1189年 (文治5年 己酉)
 
 

3月3日 乙巳 霽
  鶴岡法会これを始行せらる。巳の刻二品御参宮。別当法眼圓暁並びに供僧等着座す。
  舞楽・馬場の流鏑馬(十五騎)・相撲(十番)等同じくこれを始めらる。
 

3月5日 丁未
  前の平大納言時忠卿、去る月二十四日未の刻、能登の国の配所に於いて薨るの由、今
  日関東に達す。智臣の誉れ有るに依って、先帝の朝、平家在世の時諸事を補佐す。当
  時と雖も、朝廷の為惜しむべきかの由、二品仰せ下さる。彼の年齢御不審有り。数輩
  御前に候すと雖も、覚悟の人無し。仍って大夫屬入道に尋ねらるるの処、六十二の由
  これを申すと。
 

3月8日 辛丑 [玉葉]
  関東頼経配流の事を申す。急ぎ申し沙汰すべきの故と。
 

3月10日 壬子
  片岡の次郎常春奇謀の聞こえ有るに依って、領所等(下総の国三崎庄・舟木・横根)
  を召し放たると雖も、元の如く返し付けらるるの処、沙汰人等、日者の融を以て忽緒
  せしむの由訴え申すの間、停止すべきの旨仰せ下さると。
 

3月11日 癸丑
  大内殿舎の門・廻廊・築垣等破壊するの間、修造せらるべきの由、去る月十七日の院
  宣、今日到来す。これ師中納言所労の間、今に遅引に及ぶと。

[玉葉]
  この日流人を行わる。前の刑部卿頼経伊豆の国に流すと。先例必然ならず。日次を憚
  るの由外記申す所なり。
 

3月13日 乙卯 快晴
  鶴岡八幡宮の傍らに、この間塔婆を建てらる。今日九輪を上ぐ。二品監臨し給う。主
  計の允行政これを奉行す。還御の後、去る十一日の院宣の御請文を整えらる。
   二月十七日の御教書、三月十一日到来す。両状の仰せ、跪いて以て承り候いをはん
   ぬ。
   一、大内殿舎の門・廻廊、及び築垣の事
    右明年正月以前に修造せしむべきの由、頭の弁の奉書、拝見し給い候いをはんぬ。
    この御時尤も御沙汰有るべく候。先例の符案に任せ、所課の諸国に仰せ、その勤
    めを致さるべく候なり。然れば頼朝知行八箇国の分は、別紙に注し載せ下し預か
    るべく候。閑院の御修理と云い、六條殿の経営と云い、連々勤仕にては候へども、
    その事を勤めて候へばとて、この事をば更に辞退の思い無く候。朝家の御大事と
    云い、御所中の雑事と云い、何箇度候と雖も、頼朝こそ勤仕すべき事にて候へば、
    愚力の及び候程は奔走せしむべく候。但し諸国日を遂って、庄園は増加仕り候。
    国領は減少し候へば、受領の力も皆察せられ候。定めて計略無く候か。尤も以て
    不便に思い給い候。然れども頼朝知行の国々は、縦え然る如き仰せにても、全く
    善悪を顧みるべからず候。方々の公事、堪に随い相営み候なり。
   一、熊野御領播磨の国浦上庄の事
    右有限の年貢は、湛政徴納せしむの由、景時代官陳べ申すの旨見ると雖も、やや
    もすれば社役を闕怠し、歎き思し食す次第なり。彼の御庄一所は、枉げて地頭職
    を停止せしむべきの由、修理権大夫の奉書、同じく拝見し給い候いをはんぬ。御
    評定の趣左右に及ぶべからず候。早く景時の地頭職を停止せしむべきの由、直に
    庄家に仰せ下さるべく候なり。その後もし対捍申せしめ候わば、重ねて下知を加
    うべく候。縦え没官領にて候とも、別の御定をば、爭か左右を申せしむべく候や。
    且つは長門の国阿武御領は平家所領にて候へば、實平西国より下向の時、知行仕
    り候き。仍ってまた相継いで遠平沙汰し候いつれども、御定の趣に背かず沙汰去
    らしめ候いをはんぬ。それも先ず以て直に仰せ下され、次いで下知を加えしめ候
    き。また鎮西三猪庄の地頭義盛を停止せしめ候ひし次第も此の如く候き。凡そ御
    定の趣、皆以て此の如く沙汰を致し候ものなり。この旨を以て披露せしめ給うべ
    く候なり。頼朝恐惶謹言。
     三月十三日          頼朝(請文)
 

3月20日 壬戌
  亥の刻、右武衛の使者参着し、消息(去る十三日の状)を献らる。去る九日、奥州の
  基成朝臣並びに泰衡等の請文到来す。義顕を尋ね進すべきの由これを載す。而るに法
  皇この間御仏事の為天王寺に御坐す(去る月二十二日御幸)。件の請文叡覧に備うの
  後、早く召し進すべきの由、重ねて仰せらるべきの旨、彼の寺より態と以て殿下に申
  さる。また同十二日、前の刑部卿頼経卿伊豆の国に配流せらるべきの由宣下す。子息
  宗長同前。この外の事等、條々皆これを勅裁有るべし。師中納言定めて具にこれを申
  せらるるか。てえれば、彼の卿の奉書に云く、
   去る月二十二日の御消息、今日到来す。條々申せしめ給うの趣、委しく聞こし召し
   をはんぬ。出雲目代右兵衛の尉政綱の事、不日にその身を召し上すべきの由、按察
   大納言に仰せられをはんぬ。彼の卿の申状、且つは不審を散ぜんが為下し遣わす所
   なり。抑も彼の卿欝緒の條、何の由緒に依るや。更に思し食し寄らざる事なり。返
   す々々驚き聞こし食すものなり。もし僻事たらば、人の為尤も不便の事か。此の如
   き事、眞偽を尋ね決せられ宜しかるべきか。件の消息、早く進覧せしめ給うべし。
   披見すべきの故なり。彼の卿左右無く誓状を書き進す。恐れ驚き申せしむの條、こ
   れを以て推察せしむべきか。政綱の所行に於いては、事もし実ならば、罪科の至り、
   左右に及ばざる事か。
   頼経朝臣の事、證文等出来せば、是非に及ばざる事か。早く配流せらるべきなり。
   息男左少将宗長、同じく解官せらるべきなり。朝の為不忠の輩、爭かその沙汰無か
   らんや。民部卿禅師、去々年召し禁しめらるるの処、沙汰を経て優免せしめをはん
   ぬと。去年千光の七郎沙汰の時、叡山に仰せ重ねて召さるるの処、去々年召し進し
   をはんぬるの後、行方を知らざるの由申す所なり。然れども猶求め進すべきの由仰
   せらるべきなり。召し出すの後、早く配流せらるべきなり。
   流人の事、攘災の為優免せらるべきや否や。一旦仰せ含めらるると雖も、更に恩免
   の儀無し。計り申せしめ給うの旨、尤もその謂われ有り。爭か輙く沙汰有るべきか。
   惟澄等の事勿論なり。前の兵衛の尉為孝、本より全く召し仕わるる者に非ず。今申
   せしめ給うに依って、右兵衛の督に相尋ねらるるの処、去る比すでに関東に下向す
   るの由申せしむ所なり。仍って彼の請文これを遣わす。抑も様々の結構を致すの輩
   も、君に仕う者をば、恐れを成し申さざるの由申せしめ給うの條、頗る欝し思し召
   すものなり。奉行の者たりと雖も、君の為不忠を存じ、世の為凶悪を好むの輩、優
   恕有りて何の益有るべきや。早く聞き及ぶに随い申せしめ給うべし。沙汰有るべき
   が故なり。去る比より天王寺に参籠せしめ御う所なり。これ多年の御願に依って思
   し食し立つ所なり。然れども朝務全く抛れず。且つは摂政に申し、且つは聞こし食
   す所なり。不審を散ぜんが為、事の次いでに仰せ遣わさるる所なり。
   奥州貢金の事、明年の御元服料と云い、院中の御用と云い、旁々所用等有り。而る
   に泰衡空しく以て懈怠す。尤も奇怪の事なり。早く催促せしめ給うべし。且つはま
   た国司に仰せられをはんぬ。
   以前の條々、院宣此の如し。仍って執啓件の如し。
     三月十日           太宰権の師籐
  重ねて仰す
   六條若宮御所近辺たるの事、申せしめ給うの旨聞こし食しをはんぬ。近々と雖も、
   全く狼藉の事無し。更に憚らしめ給うべからざるの由候所なり。この事申せしめ給
   う御消息、去る月二十七日到来し候所なり。條々の事、頭の弁天王寺に祇候するの
   時、彼の人に付け候の間、去る七日帰洛す。御返事を仰せられ候所なり。而るに按
   察使證文は天王寺に進し、奏覧を経候と。仍って今に遅々す。到来に随い申し候所
   なり。御不審の為申し候なり。

[芦名浄楽寺毘沙門天像・不動明王像胎内銘札 (他に釈迦三尊)]
          巳        庚  大願主平義盛芳縁小野氏
  文治五年 三月廿日      大仏師興福寺内相応暁勾當運慶小仏師十人
            酉        戌    執筆金剛仏子尋西浄花房
 

3月22日 甲子
  成勝寺執行法橋昌寛使節として上洛す。御消息を師中納言に献ぜらる。これ泰衡自由
  の請文、聊か御許容の限りに非ず。速やかに追討の宣旨を下さるべきの由、重ねて申
  さるるに依ってなり。またこの次いでを以て、鶴岡塔供養の願文調え給うべきの旨内
  々所望す。同導師の事、然るべきの僧一人計り申請せしめ給うべしてえり。
 

3月30日 壬申 霽
  白気天を経て、北東の魁星を貫く。長五丈余りと。