1188年 (文治4年 戊申)
 
 

10月*日 [正閏史料]
**源有経解写
  散位源有経解 申請 国裁の事
   殊に実正の理に任せ、国判を申し賜うを請う、八幡領本公験等、去る乱□山落軍兵
   の為子細状を奪い取らる、
  一 八幡本領主膳太子調度文書並びに譲状
   祖父国基朝臣譲状
   親父経房朝臣譲状
  一 見島次郎宗祐預かり置く文書等
  一 向津奥三明房湛西預かり置く文書等
  右、謹んで案内を検ずるに、八幡領は先祖相伝今に異議無し、而る間□検の文書等に
  於いては、以て去る文治元年三月三十日九郎判官殿平家を追討するの間、讃岐の御目
  代字後藤兵衛の尉の歩兵、山落と号す、豊西南条小野山に入り、奪い取られをはんぬ。
  仍って後代證文の為、所謂留守所並びに在廰の署判なり。国裁を望み請う。證判の旨
  に任せ国判を賜い、永代の公験たらんと欲す。子細を勒し言上件の如し。以て解す。
    文治四年十月 日       散位源有経(上)
  左兵衛佐兼大介藤原朝臣(押字)
 

10月4日 丙寅
  右衛門権の佐定経の奉書を以て仰せ下さるるの備前の国福岡庄の事、今日御請文を進
  せらるる所なり。
   先日仰せ下され候所の備前の国福岡庄の事、没官の注文に入れられ、下し給い候い
   をはんぬ。而るに宮法印御房、讃岐院の御国忌を勤修せしめ難きの由、歎き仰せら
   れ候の間、件の庄を以て彼の御料と為すべき由申し候て、左右無く子細を知らず、
   奉還せしめ候いをはんぬ。この條別の僻事に非ざる候か。而るに今此の如く仰せ下
   され候。早く重ねての御定に随い左右せしむべく候。御定の上は、一事と雖も何ぞ
   緩怠に及ばしめ候。この趣を以て披露せしめ給うべく候。頼朝恐惶謹言。
     十月四日           頼朝(裏判在り)
   進上 右衛門権の佐殿
 

10月10日 壬申 浮雲所々に掩い、雨僅かに灑ぐ。即ち止む
  巳の刻、窟堂の聖阿弥陀佛房勝長寿院に詣で礼仏。退出の後、路に於いて頓滅(年八
  十四歳)す。希有の事なり。則ち当寺の供僧良覺の沙汰として入棺す。亥の刻葬送。
  藁を以て火葬すと。凡そこの間人庶多く以て頓死有りと。
 

10月17日 己卯
  叡岳の悪僧中に俊章と云う者有り。年来豫州に與し断金の契約を成す。仍って今度牢
  籠の間、数月これを穏容せしむ。また奥州に至り赴くの時は、伴党等を相卒い長途を
  送る。帰洛の後、謀叛を企てるの由その聞こえ有り。仍って内々彼の左右を窺い、そ
  の身を召し進すべきの旨、在京の御家人等に仰せらると。
 

10月20日 壬午
  景能この間鶴岡の馬場の辺に於いて小屋を構う。これ宮寺を警固せんが為なり。今日
  移徙の儀有り。而るにその庭上多く樹を栽え、各々紅葉盛んにして錦の如し。太だ興
  を催すの由これを申せしむるに依って、二品彼の所に入御す。若宮の別当参会す。御
  酒宴の間、兒童延年に及ぶと。
 

10月25日 丁亥
  豫州を追討すべきの由、宣旨状の案文到着す。正文に於いては、官史生奥州に持ち向
  かうべしと。
     文治四年十月十二日      宣旨
   前の伊豫の守源義経忽ち奸心を挿み、早く上都を出て恣に偽言を巧み、奥州に渉り
   赴く。仍って前の民部少輔藤原基成並びに秀衡子息泰衡等に仰せ、彼の義経を召し
   進すべきの由、宣旨を下され先にをはんぬ。而るに皇命を恐れず猥りに子細を述ぶ。
   普天の下、豈以て然るべきや。しかのみならず義経当国の中を廻出するの由、慥に
   風聞有り。漸く月緒を送り、委しく捜索を加うに、定めてその隠れ無からんか。偏
   に野心に與するは朝威を軽んずるに非ざるや。就中泰衡祖跡を四代に継ぎ、己が威
   を一国に施す。境内の俗誰か随順せざる。重ねて彼の泰衡等に仰せ、不日にその身
   を召し進せしめよ。同意の思い有るに於いては、定めて臍を噛むの恨みを遺さんか。
   専ら鳳銜の厳旨を守り、梟悪の誘引に同ぜざれば、その勲功に随い、賜うに恩賞を
   以てす。もし凶徒に従い、逆節を図るに於いては、官軍を差し遣わし宜しく征伐せ
   しむべし。王事脆きこと靡し。敢えて違越すること勿れ。
                    蔵人右衛門権の佐藤原定経(奉る)
 

10月26日 戊子
  去る十八日六條殿上棟と。関東分の所課勤仕の輩は、事終わらば則ち下向すべし。仍
  って兼日その由を奉行職事に申し置くべきの旨、今日親能の許に仰せ遣わさると。