1188年 (文治4年 戊申)
 
 

4月2日 戊辰
  藍摺・供御の甘海苔等を仙洞に進せらると。
 

4月3日 己巳
  鶴岡宮臨時祭。二品御参り。流鏑馬、専らその堪能を召さる。故波多野右馬の允義経
  が嫡男有経、曩祖に恥じざる達者なり。仍って今日の清撰に応ず。頗る抜群の芸を施
  す。御感の余り一村(亡父所領の随一と)を給う。父義経、去る治承四年誅戮の後、
  囚人として景能に召し預けらるる所なり。七箇年を経て、遂にこの慶賀有りと。
 

4月5日 辛未 甚雨 [玉葉]
  造東大寺の事、遮って支度を諸国に配せらるべきや如何てえり。申して云く、役夫工
  の間、然るべからざるか。造寺の例有りと雖も、この大事、忽ちに成るべからず。而
  るにまた役夫工の妨げを為すべきが故なり。しかのみならず、忽ち上人急ぎ申す所は、
  引き置く所の大柱、海浜に引き出さるべき事なり。件の條は、便宜の国々の大名に仰
  せ、堪否に随い本数を定め宛てらるべし。その外、また院の御沙汰として、貴賤を論
  ぜず勧進せらるべきかてえり。
 

4月9日 乙亥
  奥州に下向するの官史生国光・院の廰官景弘等、去る月二十二日出京す。これ泰衡に
  仰せ、豫州を搦め進すべきの由なり。彼の両人宣旨並びに廰の御下文等を帯し、今日
  すでに鎌倉に参着す。宿次の雑事等、官の宛文有り。仍ってその旨を守り、懈緩無き
  の儀沙汰を致すべきの由、重成・重忠・重長等に仰せらると。宣旨状等、二品内々こ
  れを覧玉う。
      文治四年二月二十一日     宣旨
    出羽の守藤原保房言上し、東海・東山両道の国司並びに武勇の輩に仰す。その身
    を追討せらるる源義経及び同意の者等、当国に乱入し、毀破の旧符を以て偽り当
    時の宣旨と号し、謀叛を致す事
   抑も件の義経、忽ち逆節を図り、猥りに憲條に乖く。然る間神明鑑を垂れ、賊徒敗
   奔す。仍って五畿七道の諸国に仰せ、慥に索め捕るべきの由、宣下先にをはんぬ。
   爰に義経身を容れる所無く、奥州に逃げ下る。先日の毀符を捧げ、当時の詔命と称
   し、辺民を相語り野戦をせしめんと欲すと。件の符は、縡叡襟より出ず。自由の結
   構、武威の致す所なり。茲に因って毀破すべきの由、即ち綸旨を下されをはんぬ。
   何ぞその状を以て、今遵行せんと欲するや。奸訴の趣、責めて余り有り。しかのみ
   ならず風聞の如きは、前の民部少輔基成並びに秀衡法師の子息泰衡等、彼の梟悪に
   与し、すでに鳳銜に背き、陸奥・出羽の両州を虜掠し、国衙・庄家の使者を追い出
   す。普天の下、寰海の内、何れか王土に非ざらん。誰か王民に非ざらん。爭か違勅
   を存じ、暴虐に同ずべきか。而るに凶徒を隠し居き、謀叛を巧ましむ。倩々所行の
   躰を憶うに、殆ど造意の旨に超えたり。但し泰衡等同心の儀無くば、且つは義経の
   身を召し進し、且つは庄公の使を受用せよ。猶朝章に拘わらざれば、爭か天譴を免
   がるべけんや。不日に官軍を遣わし、共に征伐を致すべきなり。件の輩等、早く容
   隠の思いを変じ、宜しく勲功の節を抽んずべし。縦え辺胡と云うとも更に違越する
   こと莫れ。
                    蔵人右衛門権の佐平棟範(奉る)

   院の廰下す 陸奥・出羽両国司等
    宣旨状に任せ、前の民部少輔籐原基成並びに秀衡法師の男泰衡等、且つは義経の
    身を召し進し、且つは国司及び庄牧使等を受用せしむべき事
   右源義経並びに同意の輩、当国に闘入し、更に毀破の旧符を以て偽り当時の宣旨と
   号し、謀叛を致すの由、出羽の国司在状を勒し言上を経る。仍って彼の状に就いて
   宣旨を下されすでにをはんぬ。基成・泰衡等、縦え風聞の説の如く、謬りて狼心の
   群に與すとも、勅命これ重し。慥に前非を改めて、宣下状を守り義経の身を召し進
   せよ。件の義経の前咎後過を尋ね、綸旨に載すと雖も、積悪の余り天譴ここに臻り、
   奸謀成すこと無し。空しく以て敗亡の後、竊に毀符を捧げ奥州に遁げ赴くと。誠に
   辺民の至愚を云うと雖も、爭か奸心の余党に随うべきや。しかのみならず秀衡法師
   の子息等、責めを幽顕に顧みず、ただ事を左右に寄せ、陸奥・出羽両国の吏務を自
   由に抑留し、使者を追却す。結構の趣還って疑慮に渉る。事もし実ならば、謀叛の
   同罪に処せられ、官軍をして以て征伐せしめ、鸞鳳銜螫族を捕り搦めば、その勲労
   に随い、須く優賞有るべきの状、仰せの所件の如し。両国司等宜しく承知すべし。
   遺失すること莫れ。故に下す。
     文治四年二月二十六日         主典代織部の正大江朝臣
      別当左大臣藤原           判官代河内の守藤原朝臣
      右大臣藤原             民部少輔兼和泉の守藤原朝臣
      大納言源朝臣            左近衛権の少将藤原朝臣
      大納言兼左近衛大将藤原朝臣     散位藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣          紀伊の守藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣          土佐の守藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣          勘解由次官平朝臣
      権中納言藤原朝臣          左衛門権の佐藤原朝臣
      権中納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣  左少弁藤原朝臣
      権中納言藤原朝臣          防鴨河使左衛門権の佐平朝臣
      権中納言兼左衛門の督藤原朝臣    木工の頭藤原朝臣
      権中納言藤原朝臣          左少弁藤原朝臣
      権中納言源朝臣           参議備前権の守藤原
      権中納言藤原朝臣          参議左大弁兼丹波権の守平朝臣
      参議左兵衛の督藤原朝臣       右京大夫兼因幡権の守藤原朝臣
      宮内卿藤原朝臣           内蔵の頭藤原朝臣
      右近衛権の少将播磨の守藤原朝臣   修理大夫藤原朝臣
      修理右宮城使右中弁平朝臣      造東大寺長官権右中弁藤原朝臣
      修理権大夫藤原の朝臣        丹後の守藤原朝臣
 

4月10日 丙子
  去る元暦二年五月二十二日、流罪せらるる所の平氏縁坐の内、前の法印大僧都良弘阿
  波の国に遣わされをはんぬ。而るに去る三月三十日召し返さるるの由、親能これを申
  す。
 

4月12日 戊寅
  院宣等到来す。或いはこれより勅答を申され、或いは始めて仰せ下さるる條々の事な
  り。院宣に云く、
   今月十七日の御消息、同二十六日到来す。委しく奏聞し候いをはんぬ。造東大寺材
   木引夫の事、諸国の庄園公田に支配せらるべきと雖も、他事を以て推察せしめ御う
   の処、面々に対捍し申し、闕如の基たらんか。仍って諸国の大名等に宛て催せしめ
   給わば、定めて不日の功を終わらんか。且つはまた勧進上人計り申せしむるに依っ
   て、その旨を仰せ遣わされをはんぬ。然れども今申せしめ給う趣、その謂われ無き
   に非ず。且つは議定を経て、且つは上人に仰せ合わされ、重ねて仰せ遣わさるべき
   の由、御気色候所なり。仍って執達件の如し。
     三月二十八日         太宰権の師籐経房(奉る)
  重ねて仰す
   良弘の事、御返事同じく以て到来す。申せしめ給うの旨聞こし食しをはんぬ。計り
   御沙汰有るべきなり。先月折紙に注し申せしめ給うべく候。下野の国仲村・仲泉・
   塩屋三箇所の事、前の摂政家進せらるる所の折紙此の如し。彼の家領たりと。申状
   に任せ、早くその沙汰を致せしめ給うべきなり。一日仰せ遣わさるる所の恰土屋庄
   の事、法金剛院領他に異なるの上、能盛法師由緒有り伝領す。殊に歎き申せしむる
   の旨、糸惜しみ思し食すの間、重ねて仰せ遣わさるる所なり。他所に准えず地頭を
   止められば、御本意たるべきかの由、御気色候所なり。
  私に申す
   諸国庄々の地頭の事、御消息の旨、内々申し入れ候いをはんぬ。この事此の如く仰
   せ遣わされまほしく思し食すと雖も、且つは御憚りを成し、且つは存ぜしめ給うの
   様あるらんとて御猶予の処、今申せしめ給うの旨、尤も以て神妙なり。万人悦豫せ
   ば、天下も定めて旧に復さんか。返す々々悦び思し食すの由候所なり。仍って御教
   書書き献り候所なり。この旨を以て御沙汰有るべく候なり。
  院宣に云く
   諸国庄園の地頭等、国は宰吏に随わしめ、庄は領家に随うべきの由、或いは下文を
   成し進し、或いは下知を加うべきの旨、再三申せしめ給いをはんぬ。然れども所々
   より申し訴えしむる如きは、ただ地頭を補すと云うを以て、偏に庄家を押領する如
   し。貴賤上下徒に愁歎に疲れ、神社仏寺鎮に訴訟を抱く。兆民の歎き、猶天責を為
   さん。何ぞ況や仏神に於いてをや。神領は神事の違例を恐れ、定めて咎に成すこと
   出来せんか。寺領は仏事の陵遅を悲しみ、罪業を謝し難からんか。倩々天下の擾乱
   を思うに、豈地頭の濫妨に非ざるか。衆庶の愁いを散ぜられば、定めて落居の基た
   らんか。但し地頭の中、その性の好悪に依ってその勤めの軽重有りと。然れば能く
   子細を尋ね捜し、勤否に随い、勤め無き者を改易し、勤め有る輩を抽賞せば、偏に
   奸謀を恣にするも、盍ぞ勤節を表わさざらんや。一向領家を用いざるの輩に於いて
   は、尤も罪科に処せらるべきなり。兼ねてまた去々年以後、庄々の年貢已下領家の
   得分等委しく尋ね進し、未だその済否に随わざれば、賞罰を加えらるべきか。逐年
   領家の返妙を召し取り、且つは進覧せしめ、且つは本家に付けしめ給うべきか。家
   人の不当たりと雖も、すでに一身の不当に如かず。積もる所尤もその恐事有らんか。
   去り難く思し食すの余り、此の如く仰せ遣わさるる所なり。就中、近曽天変地妖連
   々奏聞有り。これ則ち人の愁い重疊するが故か。妖は徳に勝らず、徳政に如くべか
   らず。徳政と謂うは、人の愁いを散ずるを以て先と為すべきなり。この旨を存じ、
   殊に沙汰を致せしめ給わば、四海静謐し、万人仁に帰さんか。てえれば、院宣此の
   如し。仍って執達件の如し。
     三月二十八日         太宰権の師籐経房(奉る)
   謹上 源二位殿
 

4月13日 己卯 [玉葉]
  院の御所(六條北、西洞院西)忽ち焼亡有り。院は今熊野に御参籠の間なり。
 

4月20日 丙戌
  酉の刻親能の飛脚京都より参着す。去る十三日六條殿焼亡すと。宝蔵並びに御倉は災
  を遁れると雖も、長講堂に於いては災す。本尊はこれを取り出し奉ると。
 

4月21日 丁亥
  飯田の新籐次使者として上洛す。六條殿の火事、殊に驚き申し給うが故なり。御書を
  進せらるるの上、意を得て然るべきの様伺い奏せらるべきの由、御文を右武衛に遣わ
  さると。
 

4月22日 戊子
  夜に入り、御台所の御方の女房(千手の前と号す)御前に於いて絶入し、則ち蘇生す。
  日来差せる病無しと。暁に及び、仰せに依って里亭に出ると。
 

4月23日 己丑
  御持仏堂に於いて法華経の講読を始行せらる。唱導師は阿闍梨義慶なり。これ毎月二
  十三日の式たるべしと。この日、御台所御祖母の忌日なり。
 

4月25日 辛卯
  今暁千手の前(年二十四)卒去す。その性太だ穏便、人々惜しむ所なり。前の故三位
  中将重衡参向するの時、不慮に相馴れ、彼の上洛の後、恋慕の思い朝夕休まず。憶念
  の積もる所、若くは発病の因たるかの由人これを疑うと。