1189年 (文治5年 己酉)
 
 

2月3日 癸亥 晴 [玉葉]
  また頭の弁定長朝臣を召す。大内修造の国々、所詮関東に仰すべき事を仰す。
 

2月9日 [源頼朝下文(東京大学史料編纂所蔵)]
          頼朝花押
  下す 嶋津庄地頭忠久
   早く庄官等を召し進らしむべき事
  右件の庄官中、武器に足るの輩は、兵杖を帯び、来たる七月十日以前に、関東に参着
  すべきなり。且つは見参に入らんが為、各々忠節を存ずべきの状件の如し。
    文治五年二月九日
 

2月12日 甲申
  右武衛の使者参着す。源豫州に與するの族、猶所存有るかの由、内々これを申さるる
  に依ってなり。また大内修造の事、すでに御沙汰に及ぶ。治承の注文を以て関東に下
  さるべきの由その聞こえ有りと。
 

2月21日 癸巳
  箱根の児童等、召しに依って去る夜参着す。これ来月三日鶴岡の舞楽に勤仕せんが為
  なり。童形八人、増寿・筥熊・壽王・閇房・楠鶴・陀羅尼・彌勒・伊豆石丸等なり。
  別当坊に於いて今日より調楽を始む。山城の介これを奉行す。
 

2月22日 甲午
  御使(雑色時澤)を京都に発せらる。伊豫の守逐電の後、御沙汰の次第頗る以て寛宥
  の間、人猶凶悪を事とすべし。尤も急速の御沙汰に及ぶべきの趣これを申さると。
  一、奥州住人藤原泰衡、義顕を容隠せしむの上、謀叛に與同すること疑う所無きか。
    御免を蒙り誅罰を加えんと欲する事。
  一、頼経卿は義顕に同意するの臣なり。解官追放せらるべきの由、先度言上しをはん
    ぬ。而るに勅勘の号有りと雖も、今に在京す。欝訴相貽る事。
  一、按察大納言(朝方卿)・左少将宗長・出雲侍従朝経・出雲目代兵衛の尉政綱・前
    の兵衛の尉為孝、この輩義顕に同意するの科に依って、見任を解却せらるべき事。
  一、山僧等兵具を構え、義顕に同意する事、結構の至り、御誡め有るべきの由、先日
    言上するの間、その旨宣下をはんぬるの趣、勅答有りと雖も、なお弓箭・太刀・
    刀山上に繁昌するの由、風聞有る事。
  一、上皇の御夢想に依って、平家縁坐の流人召し返さるべき事、僧並びに時實・信基
    等朝臣が如き、何事か有らんや。召し返さるる條勅定有るべき事。
  一、崇敬の六條若宮は御所の近辺たり。祭祠等の事に就いて、定めて狼藉の事相交る
    か。殊に恐れ存ずる事。
 

2月25日 丁酉
  御使(雑色里長)を奥州に遣わさる。泰衡の形勢を伺わしめんが為なり。
 

2月26日 戊戌
  去年奥州に下さるる所の官使守康すでに上洛す。今日鎌倉に逗留す。八田右衛門の尉
  知家に仰せ饗禄有り。守康の申す如きは、與州の在所露顕す。早く召し進すべきの由、
  泰衡請文に載せ言上すと。仰せに曰く、この事、泰衡の心中猶測り難し。固く義顕に
  同意するの間、先日勅定に背きこれを召し進せず。而るに今一旦の害を遁れんが為、
  その趣を載すと雖も、大略謀言か。殆ど信用に能わずと。
 

2月27日 己亥
  鶴岡の臨時祭例の如し。二品廻廊に御参り。佐々木の三郎盛綱御劔を役す。
 

2月28日 庚子 霽
  丑の刻に及び、住吉小大夫昌泰参り申して云く、今夜異星見ゆ。彗星たるかと。二品
  則ち御寝所より庭上に出御しこれを覧る。三浦の十郎義連・小山の七郎朝光御前に在
  り。梶原源太景季・八田の太郎朝重御後に候し、帯劔す。夜中出御の儀常に此の如し。
  これ皆近臣なり。
 

2月30日 壬寅
  長門の国阿武郡は、没官領の内たるの間、勧賞として土肥の彌太郎遠平に賜うと雖も、
  御造作の杣取りの為地頭職を去り進すべきの由、勅定有るに依って、退出すべきの由
  仰せらるるの処、遠平代官今に居住するの由遠聞に及ぶの間、重ねて御書を遣わさる。
   下す 長門の国阿武郡
    前の地頭遠平代官、早く郡内を退出せしむべき事
   右件の地頭職、停止せしむべきの由、院の廰の御下文を成し下さるるの処、遠平代
   官今に淹留し、濫妨を致すの由その聞こえ有り。所行の旨、甚だ以て不当なり。早
   く郡内を退出せしむべきの状件の如し。以て下す。
     文治五年二月三十日
  また安房・上総・下総等の国々、多く以て荒野有り。而るに庶民耕作せざるの間、更
  に公私の益無し。仍って浪人を招き居き、これを開発せしめ、乃貢に備うべきの旨、
  その所の地頭等に仰せらると。