1188年 (文治4年 戊申)
 
 

5月1日 丙申
  酉の刻、乾方に響きを成す。これ若くは魂を打つか。雷声に非ず。恒に聞き及ばずと。
 

5月4日 己亥
  奥州下向の官使の雑事等丁寧を致しをはんぬるの由、武蔵・下野両国の御家人等状を
  捧ぐ。今日俊兼に付き献覧すと。
 

5月15日 庚戌 天晴 [玉葉]
  関東より知家の所従を召し進す(この事、去年京中夜行を催せらるの時、件の知家下
  人その事の功に闕けるを以て、検非違使これを取り擬す。而るに知家使いを遣わし奪
  い取る。以ての外の狼藉なり。使の廰欝し申す。仍って関東に仰せ遣わし召し進す所
  なり)。大理卿に仰せ遣わさんが為、検非違使明基を召し遣わしをはんぬ。
 

5月16日 辛亥 天晴 [玉葉]
  晩頭、経康参上す。知家奪い取る所の犯人、二位卿の許より召し進せらるる所なり。
  使の廰に給うべしてえり。早く請け取らるべしと。
 

5月17日 壬子
  遠景已下御使等、貴賀井島に渡り合戦を遂ぐ。彼の所すでに帰降するの由言上する所
  なり。而るを宇都宮所衆信房殊に勲功を施すと。爰に信房の近江の国の領所は、去る
  比非違別当家領に付せられをはんぬ。この大功に就いて、返し給うべきかの由言上す。
  次いで鎮西庄は、成勝寺執行昌寛の眼代妨げを成すの間、昌寛の返状を召し下し給う
  と雖も、猶以て静謐せず。濫行を企てるの趣訴え申すと。仍って彼是沙汰有り。大理
  は寵臣たるに依って、件の庄に限らず地頭を止むべきの旨、綸旨を下さるるの間、関
  東爭か泥み申されんや。執行眼代の事は、加判せらるべし。但し再三これを訴え申す
  べきと雖も、関東の国に於いて、自由の勘発を成すべからざるの由仰せらると。今日
  定められて云く、御急劇の時、御教書に御判を載せらるべからず。掃部の頭の判たる
  べし。もし故障の時は、盛時の判たるべきの由と。

[玉葉]
  関東犯人を搦め進すの間の事、奏聞すべきの由これを仰す。この日、検非違使経康来
  たり。大理の返報を示して云く、関東より召し進す所の犯人(知家郎従)、早く召し
  行い、勘勺を加うべし。召し進せらるるの條、尤も神妙、則ち経康請け取るべきの由
  仰せをはんぬ。
 

5月21日 丙辰
  八田右衛門の尉知家の郎従庄司太郎、大内夜行の番に遣わさるるの処、懈緩の由風聞
  せしむに依って、早くその身を使の廰に召し進すべきの趣、今日定綱に仰せ遣わさる。
  この上鎌倉中の道路を造るべきの旨、知家に仰せらると。