1189年 (文治5年 己酉)
 
 

5月4日 癸亥 天陰 [玉葉]
  この日、太上法皇四天王寺に於いて千部法華千口持経者等を供養す。去る二月二十二
  日より当寺に御参籠。手ずから千部経を転読し、毎日三時の護摩を修せしめ給う。今
  日結願に相当たり、殊にこの大善を修せらるる所なり。
 

5月8日 丁卯
  鶴岡宮寺内の新造の塔婆、朱丹を塗らるるなり。行政・俊兼等これを奉行す。当宮の
  別當・供僧等群集すと。
 

5月17日 丙子
  伊豆の国の流人前の律師忠快を召し返すべきの由、宣下状到着す。去る月十五日源中
  納言通親・左大弁宰相親實・少納言重継朝臣・左少弁定経等参陣す。奉行職事宮内大
  輔家實と。同時に召し返さるる流人、前の内蔵の頭信基朝臣(備後の国)・前の中将
  時實朝臣(但し城外に及ばずと)・前の兵部少輔尹明入道(出雲の国)・藤原資定(淡
  路の国)・前の僧都全眞(安藝の国)・前の法眼能圓(法勝寺前の上坐、備中の国)・
  前の法眼行会(常陸の国)・熊野前の別当等なり。
 

5月19日 戊寅
  鶴岡塔供養の事、来月九日たるべきの由定めらるるの間、御導師・御願文等の事、先
  日師中納言に申されをはんぬ。仍って唱導並びに伴僧等の施物已下の事、日来その沙
  汰有り。今日、先ず龍蹄八疋南面に於いてこれを覧る。行政・俊兼・盛時等これを奉
  行す。武蔵の守御前に於いて御馬を立つ。次第、
   一疋 河原毛 千葉の介進す    一疋 葦毛 小山兵衛の尉進す
   一疋 黒   信濃の守進す    一疋 栗毛 源蔵人大夫進す
   一疋 鴾毛  三浦の介進す    一疋 糟毛 佐々木四郎左衛門の尉進す
   一疋 黒栗毛 遠江の守進す    一疋 黒  相模の守進す
 

5月22日 辛巳
  申の刻、奥州の飛脚参着す。申して云く、去る月晦日、民部少輔の館に於いて與州を
  誅す。その頸送り進す所なりと。則ち事の由を奏達せられんが為、飛脚を京都に進せ
  らる。御消息に曰く、
   去る閏四月晦日、前の民部少輔基成の宿館(奥州)に於いて、義経を誅しをはんぬ
   るの由、泰衡申し送り候所なり。この事に依って、来月九日の塔供養延引せしむべ
   く候。この趣を以て洩れ達せしめ給うべし。頼朝恐々謹言。
  また板垣の三郎兼信違勅の事有り。仍って殊に尋ね沙汰すべきの由、院宣を下さるる
  の間、今日、二品御請文を進せらるる所なり。
   太皇大后宮御領駿河の国大津御厨の地頭兼信不当の事、謹んで承り候いをはんぬ。
   此の如く仰せ下され候の上、宮より仰せ給いて候へば、地頭職に於いては、左右無
   く改定せしめ候いをはんぬ。而るに兼信の所犯軽からざるの由、仰せ下され候と雖
   も、この條私に計り沙汰すべく候に非ざるなり。所当の罪科を勘ぜられ、何にも御
   沙汰有るべく候。もし配流に行われ候わば、別の御使を下し遣わされて、その身を
   召し上げ、御沙汰有るべく候。大宮より仰せ下さるるの状の如きは、罪科の條左右
   に及ばざる事なり。この旨を以て申し上げしめ給うべく候。恐々謹言。
     五月二十二日         頼朝
 

5月29日 戊子
  師中納言(経房卿)の使者到着す。塔供養の願文一通を進せらるる所なり。草は新籐
  中納言兼光卿、清書は堀河大納言忠親卿と。また錦の被物一重・綾の被物二重これを
  進せらると。

[玉葉]
  今日、能保朝臣告げ送りて云く、九郎泰衡の為誅滅せられをはんぬと。天下の悦び何
  事かこれに如かずや。実に仏神の助けなり。抑もまた頼朝卿の運なり。言語の及ぶ所
  に非ざるなり。