1188年 (文治4年 戊申)
 
 

12月6日 丁卯
  式部大夫親能の飛脚京都より参着す。去る月二十五日、東大寺郭内に於いて寺僧と武
  家使と闘乱し、相互に傷死す。疵を被る者数十人なり。今日二十九日、在京の士卒を
  以て南都に発向しめんと欲するの処、朝の大事たり、禁制を加うべきの旨、右武衛並
  びに親能に仰せらるるの間暫く留むと。則ち仰せに応じ、武士の発向を留めをはんぬ
  の由、師殿に申し上げる所なりと。これ高太入道を殺害する事に依って、尋ね沙汰す
  べきの由、二品下知し給うの間、親能使者を南都に遣わし尋ねんと欲するの処、その
  成敗を相待たず、忽ちこの狼藉出来すと。
 

12月11日 壬申
  豫州追討の事、宣旨を下さるるの上、院の廰の御下文を相副ゆ。官史生守康これを帯
  し奥州に赴く。今日参着す。八田右衛門の尉の宅に召し入れ、食禄を給う。また彼の
  御下文これを披かる。その詞に云く、
   院の廰下す 陸奥出羽両国司等
    早く両度の宣旨状に任せ、前の民部少輔藤原基成並びに秀衡法師子息泰衡等をし
    て、不日に源義経の身を召し進せしむべき事
   右件の義経、彼の基成・泰衡等召し進せしむべきの由、去る春忝なくも宣旨並びに
   院宣を下さるるの処、泰衡等勅命を叙用せず、詔使に驚くこと無く、猥りに違越の
   奸謀を廻らし、ただ披陳を詐偽に致す。就中、義経等猶群凶の余燼を結び、慥に陸
   奥の辺境に住すと。露顕の趣風聞すでにす。基成・泰衡等、身は王民として、地は
   帝土に居す。何ぞ強いて鳳詔に背き、愚かに蜂賊に與すべきや。結構若くは実たら
   ば、縡すでに篇籍に絶えんか。同意の科、責めて余り有り。慥に両度の宣旨に任せ、
   宜しく彼の義経の身を召し進せしむべし。もし猶容穏し符旨に遵わずんば、早く官
   軍を遣わし征伐すべきの状、仰せの所件の如し。両国司等宜しく承知すべし。違失
   すること勿れ。故に下す。
     文治四年十一月日          主典代織部正大江朝臣
      別当左大臣藤原          判官代河内の守藤原朝臣
      右大臣藤原            右衛門権の佐兼和泉の守藤原朝臣
      大納言兼右近衛大将藤原朝臣    摂津の守藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣         左近衛権の少将藤原朝臣
      権大納言兼右近衛大将藤原朝臣   少納言兼侍従藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣         勘解由次官平朝臣
      権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣 権右中弁藤原朝臣
      権大納言藤原朝臣         右少弁兼左衛門権の佐藤原朝臣
      権中納言藤原朝臣         左少弁平朝臣
      権中納言兼右衛門の督藤原朝臣   右中弁藤原朝臣
      権中納言藤原朝臣         権中納言源朝臣
      権中納言兼太宰権の師藤原朝臣   権中納言藤原朝臣
      参議藤原朝臣           参議左大弁兼丹波権の守平朝臣
      参議左衛門の督藤原朝臣      右京大夫兼因幡権の守藤原朝臣
      宮内卿藤原朝臣          内蔵の頭藤原朝臣
      右近権の中将兼播磨の守藤原朝臣  修理大夫藤原の朝臣
      大蔵卿兼備前権の守藤原朝臣    造東大寺長官左中弁藤原朝臣
      修理権大夫藤原朝臣        丹波の守藤原朝臣
 

12月12日 癸酉
  因幡の前司廣元の使者京都より到来す。申して云く、今月三日、熊野参詣進発する所
  なり。而るにその精進中、御感の仰せを蒙ると。閑院並びに六條殿修造以下、事に於
  いて勤節し、殊に神妙なりと。凡そ歓喜の涙抑え難し。この仰せ、偏に陰徳の致す所
  かと。次いで廣元知行周防の国嶋末庄の事、女房三條の局折紙を捧げ所望するの間、
  師中納言の奉行として知行の由緒を尋ねらるるの間、子細を注し状を進しをはんぬ。
  定めて直に仰せ下さるるか。廣元言上の様を知ろし食されんが為、彼の状の案文を進
  すの由と。
   周防の国嶋末庄地主職の事
   右件の庄は、彼の国大嶋の最中なり。大嶋は、平氏謀叛の時、新中納言城を構え、
   居住旬月に及ぶの間、嶋人皆以て同意す。爾より以降、二品家の御下知として、件
   の嶋に地主職を置かるるの許なり。毎事庄務の例を守り、更に新儀の妨げ無し。尋
   ね捜さるるの処、定めてその隠れ無からんか。但し別の御定に於いては、左右に及
   ばず候。早く重ねての仰せに随い進退すべく候。
 

12月16日 丁丑
  豫州に同意する所の山門の悪僧俊章の事、これを糺断せられんが為、早く召し進すべ
  きの旨、衆徒の中に仰せ遣わさる。彼の御書は善信これを草す。その詞に云く、一両
  の奸謀に依って、爭か諸徳の造意を構えんや。自今以後、梟悪の衆を撰退せられば、
  定めて良人烈悪の名を削らしめ給うかと。
 

12月17日 戊寅
  式部大夫親能の男一法師の冠者能直、右近将監に任ずの由、営中に参賀す。これ無双
  の寵仁なり。御内挙に依って去る十月十四日拝任すと雖も、この間病痾相侵し、相模
  の国大友郷に住す。今日始めて出仕すと。則ち御前に召す。
 

12月18日 己卯
  二品走湯山に参らしめ給う。南山の住侶等臈次の事、今度これを治定すと。
 

12月24日 乙酉
  権右中弁親経の奉書並びに師中納言の書状等参着す。これ造太神宮役夫工米の事、関
  東御分の国々の所済、早く沙汰を致さるべきの由なり。但しその内勅免の所処相交じ
  ると。
 

12月30日 辛卯
  親能申し送りて云く、六條殿造営の間、所課屋の事、丁寧の勤めを致すの由、殊に御
  感の仰せを蒙る所なり。公私の眉目たるかの旨、二品太だ喜悦せしめ給うと。