の丞          同兵衛の尉
   後陣の随兵八人
    佐貫大夫廣綱          千葉大夫胤頼
    新田の四郎忠常         大井の次郎實治
    小山田の三郎重成        梶原源太左衛門の尉景季
    三浦の十郎義連         同平六義村
   路次の随兵三十人(各々郎等三人を相具す)
    千葉の五郎      加藤太       同籐次
    小栗の十郎      八田の太郎     渋谷の次郎
    梶原の平次      橘次        曽我の小太郎
    安房の平太      二宮の太郎     高田の源次
    深栖の四郎      小野寺の太郎    武藤次
    熊谷の小次郎     中條右馬の允    佐野の太郎
    野五郎        吉河の次郎     狩野の五郎
    工藤の小次郎     小野の平七     河匂の三郎
    廣田の次郎      成勝寺の太郎    山口の太郎
    夜須の七郎      高木大夫      大矢の中七
  御参の後、供養の儀有り。導師は義慶房阿闍梨(伊與と号す。若宮供僧の一和尚)、
  請僧三十口なり。先ず舞楽(箱根の稚兒五人、伊豆山の稚兒三人)。次いで供養。事
  訖わり布施を曳く。源判官代・大舎人の助・籐判官代これを取る。導師の別録銀劔一
  つ。御前よりこれを出さる。前の少将時家予め廻廊に候しこれを取る。筑後の守俊兼
  ・梶原平三景時予め宮中に候し行事すと。
 

3月16日 壬子 [玉葉]
  また門戸毎に四天王像並びに仁王経等を安置供養すべきの由、宣旨を下さる(夢告に
  依ってなり)。
 

3月17日 癸丑
  東大寺の材木周防の国に於いて出杣の処、十本引き失いをはんぬ。仍って諸国に宛て
  られば、還って懈緩を為すべきの間、諸大名に宛てられば、結縁を存じ沙汰し進すべ
  きかの由、院宣有りと雖も、諸御家人の趣善縁の類少なきものか。難渋の思い有らば、
  その大功成り難からんかの由、今日二品の請文を進せらる。次いで庄々に付け申せら
  るる條の事有り。先々申せしめ給うと雖も、未だ左右の仰せ無しと。仍って重ねて事
  書を整えらると。
   一、陸奥白河領(元信頼卿知行、後小松内府領)の事
    この所不輸の知行に候。但し未だ本家に弁ぜず。もし院の御領たらば、年貢を済
    すべく候か。将又随時御大事を相営むべく候か。仰せに随うべく候。
   一、私に寄進の神社領の事
    朝家御祈祷の奉為寄進する所なり。但し本所の年貢を済すは、早く下知を加うべ
    く候。
   一、下野の国中泉・中村・塩谷等の庄の事
    件の所々、没官の注文に入らず候と雖も、坂東の内として自然知行し来たり候。
    年貢の事子細同前。
   一、常陸の国村田・田中・下村等の庄の事
    或いは安楽寿院領、或いは八條院御領と、年貢何れの御倉に沙汰すべく候や。
 

3月19日 乙卯
  遠江の守義定の使者参着す。当国所領に於いて、下人等をして用水を引かしむの処、
  近隣熊野山領の住民等相支うの間、闘乱を起こし相互に刃傷に及ぶ。仍って彼是これ
  を搦め進すと。而るに熊野山定めて子細を申すか。その程召し置かるべしと称し、こ
  れを返し遣わさると。
 

3月21日 丁巳
  梶原平三、御所に於いて経営頗る美を尽くす。盃酒椀飯を献ず。二品侍の上に出御す。
  諸人群集す。就中、去る十五日の供奉人・所役の輩を召し聚む。また若宮の伊與阿闍
  梨義慶、請いに依って兒童等を相具し参入す。御酒宴歌舞に及ぶ。この事、去る十五
  日宿願無為に遂行するの間、慶びを申す所なりと。
 

3月26日 壬戌
  諸国に四天王像を造立し奉るべきの由宣下せらる。東国分の事、今日施行せらる。大
  夫屬入道これを奉行すと。
 

3月29日 乙丑 [玉葉]
  散位籐の資定(院の北面に候す。夙夜の冠者と号す)罪名を勘ぜらる。左大臣、大外
  記師尚に仰すと。三上盛数(近江の国住人)を以て左兵衛の尉に任ずと称し、偽書の
  聞書を入る。これその任料を貪らんが為と。
 

3月30日 丙寅 [玉葉]
  伝聞、今日流人を召し返す官符の事を行う。上卿實家卿。(前の権大僧都良弘平氏縁
  坐の者に依って、元暦二年阿波の国に配流す)