8月9日 壬申
台嶺の悪僧等豫州に同意する事、前の民部少輔基成並びに泰衡同人を奥州に穏容する
事、御沙汰頗る遅怠す。急速に申し達せしめ給うべきの由、右武衛に仰せらると。
8月15日 戊寅
鶴岡の放生会なり。二品御参り。先ず法会の舞楽、次いで流鏑馬。幸氏・盛澄等これ
を射る。
8月17日 庚辰
右兵衛の督能保の消息到来す。路辺群盗蜂起の事、疑貽の分に至りては、所々に相触
れをはんぬ。就中、叡山飯室谷竹林房住侶来光房永實の同宿(千光房七郎僧と号す)、
悪徒浪人等を招き卒いて、夜討ち以下の悪行をせしむの由、普く風聞するの間、奏聞
を経をはんぬ。仍って法印圓良に仰せ召さるるの処、去る四日彼の僧を召し進すの由、
請文を捧ぐ所なりと。また云く、藤原宗長石清水の訴えに依って、去る五日配流の官
符を下さる。土佐と。
8月20日 癸未
前の廷尉康頼入道また訴状を捧ぐ。これ阿波の国麻殖保の事、地頭刑部の丞成綱武威
に募り、保司を用いざるの間、恩沢拠所無きに似たり。しかのみならず、内蔵寮の済
物闕乏するの故、成綱の地頭職を停止すべきの由、院宣を下さるる所なり。彼と云い
是と云い、二品驚かしめ給う。地頭を諸国に補し置かるる事、朝廷を警衛し、国乱を
治めんが為なり。而るに公物を抑留し、穏便ならざるの由沙汰有り。成綱地頭職を領
掌せしむと雖も、領家方に相交るべからざるの旨仰せ下さると。
8月23日 丙戌
波多野の五郎義景と岡崎の四郎義實と、御前に於いて対決を遂ぐ。これ相模の国波多
野本庄北方は、義景累代相承の所領なり。而るに在京の隙を窺い、義實これを望み申
す。帰参の後義景申して云く、当所は、保延三年正月二十日、祖父筑後権の守遠義二
男義通に譲與すと。また嘉応元年六月十七日、義景に譲るの後、牢籠無きの処、何の
由緒に依って望み申すや。これに就いて召し決せらるるの刻、義實申して云く、孫子
先法師の冠者に與うべきの由、義景先年の状有りと。義景申して云く、先法師は義景
の外孫なり。縦え譲状を請けると雖も、外祖存生す。爭か競望すべきか。これ偏に義
實の奸曲なりと。義實雌伏す。未来を全うせんが為言上する所なりと。御成敗に云く、
当所の進退、宜しく義景の意に任すべし。義實の造意尤も不当なり。その科に依って、
百箇日の間鶴岡並びに勝長寿院等の宿直に勤仕すべしと。
8月27日 庚寅 天晴 [吉記]
今日六條殿棟上げ有るべし。而るにこの両三日以前沙汰の延引有りをはんぬ。来十月
十八日と。
8月30日 癸巳
諸国殺生を禁断すべきの由、宣旨状到着す。これ二品申請せしめ給うに依ってなり。
その状に云く、
文治四年八月十七日 宣旨
殺生の誡め、厳制重疊す。随ってまた去年十二月、殊に綸絲を下されをはんぬ。而
るに荒楽の輩、ややもすれば法禁を破るの由その聞こえ有り。就中流毒・焼狩は、
典章の指す所、その罪尤も重し。ただ猪鹿の獲物を尽くすに非ず、忽ち飛沈の類に
逮ぶ。内に仏戒を破り、外に聖記に背く。宜しく五畿七道の諸国に仰せ、永く禁遏
に従わしむべし。
蔵人の頭右中弁兼忠