1189年 (文治5年 己酉)
 
 

7月1日 己未
  鶴岡放生会なり。巳の刻二品御出で。供奉の輩去る月九日の人数を用いらる。但し勅
  使河原の三郎御調度を懸く。先ず法会、舞楽舞童八人左右に相分つ。次いで馬場の儀、
  馬長(十騎)・競馬(五番、皆老翁なり)・流鏑馬(十六騎)・相撲(十六番)。黄昏
  に及び還御すと。
 

7月5日 癸亥
  駿河の国富士御領の帝釈院に田地を寄付せらる。これ奥州征伐の祈祷なり。江間の小
  四郎これを沙汰す。
 

7月8日 丙寅
  千葉の介常胤新調の御旗を献る。その長入道将軍家(頼義)の御旗の寸法に任せ、一
  丈二尺二幅なり。また白糸の縫物有り。上方に伊勢太神宮・八幡大菩薩と。下に鳩二
  羽(相対す)を縫うと。これ奥州追討の為なり。治承四年、常胤軍勢を相率い参向す
  るの後、諸国帰往し奉る。その佳例に依って、今度御旗の事、別して以てこれを仰せ
  らる。絹は小山兵衛の尉朝政これを進す。先祖将軍輙く朝敵を亡ぼすが故なり。この
  御旗は、三浦の介義澄を以て御使として、鶴岡別当坊に遣わさる。宮寺に於いて、七
  箇日加持せしむべきの由仰せらると。また下河邊庄司行平仰せに依って御甲を調え献
  る。今日自らこれを持参す。櫃の蓋を開き御前に置く。紺地錦の御甲に直垂上下を相
  副ゆ。御覧の処、冑後に笠標を付く。仰せに曰く、この簡袖に付けるが尋常の儀たる
  か、如何てえり。行平申して云く、これ曩祖秀郷朝臣の佳例なり。その上、兵の本意
  は先登なり。先登に進むの時、敵は名謁を以てその仁を知る。吾が衆は後よりこの簡
  を見て、必ずその先登の由の者を知るなり。但し袖に付けしめ給うべきや否や。御意
  に在るべし。此の如き物を調進するの時、家様を用いるは故実なりと。時に御感を蒙
  る。
 

7月9日 丁卯
  前の大蔵卿泰経朝臣は、義経朝臣に與するに依って、二品欝し申し給うの間、罪科を
  被る所なり。而るに義経すでに敗北するの上は、免除せらるべきかの由、内々師中納
  言に仰せらる。都督その御教書を以てこれを送り献らる。今日到来すと。
   泰経卿の事、度々二位卿に仰せられをはんぬ。然れども今に優免の儀無し。また存
   じ申せらるの旨その謂われ有るに依って、沙汰に及ばず。而るに此の如き罪科の輩、
   多々優免するの上、義経の事一定か。然れば免ぜられんやの由、便宜の時相計り仰
   せ遣わすべきの由、内々御気色候なり。仍って執啓件の如し。
     七月一日           左中弁
   謹上 太宰権の師殿
 

7月10日 戊辰
  太神宮領伊勢の国沼田御厨の土民等訴状を捧げ、去る比参着す。当所、元畠山の次郎
  重忠に充て賜うの処、員弁大領家綱の訴状に依ってこれを収公せられ、吉見の次郎頼
  綱に賜いをはんぬ。而るに頼綱また不義を巧み、民戸を追捕し、財宝を点定すと。仍
  って今日沙汰有り。平民部の丞盛時の奉行として、早く彼の非據を停止せしむべきの
  由、下知すべきの旨、山城の介久兼に仰せ遣わさる。征伐の御祈祷を抽んぜんが為、
  以て急速の裁許に及ぶと。
 

7月12日 庚午
  飛脚を京都に進せらる。御消息に云く、奥州の泰衡を追討べきの由言上先にをはんぬ。
  定めて宣旨を成し下され候かの由存案の間、軍士を催し集め、すでに数日を送り候い
  をはんぬ。また宣旨は、官使を下され候わば、遅留すべく候。左兵衛の督に仰せ、彼
  の飛脚を以て給うべしてえり。
 

7月14日 壬申
  征伐の為奥州に赴かしめ給うべきに依って、御共として波多野の五郎義景を催せらる
  るの処、進奉するの後、所領を幼息に譲る。これ戦場に向かい、本国に帰るべからざ
  るが故なりと。二品これを聞こし食し、頗る御感有りと。
 

7月16日 甲戌
  右武衛の使者後藤兵衛の尉基清、並びに先日これより上洛の飛脚等参着す。基清申し
  て云く、泰衡追討の宣旨の事、摂政・公卿已下、度々沙汰を経られをはんぬ。而るに
  義顕出来す。この上猶追討の儀に及わば、天下の大事たるべし。今年ばかりは猶予有
  るべきかの由、去る七日院宣を下さるるなり。早く子細を達すべきの由、師中納言こ
  れを相触る。何様たるべきやと。この事を聞こしめ給い、殊に御鬱憤有り。軍士多く
  以て予参するの間、すでに若干の費え有り。何ぞ後年を期せんや。今に於いては、必
  定発向せしめ給うべきの由仰せらると。
 

7月17日 乙亥
  奥州に御下向有るべき事、終日沙汰を経らる。この間三手に相分けらるべし。てえれ
  ば、所謂東海道の大将軍は千葉の介常胤・八田右衛門の尉知家、各々一族等並びに常
  陸・下総両国の勇士等を相具し、宇多行方を経て岩城岩崎を廻り、逢隈河の湊を渡り
  参会すべきなり。北陸道の大将軍比企の籐四郎能員・宇佐美の平次實政は、下道を経
  て、上野の国高山・小林・大胡・佐貫等の住人を相催し、越後の国より出羽の国念種
  関に出て、合戦を遂ぐべし。二品は大手、中路より御下向有るべし。先陣は畠山の次
  郎重忠たるべきの由これを召し仰す。次いで合戦の謀り、その誉れ有るの輩無勢の間、
  定めて勲功を彰し難きか。然れば勢を付けらるべきの由定めらる。仍って武蔵・上野
  両国内の党者等は、加藤次景廉・葛西の三郎清重等に従い、合戦を遂ぐべきの由、義
  盛・景時等を以て仰せ含めらる。次いで御留守の事、大夫屬入道に仰す所なり。隼人
  の佐・藤判官代・佐々木の次郎・大庭の平太・義勝房以下の輩候すべしと。
 

7月18日 丙子
  伊豆山の住侶専光房を召し、仰せて曰く、奥州征伐の為潛かに立願有り。汝は持戒の
  浄侶なり。留守に候し祈請を擬すべし。将又進発の後、二十箇日を計り、この亭の後
  山に於いて、故に梵宇を草創すべし。年来の本尊正観音像を安置し奉らんが為なり。
  別して工匠に仰すべからず。汝自ら柱ばかりを立て置くべし。営作に於いては、以後
  沙汰有るべしてえり。専光房領状を申す。また伊豆の国北條に於いて伽藍を立つべき
  の由御立願有り。同じく彼の征伐御祈祷の為なりと。今日能員奥州に進発すと。


7月19日 丁丑
  巳の刻、二品奥州の泰衡を征伐せんが為発向し給う。この刻景時申して云く、城の四
  郎長茂は無双の勇士なり。囚人と雖も、この時召し具せられば何事か有らんやと。尤
  も然るべきの由仰せらる。仍ってその趣を長茂に相触る。長茂喜悦を成し御共に候す。
  但し囚人として旗を差すの條、その恐れ有り。御旗を給うべきの由これを申す。而る
  を仰せに依って私旗を用いをはんぬ。時に長茂傍輩に談りて云く、この旗を見て、逃
  亡の郎従等来たり従うべしと。御進発の儀、先陣は畠山の次郎重忠なり。先ず疋夫八
  十人馬前に在り。五十人は人別に征箭三腰(雨衣を以てこれを裹む)を荷なう。三十
  人は鋤鍬を持たしむ。次いで引馬三疋、次いで重忠、次いで従軍五騎、所謂長野の三
  郎重清・大串の小次郎・本田の次郎・榛澤の六郎・柏原の太郎等これなり。凡そ鎌倉
  出御の勢一千騎なり。次いで御駕(御弓袋差し・御旗差し・御甲冑等、御馬前に在り)。
  鎌倉出御より御共の輩、
   武蔵の守義信   遠江の守義定  参河の守範頼     信濃の守遠光
   相模の守惟義   駿河の守廣綱  上総の介義兼     伊豆の守義範
   越後の守義資   豊後の守季光  北條の四郎      同小四郎
   同五郎      式部大夫親能  新田蔵人義兼     浅利の冠者遠義
   武田兵衛の尉有義 伊澤の五郎信光 加々美の次郎長清   同太郎長綱
   小山兵衛の尉朝政 同五郎宗政   同七郎朝光      下河邊庄司行平
   吉見の次郎頼綱  南部の次郎光行 平賀の三郎朝信    三浦の介義澄
   同平六義村    佐原の十郎義連 和田の太郎義盛    同三郎宗實
   小山田の三郎重成 同四郎重朝   籐九郎盛長      足立右馬の允遠元
   土肥の次郎實平  同彌太郎遠平  岡崎の四郎義實    同先次郎惟平
   土屋の次郎義清  梶原平三景時  同源太左衛門の尉景季 同平次兵衛の尉景高
   同三郎景茂    同刑部の丞景友 同兵衛の尉定景    波多野の五郎義景
   中山の四郎重政  同五郎為重   渋谷の次郎高重    同四郎時国
   大友左近将監能直 河野の四郎通信 豊嶋権の守清光    葛西三郎清重
      同十郎            江戸の太郎重長  同次郎親重            同四郎重通
      同七郎重宗        山内の三郎経俊  大井の次郎實春      宇都宮左衛門の尉朝綱
      同次郎業綱        八田右衛門の尉知家  同太郎朝重        主計の允行政
      民部の丞盛時      豊田兵衛の尉義幹  大河戸の太郎廣行    佐貫の四郎廣綱
      同五郎            同六郎廣義      佐野の太郎基綱        阿曽沼の次郎廣綱
   波多野の余三實方 小野寺の太郎道綱 工藤庄司景光    同次郎行光
   同三郎助光    狩野の五郎親光 常陸の次郎為重    同三郎資綱
   加藤太光員    同籐次景廉   佐々木の三郎盛綱   同五郎義清
   曽我の太郎助信  橘次公業    宇佐美の三郎祐茂   二宮の太郎朝忠
   天野右馬の允保高 同六郎則景   伊藤の三郎      同四郎成親
   工藤左衛門の尉祐綱 新田の四郎忠常 同六郎忠時     熊谷の小次郎直家
   堀の籐太     同籐次親家   伊澤左近将監家景   江右近次郎
   岡部の小次郎忠綱 吉香の小次郎  中野の小太郎助光   同五郎義成
   渋河の五郎兼保  春日の小次郎貞親 藤澤の次郎清近   飯富の源太宗季
   大見の平太家秀  沼田の太郎   糟屋の籐太有季    本間右馬の允義忠
   海老名の四郎義季 所の六郎朝光  横山権の守時廣    三尾谷の十郎
   平山左衛門の尉季重 師岡兵衛の尉重経 野三刑部の丞成綱 中條の籐次家長
   岡辺の六野太忠澄 小越右馬の允有弘 庄の三郎忠家    四方田の三郎弘長
   浅見の太郎實高  浅羽の五郎行長 小代の八郎行平    勅使河原の三郎有直
   成田の七郎助綱  高畠の大和太郎 塩谷の太郎家光    阿保の次郎實光
   宮六兼仗国平   河匂の三郎政成 同七郎政頼      中四郎是重
   一品房昌寛    常陸房昌明   尾藤太知平      金子の小次郎高範
 

7月25日 癸未
  二品下野の国古多橋の駅に着御す。先ず宇都宮に御奉幣御立願有り。今度無為に征伐
  せしめば、生虜一人神職に挙ぐべしと。則ち御上箭を奉らしめ給う。その後御宿に入
  御す。時に小山下野大掾政光入道駄餉を献る。この間紺の直垂上下を着す者御前に候
  す。而るに政光何者ぞやの由これを尋ね申す。仰せて曰く、彼は本朝無双の勇士熊谷
  の小次郎直家なりと。政光申して云く、何事に無双の号を候やと。仰せて云く、平氏
  追討の間、一谷已下の戦場に於いて、父子相並び、命を棄てんと欲すること度々に及
  ぶが故なりと。政光頗る咲いて、君の為命を棄てるの條勇士の所為なり。爭か直家に
  限らんや。但し此の如き輩は、顧盻の郎従無きに依って、直に勲功を励ましその号を
  揚げんか。政光の如きは、ただ郎従等を遣わし忠を抽んずばかりなり。所詮今度に於
  いては、自ら合戦を遂げ、無双の御旨を蒙るべきの由、子息朝政・宗政・朝光並びに
  猶子頼綱等に下知す。二品入興し給うと。
 

7月26日 甲申
  宇都宮を立たしめ給うの処、佐竹の四郎常陸の国より追って参加す。而るに佐竹持た
  しむ所の旗は、無文の白旗なり。二品これを咎めしめ給う。御旗と等しかるべからざ
  るが故なり。仍って御扇(出月)を佐竹に賜い、旗上に付くべきの由仰せらる。佐竹
  御旨に随いこれを付くと。
 

7月28日 丙戌
  新渡戸の駅に着き給う。すでに奥州近々の間、軍勢を知ろし食さんが為、御家人等に
  仰せ、面々の手勢を注せらる。仍って各々その着到を進す。城の四郎の郎従二百余人
  なり。二品驚かしめ給う。景時申して云く、長茂に相従うの輩本より数百人なり。而
  るに囚人たるの時、悉く以て分散す。今御共に候すの由を聞き群集せしむか。就中こ
  の辺は本国の近隣なりと。時に御気色快然と。
 

7月29日 丁亥
  白河関を越え給う。関明神御奉幣。この間景季を召す。当時初秋の候なり。能因法師
  の古風思い出さざるやの由仰せ出さる。景季馬を扣え一首を詠ず。
   秋風に草きの露をばはらはせて君がこゆれば関もりもなし