1188年 (文治4年 戊申)
 
 

9月1日 甲午
  信濃の守遠光の息女宮仕として、始めて二品に謁し申す。その名大貳の局たるべきの
  由仰せらると。信州盃酒を献る所なり。
 

9月3日 丙申
  宮内大輔重頼不法の事、院宣を下さるるに就いて、早く停止せらるべきの由、重頼に
  仰せ遣わさる。また勅願寺領の年貢済否の事、面々に尋ねらるると雖も、地頭の請文
  等未だ整わざるの間遅々するの由、同じく申さるる所なり。
    若狭の国司申す、松永・宮川保の地頭宮内大輔重頼国命に随わざる事、非法を停
    止せしむべきの由、下文を成し進上せしめ候。
   右件の事、いかにも御定に有るべく候なり。領家尋常にて地頭の不当極まり無きの
   所多く候。また地頭尋常にて、年貢懈怠を致さざる所々も候。而るに領家中にも、
   地頭を悪みて勝ちに乗って訴え申す事も候の由、承り及び候なり。然れば記録書へ
   も召され候て、真偽を決して御裁許候わば、不当の地頭は恐れを成して、忠節心を
   励ましめ候か。また尋常の地頭は、いよいよ公平を存ぜしめ候か。尤も勤否を召し
   問わるべく候なり。但しそのために召され候はん輩、若くは参上せしめず候か。交
   名を注し給い、召し進せしむべく候なり。この旨を以て申し上げしめ給うべく候。
   頼朝恐々謹言。
     九月三日           頼朝(裏判在り)
   追って言上す
    去る六月四日到来し候御教書の中、仰せ下され候金剛心院並びに蓮花王院領等の
    御年貢済否の事、相尋ね候の処、地頭等在所の国々相隔て候の故、今に調わず候
    なり。仍って遅々す。尤も恐れ思い給い候。重ねてこの旨を以て申し上げしめ給
    うべく候。恐々謹言。

   下す 若狭の国松永並びに宮川保の住人
    早く先例に任せ国衙の課役に勤仕せしむべき事
   右件の所の地頭宮内大輔重頼事を所職に寄せ、国事を押妨する由国解に依って、院
   より仰せ下さるる所なり。早く地頭の事に付けるの外、国衙の課役に於いては、非
   法の妨げを停止し、先例に任せその勤めを致すべきの状件の如し。以て下す。
     文治四年九月三日
 

9月6日 [摂津勝尾寺文書]
**梶原景時下文
  下 吹田御庄沙汰人等
   早く免田壹町壹段奉らしむべき事、
  右田は、去年の比、瀧口入道名田を以て勝尾山へ寄進せしむと云々。然と雖もその後
  この沙汰無きか。而るに今彼の山に聖人出来、元の如く奉免せらるべきの由申せしむ
  るの間、鎌倉殿の仰せに依って、奉免せしむ所件の如し。御庄沙汰人等宜しく承知し、
  遺失すべからず。以て下す。
    文治四年九月六日        平三(花押)
 

9月14日 丁未
  尊南坊僧都定任熊野より参向す。これ年来御本尊(愛染王像)並びに御願書を給い置
  き、御祈祷の薫修を積むなり。二品偏に二世の悉地を恃ましめ給う。而るを城の四郎
  長茂は、平家の一族として関東に背くの間、囚人として景時に預け置かるる所なり。
  これまた定任を以て師檀と為す。仍って参上の次いでを以て免許有り。御家人に召し
  加えらるべきの由、頻りに執り申すの間、二品召し仕うべきの由仰せらる。今日定任
  御所に参る。簾中に召し入れられ、世上の雑事を談り給う。御家人等侍(二行、東を
  以て上と為す)に着座す。南の一座は重忠、北の一座は景時なり。爰に長茂参入す。
  諸人目を付けるに、長七尺の男なり。白の水干・立烏帽子を着す。二行着座の中を融
  り参進し、横敷に着し、簾中を後に宛つ。その内より二品御一覧、是非を仰せられず。
  定任この躰を見て頗る赭面す。景時長茂に対して云く、彼の所は二品御坐の間なりと。
  長茂存知ざるを称し、座を起ち即ち退出す。その後定任執り申すに及ばずと。この長
  茂(本名資盛)は、鎮守府将軍維茂(貞盛朝臣の弟なり)の男、出羽城介繁茂七代の
  裔孫なり。維茂の勇敢上古に恥じざるの間、時の人これを感じ、将軍宣旨以前に、押
  して将軍と称す。而るを武威を以て大道を為すと雖も、毎日法華経八軸を転読し、毎
  年六十巻(玄義文句止観)一部を一見す。また恵心僧都に謁し住生極楽の要須を談る。
  繁茂生まれて則ち逐電す。悲歎を含みながら四箇年を経て、夢想の告げに依って捜し
  求むの処、狐塚に於いてこれを尋ね得て、家に持ち来たる。その狐老翁に変ぜしめ忽
  然と来たり、刀並びに抽櫛等を嬰児に授くと。翁深窓に於いて養育せしめば、日本の
  国主たるべし。今に於いては、その位に至るべからずと。嬰児は則ち繁茂なり。長茂
  遺跡を継ぎ彼の刀を給い、今にこれを帯すと。

[玉葉]
  棟範来たり條々の事を申す。その中、頼朝卿の請文有り。先日奥州に遣わす官使、泰
  衡の請文、並びに両府申状の返状を持参するなり。左右ただ勅定に在るべしと。この
  状、経房卿遣わす所なり。且つは奏聞しをはんぬ。然れども奉行人に付すべきの由、
  御定有り。仍って付す所なりと。今日、早く奏聞すべきの由仰せをはんぬ。
 

9月21日 甲寅
  岡崎の四郎義實罪科に依って、鶴岡・南御堂等の宿直に勤仕すべきの由命を含み、数
  日丹府を悩ます。而るに義實郎従等、筥根山麓に於いて、山賊の主(字王籐次)を搦
  め進すの間、今日免許を蒙る所なり。
 

9月22日 乙卯
  信濃の国伴野庄乃貢の事御闕怠、毎度尋ね下すに依って、向後この儀有るに於いては、
  殊にその沙汰有るべきの由、地頭小笠原の次郎に仰せらるるの間、これを弁償せしむ。
  仍ってその趣を師中納言の許に仰せ遣わさると。
   信州伴野御庄の御年貢沙汰し進せしむの由、地頭長清申せしめ候所なり。恐々謹言。
     九月二十二日         頼朝
   進上 師中納言殿
   追って申す。
    何れの御倉に検納せらるべく候とも、定め下され候なば、毎度書状を以て申し上
    げべからず候。ただ地頭下知せしむべく候ものなり。重ねて恐々謹言。