1188年 (文治4年 戊申)
 
 

11月1日 壬辰
  鶴岡宮の馬場の木無風にて顛倒す。景能子細を申す。仍って二品御参り御覧有り。仍
  って神馬・幣物を奉り解謝し給うと。
 

11月9日 庚子
  二品外甥の僧任憲参向す。未だ知ろし食さざるの間、尋ねられ給わんと欲するの処、
  故祐範子息の由を称す。仍って北面の客殿に召し入れ、慇懃の御談有り。彼の祐範は、
  季範朝臣の息、二品御母儀の舎弟なり。御母儀早世の時、七々の忌景を迎える毎に、
  澄憲法印を請じ唱導として仏経を讃歎す。しかのみならず、永暦元年二品伊豆の国に
  下向せしむるの時は、郎従一人を差しこれを送り奉り、毎月使者を進す。件の功今に
  思し食し忘れず。而るにその子息適々参上す。記念たるべきの由、太だ歓喜せしめ給
  うと。
 

11月18日 己酉 西風烈しく吹き雪降る
  今暁大庭の平太景能の宅の庭に於いて狐斃ると。怪異たるに依って以て閇門すと。今
  日、師中納言の奉書到来す。隠岐の守仲国申す国務の間の條々の事、尋ね成敗し給う
  べきの由と。
 

11月21日 壬子
  仲国朝臣訴えの事、御請文を献らるるの上、在廰等に下知し給う所なり。
   去る月二十七日の御教書、今月十八日到来す。謹んで拝見せしめ候いをはんぬ。隠
   岐の守仲国申す三箇條の事、これ頼朝成敗の條、下文を成し進上せしめ候なり。前
   司惟頼沙汰の中村別府に於いては、左右ただ勅定に有るべく候なり。この旨を以て
   申し上げしめ給うべく候。頼朝恐々謹言。
     十一月二十六日        頼朝

   下す 隠岐の国在廰等
    早く犬来並びに宇賀牧の外、宮内大輔重頼知行の所々、国衙進止せしむべき事
   右件の所々、平家領たるに依って、重頼を以て預所職に補し候いをはんぬ。而るに
   犬来・宇賀牧の外、平家領に非ざるの由、在廰等誓状に載せ国司に訴うと。、また
   奏聞を経るに依って、院より重ねて仰せ下さるる所なり。早く彼の両牧の外、重頼
   の沙汰を停止し、国衙の進止たるべきの由件の如し。以て下す。
     文治四年十一月二十三日

   下す 隠岐の国在廰資忠
    早く上洛を遂げ国司の下知を遵行すべき事
   右件の資忠は在廰の身として、国務を守るべきの処、国司の命に背き上洛せず。や
   やもすれば所当課役を難済するの由その訴え有るに依って、院より仰せ下さるる所
   なり。資忠の所為、甚だ以て不当なり。早く不日の上洛を遂げ、国務を遵行すべき
   の状件の如し。以て下す。
     文治四年十一月二十二日
 

11月27日 戊午
  景能父景宗の墳墓相模の国豊田庄に在り。而るに群盗競い来たり、彼の塚を掘り開き、
  納める所の重宝等を盗み取り去りをはんぬ。これを追奔すと雖も、その行方を知らず。
  この事の始めを思うに、去る比狐斃れるの由見い出す時なりと。人以て不思議と。