1188年 (文治4年 戊申)
 
 

7月4日 戊戌
  信濃の守遠元鐘愛の息女初めて営中に参る。若公の御介錯たるべきの由定め仰せらる
  と。
 

7月5日 己亥 天晴 [玉葉]
  宗頼朝臣来たり云く、八幡の別当成清、御綱神人訴えの間の事、條々申す旨有りと。
  余云く、凡そ愚力の及ぶ所、去年沙汰の淵源を窮めをはんぬ。而るに能保朝臣拘わり
  て承引せず。院宣また詳らかならず。その上は全く微力の及ぶ所に非ず。早く直に関
  東に触れ仰すべしてえり。
 

7月10日 甲辰
  若公(万寿公、七歳)始めて御甲を着せしめ給う。南面に於いてその儀有り。時刻に
  二品出御す。江間殿参進し御簾を上げ給う。次いで若公出御す。武蔵の守義信(乳母
  夫)・比企の四郎能員(乳母兄)これを扶持し奉る。小時小山兵衛の尉朝政御甲直垂
  (青地錦)を持参す。以前の御装束を改む。朝政御腰を結び奉る。次いで千葉の介常
  胤御甲納櫃を持参す。子息胤正・師常これを舁き前行す。胤頼扶持し、また後に従う。
  常胤御甲を南に向かい立てしめ給う。この間梶原源太左衛門の尉景季御刀を進す。三
  浦の十郎義連御劔を進す。下河邊庄司行平御弓を持参す。佐々木の三郎盛綱御征矢を
  献る。八田右衛門の尉知家御馬(黒、鞍を置く)を献る。子息朝重これを引く。三浦
  の介義澄・畠山の次郎重忠・和田の太郎義盛等扶け乗せ奉る。小山の七郎朝光・葛西
  の三郎清重騎の轡を付く。小笠原の弥太郎・千葉の五郎・比企の彌四郎等御馬の左右
  に候す。三度南庭を打ち廻り下り御う。今度足立右馬の允遠元これを抱き奉る。次い
  で甲以下解脱す。親家御物具・御馬を給い、御厩の納殿等に入る。その後武州御馬を
  二品に献る。里見の冠者義成これを引く。次いで西侍に於いて盃酒有り。二品寝殿の
  西面(母屋の御簾を上ぐ)に出御す。武州経営する所なり。初献の御酌は朝光、二献
  は義村、三献は清重なり。入御の後、武州酒肴並びに生衣一領、同じく小袖五領を御
  台所に奉る。若公の御吉事を賀し申すが故なり。
 

7月11日 乙巳
  六條殿の御作事、二品御知行の国役は、親能の奉行として、大工国時を以て造進せら
  れんと欲す。遠江の国所課の事御教書を下さる。今日到来す。則ち彼の国司義定に付
  けらると。
   六條殿御作事の間、六條面の築垣一町・門等造進せらるべし。てえれば、院の御気
   色に依って、執達件の如し。
     六月二十七日         権右中弁
   遠江の守殿
 

7月12日 丙午 雨降る [玉葉]
  宗隆来たり云く、八幡神人訴え申す宗長罪科の事、先日余の申状を以て奏聞す。仰せ
  に云く、能保朝臣に仰すべしてえり。則ち御教書(その案を持ち来たる)を以て仰せ
  遣わすの処、請文斯く(猶宗長に拘わるの趣なり)の如し。
 

7月13日 丁未
  武蔵の国平澤寺院主職の事、僧永寛に付けられをはんぬ。また師中納言(経房卿)の
  奉書到来す。隠岐の守仲国、宮内権大輔重頼地頭と称し所々を押領するの由を申す。
  仍って今日御請けを申さる。
   隠岐の守仲国申す重頼押領の事、尤も以て不便に候。消息を以て重頼に下知せしめ
   候いをはんぬ。てえれば、隠岐の国司仲国の申状を献り、これに就いて、この事院
   より仰せ下されて候なり。聞こし食す如きは、濫行不便の由に候なり。然れば今に
   於いては、件の所々をば、いかで候てか知行せしめ給うべきや。抑もその中村別府
   の事こそ、奏したりとも覚悟せず候へ。何様の次第に候や。仍って以て執達件の如
   し。
     七月十三日          御判
   宮内大輔殿
  この外、美濃の国の郷々地頭押領の事、能盛入道・為保・成季等進す所の折紙並びに
  在廰の勘状、同じくこれを下さる。また美豆牧司申す本庄並びに高運島の事、景時代
  官所当を弁ぜざる由の事、尋ね沙汰せしむべし。てえれば、尋ね究め御下文を成さる
  べきの由と。
 

7月15日 己酉
  先考御追福の奉為、勝長寿院に於いて万燈会を勤修せらる。武州並びに常胤・遠元等
  これを沙汰す。二品及び御台所等御参堂有りと。
 

7月17日 辛亥
  右武衛の飛脚参着す。去年夏の比、御家人藤原宗長と石清水の神人等と闘靜す。神人
  聊か疵を被るに依って、去る十一日院宣を下さるる所なり。この事度々仰せらるると
  雖も、左右無く召し進すの條、傍輩の思う所その恃み無きに似たり。仍って猶予する
  の処、事すでに重事に及ぶ。何様進退すべきやと。則ち院宣を副え進せらる。
   放生会駕輿丁の神人等訴え申す事、法印成清の申状これを遣わす。この事、去年す
   でに神事違例に及ぶ。今年に於いては、違乱異儀有るべからざるか。朝家の大事こ
   の事に非ざるや。抑も神社の訴訟その理無きと雖も、敬神他に異なるに依って、一
   旦裁許有り。追って厚免せらるは常法なり。然れば彼の宗長、先ずその罪科を贖い、
   追って左右有るべき事なり。随ってまた指せる親族に非ず、ただ郎従たるか。且つ
   は公私の為宜しく忠を顕わすべし。強ち拘留申せしめ給うべからざるか。てえれば、
   院の御気色此の如し。仍って執啓件の如し。
     七月十一日申の刻       勘解由次官宗隆
   進上 右兵衛の督殿
 

7月28日 壬戌
  式部大夫親能武威に募り、他人の領所を貪り、乃貢を抑留するの間、勅問に預かると
  雖も陳謝を失うの由、その讒出来するに依って、二品親能の許に尋ねしめ給うの処、
  委細の言上に能わず。ただ去る六月すでに陳状を捧げをはんぬ。案文これを献上す。
  もしこの事に候かの由これを申す。曲折無きかの由、二品感ぜしめ給うと。
   謹請 院宣二箇條の事
   一、駿河の国蒲原御庄御年貢の事
    右件の御庄、大外記師尚相親しきに依って記付せしむの間、内儀を以て沙汰を致
    せしむの処、文治元二両年は、究済せしめ返妙に預かりをはんぬ。彼の師尚朝臣
    に召し尋ねらるべきか。去年分は、去る四月積載せしめ解纜せしめをはんぬ。
   一、越後の国大面御庄御年貢の事
    右件の御庄、文治元二両年の分、領家(中納言入道)に運上するの旨、沙汰人申
    し上げる所なり。もし御不審有らば、雑掌を本家に進せ、散状を申すべきか。去
    年分の早米は領家に進納す。後米は或いは積載せしむと雖も、未だ着否を承らず。
    或いは庄庫に納め置かしむと。院宣に依って庄務を止めらるるの故、召し上げの
    沙汰に依っては、積載を遂げざるの由、申し上げる所なり。
   以前の両條、謹んで言上件の如し。親能誠惶誠恐謹言。
     文治四年六月十一日      散位藤原朝臣親能