閏4月1日 庚寅
右武衛の使者参着す。申さるる條々、去る月二十日大内修造の事始めなり。籐中納言
兼光・左少弁棟範・大夫史廣房等これを奉行す。御管領の八箇国、その役に宛てしめ
給うべきか。官符未到以前たりと雖も、先ず内々触れ申すべきの由院宣を蒙るてえり。
また院の御厩司の事仰せ付けられ候なり。而るにこの職、元は按察大納言の奉行なり。
彼の亜相御欝陶に依って、官職を改めらるるの処、能保御縁者を以て、御意を伺わず、
左右無く領状を申すの條、御聴に達するの時、所望を成すかの由、定めて御疑心を貽
さるべし。仍って辞し申しをはんぬてえり。
閏4月2日 辛卯
御台所鶴岡八幡宮に参り給う。若公扈従し給う。
閏4月4日 癸巳
武衛の御返事を献ぜらる。造内裏の事、早く沙汰を致すべし。御厩司の事、勅定の上
は辞し申せしめ給うべきに非ず。美津の御牧は、承り及ぶ如きは、御厩管領地たるか。
後代の為、今度尤も申し付けしめ給うべきやと。仍って彼の使者帰洛すと。
閏4月8日 丁酉
二品鶴岡宮に参り給う。これ塔営作の事を覧んが為なり。大略成功す。その上工等を
御前に召し、仰せて云く、来六月上旬供養有るべし。遅怠すべからず。各々白布二端
を賜うと。
[玉葉]
晩頭五位蔵人家實天王寺より帰参す。余廉前に召し子細を問う。家實條々の事を仰す。
奥州追討の事、仰せに云く、追討の事本より然るべきの由思し食すの上、此の如く申
せしめ尤も神妙なり。早く宣旨を成し賜うべく思し食す。来六月塔供養の由聞こし食
す。もし彼の間を過ぎ遣わすべきか。将に今明遣わすべきか。申せしむに随うべし。
且つまた官使出立の間、自ずと日数を経るか。仍って且つは用意の為仰せ遣わす所な
り。抑も伊勢遷宮、並びに造東大寺は、我が朝第一の大事なり。而るに征伐に赴くの
間、諸国定めて静かならざるか。然れば彼の両事の妨げと成るべし。件の條殊に召し
仰せ造宮造寺の害を致すべからず。公の為私の為、これを以て追討の祈祷に用ゆべき
なりてえり。この趣を以て経房卿御教書を頼朝卿の許に書き遣わすべしてえり。余仰
す。早く彼の卿の亭に行き向かい、この子細を仰すべきものなり。
閏4月21日 庚戌
泰衡義経を容隠する事、公家爭か宥めの御沙汰有るべきや。先々申請の旨に任せ、早
く追討の宣旨を下さるれば、塔供養の後、宿意を遂げしむべきの由、重ねて御書を師
中納言に遣わさると。
閏4月30日 己未
今日陸奥の国に於いて、泰衡源與州を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品の仰
せに依ってなり。豫州民部少輔基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その
所に馳せ至り合戦す。與州の家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。與州持仏堂に入
り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと。
前の伊豫の守従五位下源朝臣義経(義行また義顕と改む。年三十一)
左馬の頭義朝朝臣六男、母九條院の雑仕常盤。寿永三年八月六日、左衛門の少尉
に任じ使の宣旨を蒙る。九月十八日叙留す。十月十一日、拝賀(六位の尉の時、
畏み申さず)、則ち院内昇殿を聴す。二十五日、大甞會御禊ぎの行幸に供奉す。
元暦元年八月二十六日、平氏追討使の官符を賜う。二年四月二十五日、賢所西海
より還宮す。朝所に入御の間供奉す。二十七日、院の御厩司に補す。八月十四日、
伊豫の守に任ず(使元の如し)。文治元年十一月十八日、解官す。